不完全な生活と完全な愛-冷めない紅茶と中谷宗二について考える
こんにちは!
表題の内容に一人囚われているしがないオタクです。
今からわたし一人が提唱している概念についてお話ししていきたいと思います。
意味は分からないかもしれませんが、感じていただければ嬉しいです。
・注意点
本記事には「AD-LIVE 2020 木村昴×仲村宗悟 夜公演」および小川洋子作「冷めない紅茶」のネタバレが含まれます。
物語の根幹に関わる重大な情報を取り扱いますので、両作品の鑑賞後に読んでいただくことを強く推奨します。
また、この2作品の関係は一切なく、全てわたしの妄言であることをご承知おきください。
鑑賞された方はわたしがどれほど荒唐無稽なことを書いているかお分かりになると思いますが、広い心で読んでいただければと思います。
・「冷めない紅茶」あらすじ
“わたし”は中学時代の同級生のお通夜に参列し、同じく同級生だったK君と再会する。
恋人のサトウとの暮らしが新鮮さを失う中で、“わたし”はK君と“彼女”が住む家に遊びに通うようになる。
そんなある日、“わたし”は部屋を片付けている最中にあるものを見つける。
・「AD-LIVE 2020 木村昴×仲村宗悟 夜公演」あらすじ
AD-LIVEとはクジで引いたセリフを用いながら演じられる即興劇です。
2020年は謎解きをしながら即興劇をする、という前代未聞のテーマで行われました。
木村昴×仲村宗悟 夜公演のあらすじ
謎解き豪華客船に乗船した小学生の木村勇太(演:木村昴)と、スーツ姿の男中谷宗二(演:仲村宗悟)はペアを組んで謎解きをすることになる。
謎解きを進めるうち、豪華客船にとある事件がおこる。
徐々に明かされる二人の過去と、訪れる危機。
二人の「本当の願い」が交差するとき、物語はクライマックスへと走り出す。
皆さん、履修は終わりましたか?
それでは本日の議題に移ります。
鑑賞後であることを前提に進みますのでご了承ください。
・なぜ冷めない紅茶と中谷宗二について考えているのか
わたしがこの2つに囚われている理由は、どちらも「生活の破綻」と「永遠の愛」がテーマの一つにあげられると思っているからです。
冷めない紅茶では、恋人との暮らしに嫌気がさしている“わたし”と、調和のとれた暖かな生活を営むK君と“彼女”が対照的に描かれています。
中谷は妻サチコの不倫を理由に、サチコと交際相手を殺害し、さらに事実を知った勇太の脱出を意図的に阻害します。これによって中谷は誰にも邪魔されない「二人だけの生活」を手に入れます。
(追記:交際相手の殺害までは明言されてませんね!個人の解釈ということで!)
“わたし”の生活と中谷の結婚生活、K君らの生活と中谷の現在を対比させることで、見えてくるものがあるのではないか。
そんな100%の気の迷いから、以下の怪文書を書き綴っていきたいと思います。
・不完全な生活-“わたし”と中谷宗二
“わたし”と中谷の「生活の破綻」は全く異なるものです。
恋心が冷めるに従ってサトウの嫌なところが目につくようになっていく“わたし”。
「錆付いた沼のようにひっそりと淀んでいた」と評する生活は恋愛として破綻していると考えてよいのではないでしょうか。
一方、中谷の結婚生活は妻の不倫をきっかけに終止符を打たれます。
中谷によるサチコと交際相手の殺害で結婚生活(あるいは日常生活も)破綻したと言えるでしょう。
この二つの破綻において忘れていけないことは、観察者であるわたし達がサトウ、サチコの視点を知ることできないということです。
客観的に見ればサトウはそれほど嫌な人間ではないかもしれないし、サチコの不倫には何かしらの理由があったかもしれません。
概念的な話になりますが、“わたし”はサチコで中谷はサトウ、という可能性があるのです。
しかし、知り得ない以上は語ることもできず、あくまで“わたし”と中谷の視点から話を進めていきたいと思います。
さて、二者の破綻が異なると書きましたが、もちろん共通項もあります。
言うなれば「愛/恋は永遠でなかった」ことです。
“わたし”は「輝かしい始まりの時があった」と語っています。
一般論で考えれば中谷夫妻も将来を誓い合って結婚したのでしょう。
そして、みずみずしいときめきはいとも簡単に劣化していきます。
その要因として挙げたいのが「生活」の不完全さです。
単調に繰り返すだけの日々でもホコリはたまるし、食べ物は腐り、机は散らかっていく。
当たり前ですが、完全な状態を維持することは大きな労力を必要とします。
天人だって衰えるのですから、人間の生活はなおのこと劣化し易いのかもしれません。
(最高に余談ですが、小川女史の「完璧な病室」を読んでいただくと完全な生活の概念が伝わると思います。ただのダイマです)
不完全な生活に身を置く“わたし”はK君の家に通うようになり、中谷の結婚生活はサチコと交際相手を殺害することで強制的に終わりを迎える。
冷めない紅茶の結末から言えば、“わたし”の生活も終わったのかもしれません。
生活のほころびに起因する愛の非永続性。
では、完全な生活をもってすれば愛は永遠になるのでしょうか。
次にK君・“彼女”の生活とサチコ殺害後の中谷について考えていきたいと思います。
・完全な愛-K君と中谷宗二
「わたしの訪問は彼らの状態になんの影響も及ばなかった」
この文はK君たちの生活ぶりを端的に表わしています。
“わたし”という闖入者の存在をもってしても、彼らの完全性が失われることはなく、美しく整った生活は継続されます。
しかし、彼らの生活は非実在であり、非現実です。
燃えさかる図書館で二人は決して変化することのないものへと変わったのではないでしょうか。
一般的に熱い紅茶はすぐに冷め、他者の介入は生活に乱れを生じ、生活の完全性は失われます。
つまりK君と“彼女は”「存在しない」ことによってその完全性を保っているのではないか、とわたしは考えます。
一方で中谷は、サチコとの生活を邪魔する存在を排除することで完全性を保持しています。
たとえそれがサチコ自身であったとしても。
中谷は事実を知った勇太に自首を促され、納得したような素振りを見せます。
しかし、最終的には船からの脱出を阻み、勇太を排除します。
これらの行為に中谷が呵責を覚える様子はなく、むしろ自分を裏切ったサチコに問題があると発言します。
悠々とボートに乗り込み、完璧な「二人きりの生活」を叶えた中谷ですが、一般的な生活の概念としては歪んだものです。
法的にも倫理的にも認められるものでありません。
結婚生活が成立しているとも言い難いです。
つまり、中谷家の生活もまた「存在しない」のではないでしょうか。
どこまでも不完全な生活を否定することによって、生活を完全なものにする。
不完全な生活に汚されることのない愛は、非現実の中で永続性を持つようになる。
これこそがK君と中谷が手にした「完全な愛」ではないでしょうか。
・不完全に愛を込めて
長々と書いてきましたが、わたしは「永遠の愛なんて存在しないのよ」という悲観主義に立とうというわけではありません。
熱い紅茶を飲みたいなら、さっさと飲み干してしまうか、温めなおすこともできます。
冷めない紅茶は無くても、冷めない努力をすることはできます。
それが愛でも同様に。
しかしそうはいかない場合もある。
そんな、どうしようもない社会の隙間に物語は見いだされるのではないでしょうか。
わたしは小川先生の物語に出てくる、どうにも上手に生きられない人たちを愛しています。
いたたまれなくて、むず痒くて、ときに腹が立って、とてもわたしに似ていて、ちっともわたしに似ていない、そんな気持ちをもたらす存在です。
そして、中谷も同様に不器用で歪で、激しく人間らしい。
わたしはときどき「中谷が小川作品の存在だったらどんな結末だったかな」と妄想します。
サチコとの暮らしが続いているんじゃないか、サチコは実在していないんじゃないか、実はサチコと結ばれていないんじゃないかetc.
完全に妄言ですが、中谷と小川作品の親和性高すぎじゃない!?と日々思っています。
中谷の紅茶は熱いままなのか、冷めたのを淹れなおしたのか、はたまた彼にとっては熱いけれど他の人からしてみれば、なのか。
当たり前の生活の中で傷ついてしまう人たちにときに寄り添い、ときに突き放す小川作品の文脈で中谷はどんな風に生きるのか。
決して知ることはできませんが、想像するととてもわくわくします。
中谷についてこれ以上明らかになることはきっと無いですが、だからこそ魅了されているのかもしれません。
・おわりに
最後までこの怪文書を読んでいただきありがとうございます。
ピンポイントにこの2作品を鑑賞されていた方はあまりいらっしゃらないかもしれません。
ネタバレを踏んでしまった方には深くお詫び申し上げます。
一から十まで妄言の本記事ですが、様子のおかしいオタクを面白がっていただけたらと思います。
なによりAD-LIVEも小川作品も最高ですので、そちらを見返す、あるいは出会うきっかけになれれば嬉しいです。
こんな記事は忘れて今すぐ見返すんだ。(催眠)
最後になりますが、最高の舞台を作り上げた仲村宗悟様、木村昴様、ご出演者・関係者の皆さま、いつも素晴らしい小説を読ませてくださる小川洋子先生、関係者の皆さまに心よりの感謝を申し上げます。
こんな妄言の題材にしてすみません。
「冷めない紅茶と中谷宗二についてインターネットに刻み込むことで生き恥をさらしてやろう」と常々思っていたので、念願が叶いました。
嬉しいです。
それでは、わたしは物語の世界へと退散したいと思います。
本当にありがとうございました!
p.s.
この曲を聴いてもらえるとわたしが喜びます。
概念に“効く”。