山括弧問題は仏教の地平を(一部だけでも)ひらく(かもしれない)
23/07/02記
うまれてはじめて書くnote。記事はこれ一本。思いついたら、考えが整理出来たら、都度このページに追記して更新していくつもり。さしあたっては構想のみをレジュメっぽく書いて、スタートします。
0:出発点 信の根源とその強度について
仏教を、信じ“ざるを得ない”ものとしたいという欲望
信じられるものであると信じたい
そういう意味では僕は“悪人”
不誠実さを拒否し、徹底的に誠実に祈りたい
1:自己の理解について⇒〈私〉の問題(=矛(ヨコ)問題)
仏教は「天上天下唯我独尊」以外、全部付け足し
ゼロ次内包と無内包の腑分け、その混同からの脱却
坐禅/瞑想に“気づき”は必要か(そもそも必要という言い方なのか?)
2:つながりの問題(=盾(タテ)問題)
ティクナットハン的世界像(1枚の紙に世界を見る)の平板さ
つながり=超越論的構成=“ざるを得なさ”という強度の獲得
3:慈悲の問題(=他者(ヨコ×タテ)問題)
(ここは不透明で疑念もありながら)「独我論者の道徳」が成立するならば、慈悲もまた根拠づけられ得る?
“私しかいない(他者がいない)”状態で機能する道徳(倫理?)とは何か?
慈悲とは他者性抜きにして語り得ない=慈悲とは
〈私〉と《私》たちとの架橋の問題
4:要するに、仏教とは
自己〈私〉と他者《私》を架橋しつつ、その架橋を智慧と呼んだり、架橋から生まれるものを慈悲と呼んだりしつつ、その原点は、人生への没入を味わい尽くすメソッドなのだなあ(雑)