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肩の力を抜いてみること
好きすぎるあまり、トレーニングを”神聖視”している人は多いと思う。
トレーニングしかり、ボディビルしかり、コンテストしかり。
打ち込みすぎるあまり、それ自体を”神聖視”するようになるのだ。
好きであることも、打ち込むことも大いに結構だが、それによる「認知の歪み」は避けるべき。
なぜなら、客観的で冷静な判断力を失ってしまうから。
例えば、神聖視による認知の歪みはこんな形で言動に現れる。
「〇〇選手は骨折しても脚トレしたんだから、疲れているけどやらなくちゃ」←焦燥による選択ミス
「脚が細いやつは、ボディビルダーじゃない」←優越と見下し
「絞れてない人はステージに上がる資格がない」←そんなわけない
など。
確かにすごい選手はいるし、そこに近づきたい気持ちもわかる。
熱量がボディビルには必要ということもわかる。
ただ、熱量の矛先を間違えてはいけない。
情熱があるのに結果が出ない場合、ほぼ間違いなくやり方を間違えている。
決してあなたの根性が足りないわけではない。
しかし、これを履き違えると、
「もっと身体が壊れるくらいトレーニングしなきゃ…」
「根性が足りないから結果が出ないんだ…」
「こんな体でコンテストに行けないから辞退しよう…」
などと、見当違いなことを言い出しかねない。
トレーニングは筋肥大に必要十分な刺激を与えるためのものだし、ボディビルは個人が楽しむためにやるもの。
将棋の神と言われた羽生善治先生は、それまで高尚とされていた将棋を「ただのゲーム」だと断じた。
肩の力を抜いてみると、自分を俯瞰できる。
自分を俯瞰できれば、もっと良い体になるヒントが見つかるかもしれない。