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美術史第100章『元禄文化の概要と絵画-日本美術14-』


生類憐れみの令で知られる元禄の将軍 綱吉

  17世紀後期から18世紀初期にかけての元禄時代には経済の急速な成長により、貨幣を使う習慣が農村部まで浸透、四木と呼ばれる桑、漆、檜、楮、三草と呼ばれる紅花、藍、麻、木綿などの商品作物の栽培が多く行われ、進んだ上方漁業が全国に伝播、瀬戸内海沿岸では塩田が作られ塩の生産体制が整えられ、綿織物、酒造業、窯業も発展し、問屋政家内工業が栄え、多くの人と物が行き交うようになったことで城下町、港町、宿場町、門前町、鳥居前町、鉱山町など様々な都市が全国に誕生、世界史的にも非常に多くの都市が建設された時代であると言える。

 京都と大阪は40万人、江戸は100万人の人口を抱え、それらを結ぶ東海道は世界で最も人の通る道となり、また、江戸時代には鉱山開発が進んだことで金銀銅が大量に生産されたが外国への流失で枯渇が見られ始め対策として貿易のさらなる制限や輸入していた絹や砂糖の国産化が行われた。

政治家・朱子学・歴史学・地理学・言語学者の新井白石
本草学・儒学の貝原益軒

 また、京都から出版業が開始し多くの出版物が出され、本草学・農学・医学・歴史学が発展、儒学が栄え、茶の湯も千家などにより各地で繁栄を続けた。

 この時代の文化は「元禄文化」と呼ばれ経済力を持った町人や武士が近畿を中心に文学・学問・美術を発展させ、次第に大阪が中心地へと変わり、関東も文化において重要になっていった時代でもあった。

松尾芭蕉
井原西鶴
近松門左衛門

 文学では松尾芭蕉に代表される俳句や井原西鶴に代表される仮名草子、近松門左衛門に代表される戯曲が誕生し、劇場が誕生したことで歌舞伎や狂言、人形浄瑠璃、説教節、琵琶音楽などの大衆芸能も大きな繁栄を見せた。

探幽「桐鳳凰図」
尚信「商山四皓」
安信「朝鮮通信使」
山楽「龍虎図屏風」
探幽「牡丹図襖」
山雪
山雪

 そして美術についてだが、絵画分野では狩野探幽が江戸城や名古屋城の障壁画を描き、これにより狩野派は幕府の御用絵師としての地位を確立し、探幽や狩野尚信、狩野安信などの系統は江戸狩野と呼ばれる一方、豊臣氏に支えていてそのまま京都に残った山楽や山雪の家系は京狩野と呼ばれた。

土佐三起
光起の源氏物語絵巻、二十帖『朝顔』
源氏物語絵巻、五帖『若紫』

 彼らは大名や旗本に絵の指導を行い城郭や屋敷を飾り、その一方で大和絵の系統では堺の土佐光起が京都に戻って朝廷に支え中国画の要素も取り入れた画風を確立し衰退していた土佐派を復興し、土佐派からは江戸に移った住吉派も生まれた。

尾形光琳『燕子花図』
尾形光琳の八橋図 六曲屏風一双
「波濤図屏風」
「竹梅図」

 京都では俵屋宗達の影響を受けた尾形光琳が活躍し、京都の富裕層を顧客に王朝文化の美術に学んで、宗達の装飾画の技法を抽象化や象徴性と写実性を入り交ぜて完成させたといえ、屏風だけでなく扇子や蒔絵、小袖なども手がけ「光琳模様」という言葉を生み出すほどで、その流派「琳派」は繁栄することとなり、現在でも尾形は江戸時代を代表する芸術家とみなされている。

菱川師宣

 また、安房出身で伝統的な狩野派、土佐派、長谷川派を学んだ菱川師宣という画家によってそれまで近畿で盛んに作られた御伽草子、舞曲、浄瑠璃正本、古典文学、軍記物などが書かれた木版本の挿絵に過ぎなかった挿絵絵画から、技巧的で、墨絵ではなく色鮮やかな、一枚絵で作品として成立する「浮世絵」が確立された。

 それまで版画は直接描いた絵に比べて価値が低いものと見做されていたが、この「浮世絵」以降は美術鑑賞の対象となり、また、浮世絵は基本的に版画で大量生産が可能であるため、安価に手に入って民衆の間で大きな流行を起こし、当時は当然、直接描いた肉筆画の方が価値あるものだったが、大量生産と版画という技法によって浮世絵は長く残り、独自の発展を遂げていくこととなる。

「見返り美人図」

 師宣の代表作「見返り美人図」は17世紀半ばに江戸で流行した背景のない所に美人を描く「寛文美人図」と同じような感じの絵で、浮世絵に多い版画ではない肉筆浮世絵に属し、これ以降、江戸では美人や役者を描いた浮世絵が愛好されるようになっていった。

清信
清信
祐信

 菱川師宣の後の江戸では役者絵と美人図を多く描き、歌舞伎絵の基礎を築いた鳥居清信が活躍、江戸歌舞伎絵の主流となるスタイルを確立し、これが近畿にも伝わると古典からのモチーフなど理知的な美を追求した西川祐信などが美人画を描いた。

清倍
安度

 江戸では清信の後継者で清信に負けず美人画と訳者絵で活躍した鳥居清倍や、師宣や清信の影響を受け独自画風を築いた奥村政信、工房で直接描く肉筆浮世絵の美人の立ち姿を量産した懐月堂安度とその一派が活躍した。

Shibai Uki-e, c. 1741–44
Taking the Evening Cool by Ryōgoku Bridge, 1745
Morita-za

 奥村政信は影響で墨一色で塗った「墨摺絵」、墨摺絵に丹色を主とする色をつけた「丹絵」や紅色を着色した「紅絵」、紅色・緑色・黄色などを着色した「紅摺絵」、を子にゼラチン入りの墨や黒い漆を塗った「漆絵」、墨色を下地に白で描く「石摺絵」などあらゆる技法を開拓していった。

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