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シルクロードの歴史12『モンゴル人とシルクロード-前史編-』

*中学生時代に作った書いた40ページくらいの短い奴です。改行などの部分は直していますが細かい部分は修正していません。悪しからず。


1. モンゴル帝国の基礎知識


 13世紀初頭、シルクロードの一旦を担うモンゴルをチンギス・ハンが統一、その後、西夏、金王朝、ホラズム朝などを征服し中国北部から中央アジアを制圧、バトゥという皇族のヨーロッパ遠征ではキプチャクやヴォルガ・ブルガール、ルーシ諸国、ポーランド、ハンガリー、ブルガリア、セルビア、グルジア、アルメニアなどを征服し東欧までを支配した。

モンゴル帝国の領土

 さらにフレグいう皇族の中東遠征軍はイスラム系のルーム・セルジューク朝やアイユーブ朝、キリスト教のヨーロッパ人が建てた十字軍諸国を支配下に入れ、イスラムの権威であるアッバース朝を滅ぼし、首都バグダードを徹底的に破壊した。

バグダードの戦い

 それらの一方、東洋では高麗を支配下に入れ南宋を滅ぼし東アジアをほぼ制圧し数百年ぶりの中華統一を果たし他の中国の国を同じような感じで、モンゴルは元王朝とも呼ばれるようになった。

2. 古代のモンゴル高原の歴史


 モンゴルを建国したモンゴル人はチュルク系諸民族とかなり似通った習慣や信仰を持つ"モンゴル系諸民族"と呼ばれる民族の一部族で、モンゴル高原など中国の北方には古くからチュルク系、モンゴル系、ツングース系、トカラ系、チベット・ビルマ系、イラン系などの遊牧民が入り乱れており、古代のモンゴル高原で並立していた三つの東胡、匈奴、月氏もそれぞれ、東胡はモンゴル系、匈奴はチュルク系、月氏はイラン系かトカラ系とされる。

 前2世紀の時点で存在していた北方異民族では、それぞれ鮮卑や烏桓はモンゴル系、濊と貊は朝鮮系、粛慎はツングース系、西の烏孫、大宛、康居はイラン系、丁零や堅昆はチュルク系、羌や氐はチベット・ビルマ系であると思われる。

 この中でモンゴル高原を初めて統一したのは匈奴の冒頓単于で、一時期は秦の始皇帝の築いた中華帝国が一度崩壊した後にそのシステムを受け継いで建てられ、現在の中国の基礎を築いたともされる漢王朝を服属させており、この匈奴に対し攻勢を行なって西に進出した武帝がシルクロードを作ることとなる。

匈奴の領土

 ちなみに匈奴はモンゴル高原で並立していた月氏族を追いやっており、そのまま周辺に残ったものは楼蘭や亀茲などのオアシス都市国家でシルクロード貿易を担い、西に逃げていった大月氏は最終的に北インドと中央アジアの一部を支配する「クシャーナ朝」を築きこちらもシルクロードの発展に寄与することとなった。

クシャーナ朝

 1世紀、匈奴が南と北に分裂すると北匈奴がモンゴル高原を支配するが、漢王朝と南匈奴の攻撃により衰退し、そこを東の鮮卑によって征服され、北匈奴は中央アジアに逃亡、南匈奴はそのまま中国で存続、鮮卑は檀石槐の時代でかつての匈奴帝国の領土のほぼ全域を支配するが、漢が崩壊して始まった三国時代、曹操の息子曹丕の建国した魏により属国化された。

3. モンゴル帝国以前のモンゴル高原の歴史


 三国時代を統一した「晋」の時代には鮮卑は拓跋、慕容、宇文、段、乞伏、禿髪といった部族に分裂しており、八王の乱で晋が混乱すると諸侯達はモンゴル高原の人々をイスラムの人がチュルク系民族を「マムルーク」として雇ったように、鮮卑の諸部族など周りの騎馬民族達を傭兵として雇い、その傭兵達の民族が徐々に政治的・軍事的に力をつけていった。

鮮卑の慕容部の兵隊

 そして、中国で残っていた南匈奴が晋に対して永嘉の乱を起こし、晋が南に逃げると、中国の北側や東側はチュルク系の匈奴人やモンゴル系の鮮卑人、チベット・ビルマ系の羌や氐、朝鮮系の高句麗人、系統不明の羯など傭兵に使われた騎馬民族達が中国式の王朝を建てる、まさにマムルークがイスラム式の王朝を多く建てたのと同じ現象が発生、この時代はたくさんの異民族とたくさんの国の時代というニュアンスで五胡十六国時代と呼ばれる。

五胡十六国時代の一時期

 一方モンゴルではチュルク系の高車人が北部、モンゴル系の鮮卑人の一派拓跋が代王朝を名乗り南部を支配、5世紀頃の南北朝時代にはモンゴル系の柔然が力を伸ばし、北魏(拓跋の代が改名した国)と対立、郁久閭社崙は柔然帝国の建国を宣言するが、結局、北魏に敗北して属国化された。

 6世紀にはチュルク系の「突厥」が柔然の支配から独立、そのままモンゴル高原を支配していた柔然と、トカラ盆地・アフガニスタン・ウズベキスタンなどを支配していた巨大遊牧帝国「エフタル」を滅ぼし、「堅昆」などを属国化、領土はユーラシア大陸の東端の中国北東部から、ヨーロッパとアジアの境界あたりでギリヨーロッパに入っているカザフスタン西部のアラル海にまで到達した。

突厥の領土

 突厥は東では中国の東部を支配していた北周王朝とは非常に友好的な関係を築き、東ではサーサーン朝ペルシアと激突した事で同じくサーサーン朝ペルシアと敵対するビザンツ帝国と同盟し、中国産の絹などの交易品を多く輸出した。

 また、突厥では文字の導入や仏教の導入が行われ、文化的にも発展、ちなみにこの頃にはすでにソグド人がシルクロードの立役者となっており、突厥の支配下に入った様々な民族が会話するための共通語はソグド語で、突厥が使った文字もソグド文字やソグド文字から派生した突厥文字である。

突厥文字

 しかし、その繁栄は数十年で崩れ去り、東西に分裂、東突厥はモンゴル高原周辺を支配し、南北朝時代を治め中華統一を果たした「隋」王朝が数十年で消えて「唐」王朝が起こると李世民によって属国化され、その後のモンゴルでは「回鶻(ウイグル)」や薛延陀などの部族が割拠することとなる。

分裂した突厥

 一方、タリム盆地からカスピ海までを支配した西突厥はサーサーン朝ペルシアと唐王朝に分割され消滅、その地域では突厥と同じチュルク系のカルルク人、オグズ人、突騎施、バシュミル人などが割拠、モンゴル高原では回鶻が東突厥を滅ぼして拡大、その後の安史の乱や吐蕃との戦争では唐に味方して奮戦するなど唐との友好関係を築き繁栄するが、840年、内戦と飢饉で弱った隙に北方のチュルク系堅昆に滅ぼされた。

 その20年ほど後にはモンゴル系タタル人が堅昆を追い出すが、タタルも数十年後にモンゴル系の契丹人が中国北部で建てた遼王朝の属国とされ、それから2百年ほど後にツングース系の女真族が遼から独立して金を建国し、そのまま遼を滅ぼし、金はモンゴルを放置したため、モンゴル高原にはケレイト、モンゴル、メルキト、ナイマンなどが割拠した。

当時のモンゴル高原の諸民族

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