橋を架けるのは
誰かのことをわかりたいと思う
きっと完全にわかりあえることはないと知っていても。
だから、その人の「ことば」を知りたい。
幼い頃からずっと持っている、わたしが生きていくうえでのテーマのひとつだ。人はなぜ、どうやって他者とコミュニケーションするのか。大学では、子どもはどのようにことばを獲得していくのかを卒論に書いた。
言語習得だけの話ではない
ことばとは、外に向けて発し、届けようとしているいくつもの情報すべて。それらを掬いとり、時には引き出し、こちらからも差し出し、つなぎあわせる。自分の持っているものを最大限につかいながら、「ことば」を受け取りたいと思う。
受け取るためには、自分の持っているものも重要なファクターとなる。相手の言語を理解しているだけでは足りない。お互い日本語話していたって伝わらないことなんて山ほどあるわけで。
映画『ドライブ・マイ・カー』のなかで、手話をつかう女優さんが、こんなようなことを言っていた。
わたしが伝えたいことが、
相手にわかってもらえないのは日常のこと
だけど、ことば以外にも
見えること聞こえること
すべてから感じることができる
相手のことをわかりたい
誰かとの関係性において
相手のことをわかりたいと思うとき
受け手として、心に留めておきたいことがある
話してくれることがすべてではない
もちろん、声や表情や使うことばを含めて
受け取ったとしても、それすらもすべてではない
その前提を忘れてはいけないということ
すべてをひらいていない(伝えていない)かもしれないし、(伝えようとしてくれていたとしても)こちらが受け取れていないかもしれない、受け取ったものの解釈が違っているかもしれない。それは、本当のところわからない。
ただ、受け取る側が心しておきたいのは
わかりたいと思っているのは自分である、ということ。
だから「言ってくれなきゃわかんない」
なんていうのは、ただの欺瞞だ。
わからないのは相手のせい、にしてはいけない。
自分のことをわかってほしい
一方で、誰かにわかってもらいたいと願うとき
伝え手として、心に留めておきたいことがある
伝えたこと「以上」のものは受け取られない
相手が受け取ったものが伝わったすべてだということ
その相手にわかってほしいと思うのであれば、相手に伝わることば(言語、表情、しぐさすべて)で、惜しみなく自分をひらいていく。
わかりたい、わかってほしい、どちらも「わたしの気持ち」
ここに出発点をおかないと、どうしても相手のせいにしてしまいたくなる。
「言ってくれない」
「わかってくれない」
ってつい言いたくなるんだよね
相手が仕事の仲間でも、パートナーでも、子どもでも。
でもその前に。
相手がわたしのことをわかりたいと思ってくれる関係性を、つくってきただろうか。相手がわたしに自分のことをひらきたいと思ってくれる関係性を、つくってきただろうか。
ここにいつでも立ち返りたい。
わたしが多くの人の話を聴きたいわかりたいと思っているのならなおさら。橋を架けるのはいつだって自分だ。
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