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跳べ、ウラヌス!史実紀行 #2「西とウラヌスの出会い、ヨーロッパ転戦」

バ術競技全盛期の20世紀はじめに実在した馬術馬「ウラヌス」とその相棒「西 竹一」をテーマにしたオリジナルウマ娘小説……

『ウマ娘Prequel -跳べ、ウラヌス!-』
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ハーメルン

競馬ではなく「馬術競技」を元に、ウマ娘の世界で活躍するウマ娘とトレーナーのコンビたちを描いています。
「跳べ、ウラヌス!史実紀行」では、「跳べ、ウラヌス!」の主人公の元になった馬術家「西 竹一」とその愛馬「ウラヌス」を中心に、作品に沿って史実を紹介していきたいと思います。

今回は、西とウラヌスの出会い、そしてこの人馬がヨーロッパを渡り数々の競技会に参加した「ヨーロッパ転戦」について解説していきます。


西中尉、欧州へ

さて、前回解説した通り、イタリアに留学中し欧州の馬術を学んでいた今村安少佐は、留学先のピネロロ騎兵学校の中尉であるカンペッロ伯爵から名馬「ウラヌス」を紹介され、購入の約束にこぎつけます。今村少佐は日本にいくつかの買い手募集の手紙を送りました。ウラヌス買い手募集の手紙の一通は、今村少佐の教え子である「西 竹一」中尉に届けられていました。ここでついに登場。本紀行の主人公です。
 西中尉は日本有数の大金持ちで男爵(バロン)の称号を持つ所謂貴族ですがそれだけではなく、騎兵学校で初めて参加した馬術大会ですぐ入賞してしまうほどの障害飛越競技の実力を持ち、若いながら名だたる教官たちに並んで1932年のロサンゼルスオリンピック馬術選手に選ばれていたほどの名騎手でした。彼自身もオリンピックに向けてさらなる名馬を求めており、今村少佐からの手紙は正に天命とも言えるものでした。
西中尉は今村少佐からの手紙を受け取ると、陸軍馬を管理する軍馬補充本部に現れました。軍馬補充本部にも今村少佐のウラヌス発見の手紙が届いていたのですが、西中尉はそこにいた後藤斯馬太(しばた)大佐にウラヌス購入を申し出ます。後藤大佐は他の補充部の者と相談した後、「私費購入ならば」とそれを了承します。通常、馬術馬というのは高額で普通なら買うのは難しいものですが、日本の長者番付にも名を連ねる西中尉はそれが可能でした。ウラヌスが購入できることになり、実際に目にする前から大喜びした西中尉は、早速半年間の休みをもらい、連絡が来てすぐの1930年4月に今村少佐とウラヌスが待つイタリアに向けて旅立ちました。

当時、ヨーロッパへ行くとなると大変な長旅になり、シベリア鉄道を乗り継ぐ陸路か、スエズ運河を経由してフランスに上陸する海路がありました。しかし西中尉はそのどちらでもなく、1932年ロサンゼルスオリンピック会場の視察のため、日本郵船の船・秩父丸の処女航海の便に乗り、アメリカ経由で欧州に向かうルートを取りました。
その道中、西中尉を象徴するエピソードが登場します。
西中尉は175cmという高身長の美青年で、片言ながら英語も話せて外向的な性格でした。道中、アメリカでは舞踏家である伊藤道郎と知り合い、さらにはハリウッドの売れっ子だったダグラス・フェアバンクスとメアリー・ピックフォード夫妻と知り合い、大の親友となりました。欧州に向かう秩父丸の中で夫妻と一緒になった西中尉はダグラス・フェアバンクスと一緒に裸でターザンごっこ(!?)をするほど仲を深めたと言います。
日本にいたころから大使館にいる様々な国の人々と交流を重ねていた西中尉でしたが、この道中は軍人としては休暇をとっていたのもあり、気兼ねなくはしゃいでいたのだと想像できます。

西とウラヌスの出会い

1930年4月、ナポリの国際障害飛越競技会にて、ウラヌスに騎乗する今村少佐。
今村安著「今村馬術(1988)」より

長旅を終えてイタリアに辿り着いた西中尉はついに今村少佐と会います。西中尉がイタリアに着いた頃には、既に欧州の馬術大競技大会の真っ最中でした。欧州の馬術競技会は欧州のあちこちで大小さまざまなものが開催され、国別対抗の大きな競技会は2月にイタリア南部から始まり、10月に北欧で終わります。今村少佐もこれに既に参加しており、愛馬・ソンネボーイはもちろんウラヌスにも乗っていました。西中尉は今村少佐からバトンタッチと言う形でウラヌスを引き継ぐことになります。

ウラヌスの代金は6000-7000リラ。当時の日本円でおよそ1000円ほどでした。当時の帝大出身の官吏の月給が65円ほどでしたから、個人の買い物としてはかなりの出費です。とはいえ血統書なしの巨大馬ということで、欧州の優秀な馬術競技馬としては比較的安く取引されたのは間違いなさそうです(ちなみに陸軍がフランスで購入したアイリッシュボーイという馬術競技馬は1万円で取引されている)。何はともあれ今村少佐にウラヌスの購入代金を渡した翌日、西中尉はついにウラヌスと対面します。
血統書はないフランス産のアングロ・ノルマン種の栃栗毛。何といっても驚いたのは、体高(肩までの高さ)181cmという巨体。サラブレッドが平均160~170cmほどで、180cm台の馬というとばんえい競馬で使われるような大型馬でもなかなかいません。しかも筋肉が発達しており、肩も程よく傾斜している、障害跳越競技をするのに理想的な馬格をしていました。
初めて見たウラヌスの印象について、西中尉は日本に送った手紙に以下のように記しています。

「聞きしに勝る大きな逸物なので、われながらびっくりした。まあ乗ってみろとのことで、早速跨って見ると、これはまた駱駝(らくだ)といってもよい位、生まれて始めてあんな大きな馬に乗った」

吉橋戒三著「西とウラヌス:西竹一大佐伝 p21

西中尉は長脚で均整のとれた体格の美青年でしたが、ウラヌスはその逆と言っても良いほどの巨大な怪物のような馬で、面白い対照的な構図でした。
西中尉はウラヌスを伴い、早速今村少佐と共にヨーロッパ各地の馬術競技会に参加することになりました。ウラヌスと合流した頃はムッソリーニ首相の名のもと、大々的な馬術競技会がローマでちょうど開かれていたため、西中尉はそれに参加することになりました。

余談:西とウラヌスの出会いの場所と値段について


西中尉とウラヌスの出会いについてですが、実は文献によって若干異なる点があります。代表的な伝記二作を紹介しましょう。

大野芳著「オリンポスの使徒:「バロン西」伝説はなぜ生れたか」によれば、西中尉はトリノ駅前のホテル「スイス」で今村少佐と会ったといいます。今村少佐はイタリアの大競技会「ヨランダ王女杯」で優勝したばかりでありその記念にラウンジで飲んでいる途中でしたが、そこに西中尉が突然現れてウラヌス購入代金の7000リラをイギリスポンドの札束(当時のレートでおよそ100ポンド)で支払いました。しかし西中尉は6500リラ分しか手持ちがなく、不足の500リラは今村少佐がカンペッロ中尉に交渉することになりました。今村少佐は元々ソンネボーイの馬主の島村一郎に購入してもらうつもりでしたが、西中尉の登場でその話もなくなりしかもお金が足りなかったことから、トリノの陸軍大学校に留学しており一緒にいた親友の有末精三大尉に「君と飲む分がなくなったよ」と嘆いたそうです。

一方、吉橋戒三著「西とウラヌス:西竹一大佐伝」によれば、西中尉はローマに赴き、そこで競技会を渡り歩いている途中だった今村少佐と合流したと言います。今村少佐はウラヌスをできるだけ安く買わせてやろうと有末精三大尉と共に奔走して6000リラという値で落ち着かせて西中尉を待っていました。西中尉はローマに到着した翌日、ウラヌスと対面しました。
 
「オリンポスの使徒」と「西とウラヌス」では西中尉が今村少佐と会った場所やウラヌス購入の代金が違いますが、どちらが正しいとは確定的なことは言えません。しかし、1930年のイタリアの大きな競技会はナポリ→パレルモ→ローマ→トリノという開催順でした。ウラヌスと合流後、西中尉はローマの競技会に参加するのですが、「オリンポスの使徒」のようにトリノで今村少佐と会ったとなると若干時系列が異なります。また、今村少佐がトリノの国際競技会の優勝した際、当日に記念カップを手にして西中尉が並んで撮った写真があることから、場所や時系列については「西とウラヌス」のほうが信ぴょう性が高いのかな……?と思ったりしますが、皆さんはいかがでしょうか。

ヨーロッパ転戦

西中尉はウラヌスと出会って数日後には「ムッソリーニ杯(ムッソリーニ・カップ)」の障害飛越競技会に参加しますが、なんとそこで17位まで入賞(上位入賞)のところ、16位で入賞を果たしています。初めて乗った、しかも巨大で難しい馬であるにも関わらず、西中尉は初めての欧州の競技会で入賞してしまったのです。夜になるとラジオ放送で”バローネ・ニシ(西男爵)”の名が流れ、イタリアにいた有末精三大尉もラジオを聞いて大喜びしたと言います。
ローマで入賞した後も西中尉の勢いは止まらず、今村少佐と共にトリノの「ヨランダ王女杯(ヨランダ・カップ)」に参加した後、僅か5カ月の間にスイス、ドイツ、フランス、ハンガリー、スウェーデン、オランダ、ベルギーといった国々の競技会に参加していきました。
そのどの競技会でも西・ウラヌスのコンビは善戦しました。特にスイス・ドイツでは善戦し、アルプスの美しい湖畔が見える競技場で開かれたスイスのリュツェルン市賞典ではフランスのビザールという大物騎手を破り無過失で4位入賞猟騎競技(恐らく動物を追い立てる猟騎の技術を競うもの)で6位入賞。ドイツのアーヘン市章典でも入賞しています。特にリュツェルン市章典では無過失(失点なし)でゴールした騎手には国旗・軍旗を掲げて称えるというルールがあり、リュツェルンの湖畔に旭日旗がはためいたと言います。

こうした活躍もあり、西・ウラヌス、そして共にヨーロッパを転戦していた今村・ソンネボーイは欧州中で話題となりました。今までの馬術馬ではほとんど無名と言って良い日本の人馬が、欧州の強豪を抑えて入賞するようになったからです。貴族で美青年の西中尉が対照的と言っても良い巨大馬・ウラヌスに乗った姿も話題となり、西中尉にとって、選手として選ばれていた1932年ロサンゼルスオリンピックに向けて大きな自信になったことは間違いなさそうです。

強力な相棒・ウラヌスを得た西中尉は、ここから更に大きな馬術の舞台へと向かっていきます。

今村少佐と「ソンネボーイ」の活躍

ところで、前回から”西とウラヌス”の重要なキーマンとして活躍している今村少佐。前回も紹介した今村少佐とその愛馬・ソンネボーイは、ヨーロッパ転戦中にある偉大な記録を残しています。

それが西中尉も参加したトリノの競技会「ヨランダ王女杯」での優勝です。

 競技会の名前にある「ヨランダ王女」、「ヨランダ・マルゲリータ・ディ・サヴォイア」とは当時のイタリアの国王であるヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の子女であると同時にイタリア屈指の女性騎手であり、競技大会への参加やローマ郊外の原野の犬群を追う日々を送り、更にはイタリア総合馬術チームの一員であるベルゴーロ大尉との恋愛劇を繰り広げた活発な女性貴族です。「ヨランダ王女杯」はそんな王女を記念した栄えある大会。優勝すれば王女本人から勝利の証であるブルーリボンが授与されるというものでした。

ヨランダ・マルゲリータ・ディ・サヴォイア

このヨランダ王女杯はムッソリーニ杯にも負けないほどの大きな障害飛越競技会で、当時世界一と言っても良い名だたるイタリアの人馬も多く参加していました。
まだ馬場馬術が主流だった当時、障害飛越競技に特化した「自然馬術(イタリア方式馬術)」の優れた調教を施した小型サラブレッドを乗りこなしていたイタリア馬術チームは、障害飛越競技において各国を圧倒する強さを誇っており、当時のイタリアチームの強さについて今村少佐は以下のように回想しています。

(他国は)相当の良馬があり、騎手もまた巧みなものがいるにもかかわらず、目ぼしい競技はすべてイタリアに圧倒されて、一敗地にまみれたのは気の毒の至り、同情の念を禁ずることができませんでした。

スイス、ドイツにおける国際競技会に出場して(昭和5年8月発信)—―今村安

そんな中、今村少佐はピネロロ騎兵学校で学んだ同じ自然馬術をもってソンネボーイを調教し、騎乗して競技会に臨んだ結果、イタリアチームもはねのけて見事優勝を果たします。
日本人が馬術の国際競技会で優勝するのは史上初めてのことであり、今村少佐は世界で初めて国際馬術競技場に優勝の日章旗をはためかせた人物ということになります。

ヨランダ王女杯の表彰式の様子(左の最手前が今村少佐)
1931年7月 日本国際馬術協会「国際馬術競技会時報」より

上がヨランダ王女杯で優勝した今村少佐の写真なのですが、実はこの馬、ソンネボーイに似ていますが全く違う馬です。ソンネボーイと同じ毛色ではありますが、前肢を前方へ、後肢を後方へ開くようにしているこの体勢は、ハンター種ではなく調教が行き届いたハクニー種に見られるもので、ソンネボーイ自身にもこのような癖はありませんでした。
これはどういうことか?
実はヨランダ女王杯で今村少佐の優勝が確定したとき、臨時で雇っていた厩務員がさっさとソンネボーイを厩舎に返してしまったのでした。しかし優勝したからにはヨランダ王女に謁見しなくてはならない。さあ困った。
そこで今村少佐は、たまたま近くにいたオーストリア(オランダ説もあり)の馬術チームの少女が乗っていた栗毛の馬がソンネボーイによく似ていたため、「貴嬢の馬を貸してもらえないか」と頼んだと言います。オーストリアの少女は「代わりにソンネボーイに乗せてくれるなら」と笑って答え、今村少佐は「アマゾーヌ(活発な女性、馬に乗る女性のこと)に貸すのは一寸困るなあ」と笑っていたそうですが、結局今村少佐はこのオーストリアの少女が乗っていた馬を借りてヨランダ王女と対面。ブルーリボンとヨランダ王女優勝杯を直接受け取ったと言います。
その後この少女とソンネボーイが巡り合ったのかどうかは不明ですが、とにかくも当時の和やかな国際馬術界隈の雰囲気、そして西中尉に負けないほどの今村少佐のユニークな性格が伺えるエピソードです。

このようなエピソードもあり、当時西中尉に負けないくらいに欧州で有名になった今村少佐とソンネボーイは、当時、そしてこれからのオリンピックにおいても西中尉とウラヌスにとっても良き友でありライバルであったと思われます。


出会って間もないウラヌス、そして恩師・今村少佐と共に”伝説”を作り上げていく西中尉。しかし”西とウラヌス”の物語はまだ始まったばかり。
第三回の次回は、「ロス五輪前夜~名だたるライバルたち~」をお送りいたします。


※参考資料※

  • オリンポスの使徒 - 大野芳

  • 西とウラヌス - 吉橋戒三

  • 今村馬術(1988) - 今村安

  • 国際馬術競技時報第10号 - 日本国際馬術協会

  • 国際馬術競技時報第24号 - 日本国際馬術協会

  • 馬術情報 2003年5、6月号「マジョール(少佐)!貴方のソンネボーイに乗せて下さる?」 - 日本馬術連盟

  • Mariù Safier, Jolanda di Savoia la principessa del silenzio, Torino - Mariù Safier

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