見出し画像

[小説連載]絡新婦 #2(期間限定 全8話+あとがき 無料公開 毎日20時連載)

・毎日20時次章掲載予定(予期せず変更もございます。ご了承下さい。)
・過去作の記事は基本期間限定無料公開のため、予期せず無料公開を終了する場合がございます。
 予めご了承ください。
・一気に読みたい方は、Amazon Kindleにて絶賛発売中
    絡新婦(2019)
 (Kindle Unlimited会員の方は無料で読めます)
・Amazon Kindleのみ(電子書籍のみ)の販売です。ご了承下さい。
・Noteアプリを使用するとより読みやすいかもしれません。
   iOSはこちらからダウンロード
   Androidはこちらからダウンロード
各話リンク
#1(第1話)
#2(第2話)
#3(第3話)
#4(第4話)2020/07/21(火)更新予定
#5(第5話)2020/07/22(水)更新予定
#6(第6話)2020/07/23(木)更新予定
#7(第7話)2020/07/24(金)更新予定
#8(第8話)2020/07/25(土)更新予定
#あとがき2020/07/25(土)更新予定

 遥子は洗濯物を干し終わり、コーヒーメーカーに水を入れて、電源を入れた後、リビングのパソコンの前で外を眺めていた。まだ明け方だからか、それとも洗濯物をベランダに干してしまったせいか、部屋は暗い紺色に染まっていた。灯りもつけていないので、ディスプレイが放つ白い光だけがチカチカと点滅しながら部屋を照らしていた。向かいの道路でまだ鴉がカァカァとけたたましく鳴いている。鴉の声にも、朝のこの暗さにも慣れた。越してきたばかりの頃は、向かい側に建っているアパートが日を遮り、裏側に建っているアパートもさらに日を遮るような環境で非常に不便だと思ったし、早朝からけたたましく鴉が鳴き声を上げる環境に些かこのアパートを選んだことを後悔したが、その頃は自分の住む場所を選べるような状況ではなかった。だが、今では自分にはこの程度が丁度良いのではないかと思えた。

 コーヒーメーカーは蒸気を噴出する音を立てながら、どんよりとした室内に更にそれよりもどんよりとした重い芳香を放っていた。その芳香とは別に生ゴミの臭いがして、燃えるゴミを出してない事に気がつきキッチンへと向かった。シンクに置いてある三角コーナーの中に入った生ゴミの水を切って買い物袋に入れ、それを他のゴミとまとめて指定のゴミ袋に入れた。私はそのゴミを持って外へ出た。
 玄関の扉を開けると、数メートル先には裏側に建っているマンションが見える。裏側のマンションは、見上げると眩暈がするほど高い。しかしこの圧迫感にも慣れた。錆びついて青色の塗料も剥がれた鉄製の階段を音を立てないように下り、1階に着くと誰かが回しているのか洗濯機が轟々と音を立てながら廊下に鎮座していた。その洗濯機を通り過ぎ廊下の突き当りを左に曲がってアパートから出た。アパートの前には道路があり、その道路というのも路地裏とあってとても狭い。その道路を右へ曲がると、数メートル先にはゴミ収集場がある。そのゴミ収集場にゴミを運ぼうとしたのだが、そこには先客がいた。鴉だ。
 鴉たちはゴミ袋にぎっしり詰まった生ゴミを啄んでいる最中だったようで、彼らはその朝食を道端に撒き散らしながら鳴き声を上げていた。辺りには、吐き気がこみ上げるような臭いが充満し、その気体が鼻の奥に滑り込んでくる。鴉を追い払うためにスリッパを履いた足で地面を激しく蹴って音を立てると、鴉たちは一斉に飛び立った。集積場に置かれた金網で出来た籠を見ると、いつもならきちんと被せてあるはずのネットが少し捲くり上げられていた。きっと誰かがゴミを出した後に、ネットを下の押えのフックに掛けずに帰ったためだろう。飛び立った鴉たちはどうやら頭上の電線に逃げただけで、カァカァと鳴き声を上げてこちらを見下ろしていた。もうこんな劣悪な環境の日常にさえ、不快だと感じないほど私は麻痺していた。

 部屋に戻ると、コーヒーメーカーにセットしていたポットにはコーヒーが出来上がっており、中身がポットから噴き出ていた。その様子を見ても急いで駆け寄ることもなく、私はゆっくりとコーヒーメーカーに近づき電源ケーブルを抜いた。シンクの横にある小さな食器棚からカップを取り出してコーヒーを注ぐ。コーヒーが勢い余ってポットから出てしまい、テーブルに数滴ほど飛び散ったが、布巾は使わずに上着の袖で拭いて済ませた。カップを持ってパソコンの前に置かれた椅子に腰を掛ける。部屋はまだ紺色がかっているが、少し日が出てきたからだろうか、ややその深みは先ほどよりも薄れていた。コーヒーを飲みながら室内を見回してもそこには誰の姿もなかった。あるのは自分が左肘をかけているパソコンデスク、冷却ファンが低い音を立てているデスクトップ型のパソコン、数歩前に置かれた小さなちゃぶ台だけだった。その小さなちゃぶ台の上には求人誌が何誌かと、ハローワークのパンフレットなどが散乱している。

 キッチンの方からカタッと音がした。はっとして反射的にそちらを向いたが、リビングとキッチンの間のカウンターには誰もいなかった。炊飯器が音を立てただけのようだ。誰もいない。友治や巴も。

 友治とは、離婚して以降殆ど会っていない。会ったといっても離婚に関する手続きや、財産分与の話をするために何度か顔を合わせただけで会話という会話もなかった。娘の巴にはまったく会っていない。今は友治の実家で向こうの家族と共に暮らしているようだ。
 音がした方を向いたまま、視線は宙を漂っていた。そこに徐々にぼんやりと、昔住んでいたリビングが浮かんできた。そのリビングの広さは、キッチンとこの部屋を合わせても足りず、入り口を越えて裏側のアパートぐらいに壁面があり、そこにはテレビが掛かっていて、そのテレビの向かい側にコの字型に囲むように白いソファが置かれている。テレビが置いてある壁の右側にはカウンターキッチンがあり、テレビの左側の壁沿いにパソコンデスクが置かれている。今でもその配置が目に浮かぶのは、心の何処かでまだあの生活を捨て切れてないからだろう。そんな自分を嘲った。

 視界には、まだ昔のリビングの残像が広がっていた。目の前に広がるリビングには部屋の左側のガラス戸から夕日が差し込んでいる。パソコン側に置かれたソファの背もたれに凭れ掛かった女の子がパソコンに向かっている女性に何やら話しかけている。その女の子は小さなお下げを二つ結っていて、白い花柄が刺繍されたレース地のワイシャツに可愛らしいデニムのワンピースを着た幼稚園児ぐらいの子だった。巴だ。

 私はその頃、ネットで浮気をしていた。夫からは、毎晩のようにメールは来るものの、夫自身は自宅に帰ってくることはなかった。送ってくるメールには、今晩は先方との接待だ、残業で会社の仮眠室で休むから帰らないだ、上司や同僚の自宅に泊まるだ、と短い文章で簡潔に書かれているだけだった。最初のうちは心配で私も電話もしたり、向こうから電話がかかってきたりしたがそれもお互い面倒になったのだろう。次第に連絡を取り合わなくなった。単純に、電話をかけるのが恐いのもあった。何か厭なものを掘り当ててしまいそうで―

 久々に自宅に帰って来たと思えば、酒か香水の匂いを部屋中に撒き散らしながら、私との会話も短く済ませるとそのまま寝てしまい、起きたときにはすでに居ないというのが常だった。そんな中で巴はどんどん成長していった。
 私は子どもを保育園に預けてしまう事だけはしたくなくて、結婚後仕事を退職して専業主婦になった。それが楽かといわれれば、そうではなかった。寧ろ苦痛だった。巴が赤ん坊の頃は、育児と家事で日々がただ過ぎるだけだったが、忙しくても充実感はあった。また、その頃は夫も育児休暇をとってくれ、家族で一緒にいる時間も長かった。巴が幼稚園に入ると、私は幼稚園の行事の準備や、保護者会で家を空ける日が多くなり、外の世界と接触する機会も再び増えた。でも、保護者会に参加したりすることで、同じ主婦同志でのコミュニケーションが増せば増すほど、何故ここに居なければならないのだろうという虚しさが溜まる一方だった。専業主婦の私は共働きの主婦に比べて、保護者会の会議や行事へとかり出されることが多く、また巴がある程度大きくなってからは、地域の自治会の役員まで任されるようになった。専業主婦の私に対する周りの目は「暇だろう」「働いていないのだから」といった認識で、それを言葉にはしないものの、態度によってまざまざと表されていた。

 そんな状態に嫌気が差してきて、私はどんどん内に篭るようになった。会議がある度に他の主婦たちの世間話に付き合わされ、夫がどうだ、子どもがどうだというくだらない話をなんとか外面を貼り付けてやり過ごした。家に帰ると、巴が「お腹が減った」というので夕食の準備をして、その間に洗濯物を取り込んで畳んで箪笥へと戻し、夕食を作り、食器を洗って片付け、巴と一緒にお風呂入り、巴を寝かしつけて、翌日の朝食の準備をして、夫が帰ってくるのであれば夫が帰宅するまで待って食事を出して片付けた後、ようやく就寝。そんな慌しい毎日だった。
 外へ出るまでは、外へ出れば少しは楽になるのだと思っていたが、出てしまうと、寧ろ苦痛が増える一方だった。そんな慌しい日々の中で、深夜のささやかな自分の時間にパソコンに向かう事だけが、唯一の安らぎだった。

 元々仕事が事務でパソコンを使っていたこともあって、最初はネットで副業が出来ないかと色々調べてみたりした。でも、どの仕事を見ても一時的なものばかりで、とてもきちんとした収入が得られるものではなかった。私もまた働きたいと夫にも相談したが「その必要はない」と頑なに拒否された。巴が小学校に上がるまでは自宅に居て欲しい。そう言われてしまい、私自身もそうしたい気持ちもあって、働かずに自宅にいる事を選んだ。しかし、巴の先のことを考えると金銭的にも不安もあったので、それでも何かできないかと時間を見つけては足繁く、書店や図書館に行き副業について調べたりした。書店へ株やFXの本を探しに行った際に見たパソコン雑誌に、こんな記事を見つけた。

 最近では、ネットで株やFXなどの様々な取引がされているが、その取引が今や3Dの仮想空間でも行われるようになった、そんな内容の記事だった。その記事を見て興味が出た私は、副業の一環として挑戦してみようと思い立った。その取引が行われている仮想空間では、アバターという自分のキャラクターを操って、現実世界に近い姿をした町を自由に行き来して会話をしたり、ゲームやスポーツを愉しんだりと多種多様なことが出来た。私は、それらには一切興味がなかったが、雑誌に掲載されていた株やFXの事には興味があったので、さっそく自分のアバターを作った。しかし数日間たっても旨い具合に使いこなす事が出来ず、自分のやりたいことも出来ず、断念しかかっているときに彼に出会った。

3へ続く

©2019 絡新婦 村永青(むらなが はる)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?