「バケモノ(creature)の自覚をもつ者」としての覚悟
幼少期からわたしは自分のことを「キチガ◯だ」と自覚しており。思い返すと、幼稚園に入った頃にはすでに自分が「personality disorder・人格障害」を内包している自覚がありました。
「(他者に)バレたら殺される」というわたしの強い思い込みの原因は幼少期のこの自覚にありました。
とはいえ、
そーやって幼少期から自分のことをキチ◯イだと強く強く自覚していたことによって「自分(人という在り方)の特性」について凝視し厳密に調査することになり、その調査内容を明確に認知したことでたくさんの疑問を腑に落とす(消化・昇華)体験をしてこれたわけなので「結果オーライ」だったんだな、と。
結果に至るまでの負荷・圧力はなかなか苦しかったですがこの「高負荷」「高圧」がかかることによってしか「着地できない」という構造なのだから仕方がなくて。
とはいえ、それは構造・仕組みがわかってる「いまのわたし」だから言えることで。渦中のわたしは「仕方がない」なんてちっともおもえずいつも「激おこぷんぷん丸」でした(笑)
Structural analysis.
構造を厳密に調べる.
この世ってなに?
あの世ってなに?
わたしってなに?
一体これらってどういう構造?
これらってどういう仕組みになってるのさ?
どういう仕組みの中でこんなにもわたしは苦しくなっているってのさ?
仕組み。構造。
結果的に、自らに高負荷・高圧をかけることでココを明らかに認識することができ、わたしは「自分嫌い」から「自分大スキー😍(=ナルシスト)」へと在り方が反転しました。
その辺りのノリを書きだした2019年のわたしの投稿
ttps://www.facebook.com/share/yyA3AfMg2MdhcKPp/?
極悪人。とある位置からだと極善人。
ヒトデナシ。とある位置からだとヒト。
極悪人、キチガ◯・ヒトデナシ・ロクデナシ・ポンコツ、、、
そんな在り方でもあるわたしを全肯定したときから「開き直り」というポジティブな諦め方(サレンダー)ができるようになれて。
そうよ、わたしはキチ◯イ。
そうよ、わたしはヒトデナシ。
そうよ、わたしはロクデナシ。
そうよ、わたしは極悪人。
そうよ、わたしはポンコツ。
それでいいよ。
それがいいよ。
そうおもわれてもいいよ。
むしろそうおもわれていたいよ。
だってここは分極の世。
バランスされている。
社会性という規格を善とするのなら、わたしは確かに極悪人となるもの。
社会性を重んじる在り方がわたしを極悪人と認識するのは正しい。だってわたしは社会性・社会的であることを善などとは全くしていないのだもの。
とはいえ、社会性を悪ともしてはいなくて。社会性を重んじたい人は重んじたらいいし、軽んじたい人は軽んじたらいいとおもえている。
それは、結局ヒトってのは「自分の見たいようにみ、自分の聞きたいように聞く」在り方なのでどーしたって自分の好き勝手にしか生きれていないわけなのだしとおもえているからで。
思い込みヂカラ
自分の思い込みの中で存在して生きる。
わたしとはこーゆー者。
この世(世界・社会)とはこーゆーところ。
あの世(冥界)とはこーゆーところ。
わたしは極悪人。反社会的存在。非社会的存在。
だから、
自分都合で他者を欺瞞することがあっていい。
極悪人なんだもの。仕方ないじゃない。
でね、
これはね「極悪人だからこそできること」なんだとおもえているのですが「己を欺瞞すること」だけはわたしは決してしないんすよ。
この分極の世のなかで、
わたしはわたしにだけはけして嘘をつかない。
わたしだけはわたしをけして裏切らない。
わたしだけはわたしを全身全霊で肯定し続けている。
絶対的な自分(自神)軸。
絶対的な自己確信。
絶対的な自己信頼。
だから、
誰になんと言われようとどーでもよくて。
誰がどう思おうとどう感じようとどーでもよくて。それはわたしの問題ではなくて他者自身が抱えてる問題だから。
だってわたしにとって他者はわたし(の中)を映す鏡でしかないのだから。それはそのままわたしも他者にとっての鏡であるということでもあって。
なので、わたしは「鏡に映るわたし」を気にしてアクション(思考行動)なんてしない。
わたしは常にわたしとして存在しイマココの位置で「旬のわたしを体現する」というアクション(思考行動)をするだけ。それしかしない。それを厳密にこなすってことで充分忙しくて。
反社会性とか非社会とか
精神病質とか社会病質とか
サイコパスとかソシオパスとか
他者なんてどーでもいい
社会なんてどーでもいい
そーゆー思考行動をすることを反社会性的な思考とか自分勝手な言動などと認識する在り方が殆どかとおもえております。そしてそれでよくて。
ですが、「この世、あの世、わたし」についての構造調査(分析解析)作業を終えたわたしにとってはそんなことはどーでもよくて。
誰になんと言われよーが、誰にどー思われようが、わたしはわたしの仕事を淡々とこなし続けるしかなく。で、そのためにイマココに存在してるという自覚が明確にあるので迷わないし悩まないしブレない。
で、
そんなわたしの姿を(局所的に)晒すのがいまのわたしの仕事でもあったりしてのかもな、なんてこともおもえていて。
ナルシスト最強
ポンコツは悪じゃないっすよ?
社会的にはポンコツでも別の領域では秀逸だったりしてるので。
右往左往することは悪じゃないっすよ?
これはただの自己表現・自己体現っす(笑)
「右往左往するわたし」もわたしは大好物なので、イマココの位置で体現しては愛でているってだけで。
先日「日々の生活の中で右往左往してるはるちゃん」をちょっと晒してみましたが、いかがでしたでしょうか?w
みてついついツッコミ(手を差し伸べ)たくなっちゃいましたでしょ♪でしょ♪(・∀・)ニヤニヤ
それはですね、
「右往左往してるはるちゃん」の姿にきゅん💕となってしまったからなんすよw
それはですね、
「右往左往してるはるちゃん」に魅了されちゃったんすよ(笑)
女体が「右往左往すること」を悪設定にしてるのはもったいないしつまんないよなーってわたしにはおもえていて。
これまでのわたしは「わたしのポンコツっぷり」をわたしだけで愛でておりました。だって【こんなにも可愛いわたし】なもんですから誰にも触らせてなんかやりたくなかったんすよ。独り占めしていたんす( ̄∀ ̄)
それに「わたしのポンコツっぷり」という魅力・ミヂカラを、明確に認識できない在り方の前で晒すと「社会的価値観」だけに照らしあわせてしまいマウントとかしてきちゃいますでしょ。わたしはそれを悪い事とはおもわんのですが、そーゆーのを相手するヒマはわたしにはないのでやらないでいたわけなんすよ。
わたしは右往左往しますが別に困っているわけではないんす。右往左往することを全身全霊で楽しんでいるんすよ。わたしの中の「右往左往するわたし」をこの世に存在させイマココの位置で体現し、それを「全わたし」で【愛でている】んす(キリッ!
ね。ただの変態でやんしょ?(笑)
隠していた、とゆーよりはこの手の方向からの認識を使わない(使えない)在り方に「わたしの大切な右往左往するはるちゃん」を晒してやる(差し出してやる)必要性を感じないでいたってだけなんす。
なんで【わたしの命(大事なもの)】を他者の「自己肯定・自己認識作業を怠っていることによる欠乏感」を埋めてやるための慰み・娯楽として提供せねばならないのか、意味がわからないよねってことなんす。わたしはそんなヒマないよ!自分を生きるのにいそがしいんだよ!と。
わたしにとってはとてもとても大事なものなのですから、そりゃー大事に大事にわたしの中で愛でまくりますよ。
「自分の愛でかた」をしらない「自分嫌い」の人たちの前にわざわざ晒してやる必要なんて全くないよね、と。「自分を気持ちよく愛でる者」でないと他者を気持ちよくは愛でることはできませんもの。
愛でたくても愛でかたを知らないでいる「自分嫌いの人達」の前に「わたしの本命」は晒せません。
だって彼らは悪気なく壊そうとしてくるから。それは、壊す(社会的価値基準をもとに矯正する)ことを良いことだと捉えてる人達だから。
で、
そーゆー行いを無自覚でしている様を「極悪人を自称するわたし」からみたら彼らこそがジェノサイダー・大量虐殺者だよな、とおもえていて。だから社会的極善人(無自覚なジェノサイダー)には近寄らない。なに一ついいことなんてないから。目があったら即逃げるw
振り返り
わたしはこのよーな認識をしているわけなので、わたしが「全身全霊でもって愛でているもの=はるちゃん」が他者の視界に入って他者がそれについてなんやかや言っていても「その人にとってはそうみえてる。そう認識してる。」ってだけのことでしかないので基本的にとりあわないんす。
だって、そんなことに時間をかけるヒマはわたしにはないから。わたしは日々わたしを全身全霊で愛できるのに忙しくてw
どーやらナルシストの辞書には「ヒマ」という文字はないよーっすよ。毎日ほんといそがしいw自分を愛でまくるのにいそがしくって気が狂いそうっす(笑)