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アイヌの歴史23『近世アイヌ-前編-』


松前城

 江戸幕府の支配下に下った蠣崎氏は松前氏を名乗り、その勢力は松前藩と呼ばれるようになり、江戸初期には松前藩の首都である松前城の城下町にて物々交換で交易が行われていたおり、一方でアイヌは交易や戦争で大きな幾つかの集団を形成するようになった。

 しかし、時代が進むと領地があまりない松前藩は藩士達に領地を与えられ無くなり、その代わりとして商場の管理を任せて、アイヌと交易する権利を与えることとした。 結果、交易権を手に入れた藩士達の一部は押し売りや乱獲などを行い、さらにアイヌの主要な輸出品目である鮭と日本の主要な輸出品目の米の値段の比が変わりアイヌ側の利益が減少、また、松前藩がアイヌの本州との交易を禁止し、これらにより、アイヌ達は松前藩に対し反感を持ったとされ、一方で松前藩は7万石に相当する利益を得て松前の町は1万以上の人口を抱える様になったとされる。

駒ヶ岳

 しかし、その一方で古くから対立するメナシクルとシュムクルという二つの集団が、おそらく蝦夷駒ヶ岳、有珠山、樽前山などが続けた大噴火した事により農業も漁業も大打撃を受けた事などで、勢力圏の間にある静内川の漁業権をめぐり戦争を行った。

シャクシャイン

 その中でメナシクルの族長カモクタインがシュムクルに殺害され、メナシクル族長には副長だったシャクシャインが就任、1655年、松前藩が戦争を仲介し戦争は一旦終結、これに、いち早くシュムクルが松前藩に接近していき、シュムクルは松前藩側についた事で、シャクシャインらメナシクルは松前藩に対しあまり良い感情は抱かなかっただろう。

江戸時代のペスト

 そして1667年、シャクシャインはオニビシの甥をシャクシャインの勢力下のウラカワで殺害、1668年には仲介に乗り出した日本人文四郎の家で、オニビシを騙し打ちにして殺害した。 族長を殺されたシュムクルは松前藩に対し報復のための武器の供与を要求、しかし、戦争が再び激化する事を懸念した松前藩はこれを拒否、そして、シュムクルの使節がシュムクルの勢力圏に帰る道の中で、オニビシの姉婿であるウタフが天然痘で死亡したのだが、これが松前藩による毒殺であるというデマが広まった。

 これにシュムクルと仲良くしていた松前藩をよく思っていなかったためなのかシャクシャインは各地に松前藩に対する蜂起を呼びかけ、敵対していたはずのシュムクルとも共通の敵を作った事で纏まり、イシカルンクル以外のアイヌが全て松前藩に対して反乱を起こし、砂金採取者や鷹を捕まえる人、交易商人などを襲撃し東蝦夷地では213人、西蝦夷地では143人、総数356人の日本人が殺害され、その多くが女、子供、老人であったとされる。

当時から存在した六郷の秋田諏訪宮

 また、幕末の資料にはシャクシャインの戦いが激化した裏には、シャクシャインの参謀として活動していた久保田藩の六郷村出身でアイヌに婿入りしたタットウイン(龍頭允)荘太夫(正太夫、庄太夫)という人物が居たと書いてあるらしい。

国縫駅

 シャクシャインらアイヌ軍による虐殺が行われた事を知った松前藩は渡島半島の付け根あたりのクンヌイ(現在の長万部町の国縫)でアイヌ軍を待ち構える一方で、幕府に救援を要請、これに応じて津軽氏の弘前藩、南部氏の盛岡藩、佐竹氏の久保田藩といった北東北の勢力が援軍を北海道に派遣、これにより鉄砲26丁を所有するアイヌ軍に対し鉄砲16丁しか所有していなかった松前藩の不利な状況は覆り、北東北連合軍は70丁の鉄砲でアイヌ軍を相手取りアイヌ軍が撤退した。

シャクシャイン城址

 松前泰広が北海道に到着すると軍を率いて東蝦夷地に進軍し、松前藩側につきたかった勢力や、中立を維持していた勢力、シャクシャインの軍に参加した勢力に恨みがある勢力などを味方につけ、シャクシャイン率いる軍を孤立させ、さらにアイヌの兵員を増やす作戦を取り、シャクシャイン軍はシャクシャインの本拠地だったシブチャリ(現在のひだか町)で持久戦を準備するが、結局東北諸般の連合軍には勝てず、宝物を日本に渡す代わりにシャクシャインら幹部は命を助けられるという形で和議が結ばれた。

 しかし、ピポク(現在の新冠町)の松前藩の陣営地で行われた和睦の宴でシャクシャインは殺害され、他にもアツマ(現在の厚真町)やサル(現在の沙流郡)に和睦に訪れたシャクシャインの軍に加担した族長達も皆殺害もしくは捕縛され、幹部達を失ったアイヌ軍は一気に瓦解し本拠地シブチャリのチャシ、つまり砦も陥落、以降、松前藩は各地を周り松前藩への反乱を起こさない事を確認した。


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