「ニューロダイバーシティ」はわたしたちをつなぐ言葉になるのか
自閉スペクトラム?ASD?ADHD?非定型発達?
そんな分類に頭を悩ます時代はもう終わるのかもしれない。
わが子が、あるいは当事者として「どのカテゴリー」に属するか、それは、近視の人がメガネの処方箋をもらいに眼科に行くようなものだと思う。
診断を受けることで、必要な配慮や支援が受けやすいなら、専門機関を受診するのが近道だ。
実際、息子が小2の時はそのおかげで「体調以外の理由で欠席すること」「クールダウンのため別室に移動すること」「ことばの教室に通室すること」などのサポートが芋づる式に得られたので、よかったと思っている。
ただ、すべての子どもや親が、そのように手順を踏んで学校や社会と折り合いをつけていけるわけではない。
なんだかわからない「生きづらさ」を抱えたまま、社会に出たり親になったり・・その結果、「うまくいかない」ことが積み重なって自己肯定感が下がる。
わたしは、自分や家族が「発達障がい」であるとか「非定型発達」である、ということを受け入れている反面、「そんな風に定義される筋合いはない」とも思っている。それはあくまで、世の中の多数派から見た文脈だからだ。
「障がい」になったのは、個人の性質と環境がうまくマッチしなかったからで、「定型」と呼ばれる人の都合に合わせて世の中が作られている事実、それが固定的で正しいような気がしてしまうわたしたちの意識が、「障がい」という現実を作り出していると思っている。
新しい用語が次々と生み出されていく風潮の中で「またか」と思われそうだが、『ニューロダイバーシティ』という言葉に出会った時、「これだ!」と思った。
直訳すると「神経学的多様性」
ー野村総研によると【神経学的にマイノリティに当たる方だけでなく、あらゆる人の脳や神経に由来する特性の多様性を対象とする考え方】
平たくいうと、「脳のタイプ」は人それぞれだよね、それによって得意・不得意・行動パターンやコミュニケーションの仕方もさまざまだよね、という当たり前のことなんだけど、そこには『スタンダード』という考えが含まれていない。
みんながある一定の「型」を目指す必要がない社会って、すごくラクだな、と感じたわけです。
この言葉、自閉スペクトラム症と分類される当事者のコミュニティで生まれ、広まってきた。
<脳や神経の情報処理の仕方>というタグで周りの人を見渡した時、少しずつOSの異なるコンピューターの集まり、という風に見えたのかもしれない。フィットする環境にあれば、それは才能や個性と評価され、うまく合わないと、ジャンク品扱いされる。
「それって、世界にとっての損失ですよね」
という発想から、さかんに「ダイバーシティ戦略」なるものが提唱されているのも目にする。とくにIT業界で「神経学的マイノリティ」を起用し、成果をあげている例が多数報告されてきて、そういうところから2023年の経済産業省【ニューロダイバーシティの推進】みたいな提言につながっていく。
取り組み自体は、働き方の多様性にもつながるし、希望と感じられる部分もあるんだけど、それ以上に違和感を覚えたのは、その提言にある「発達障害のある人が持つ特性を活かし活躍いただける社会を目指します」という一文だ。
「発達障害のある」と定義している時点で、ニューロダイバーシティの考え方とはズレてるんだけどなあ、と違和感を覚えてしまった。
ともあれ、新しい用語とともに、こうした考え方が浸透していくことをわたしは歓迎する。
最後に、「ニューロダイバーシティの教科書」(2020/金子書房)の著者・村中直人氏の言葉をご紹介したい。
この社会は均一で同質な大きな1つの塊などではなく、小さなコミュニティの集合体に過ぎません。
その人にとってそれなりに適応的に生きていける半径10m程度のコミュニティが1つでもあれば、人は生きづらさを感じにくくなります。
2つあればより安定しますし、3つもあればそれなりに幸福感や充足感を感じながら人生を送れるのではないかと思います。
つまり個人の生存戦略の視点で言うならば、社会の全部に受け入れてもらう必要などありませんし、「どこに行ってもやっていける人」になる必要もないのだと思います。