
忘れがたき私的名作漫画 『一天四海』(作:華不魅 1994年)
虐げられた心が最後に選んだもの
「この一天四海(せかい)は俺にも優しかった事を思い出した」
今回取り上げる漫画は華不魅さんの『一天四海』。
古代日本とよく似てはいる…が、読んでみれば似て非なる異世界を舞台に、人間と日本神話やインド仏教の神々が惜しげもなく名を連ねて活躍する。
アジアン・ファンタジー漫画の私的名作だ。

古代日本神話の世界とこの物語の一番の違いは、神と人間が同じ地上に共存し、同じような価値観で生きている点。だから神も人を超える力を持ちながらも、人間界の王族や名士のような、金や武力を人よりも持っているだけの、ちょっと身分の高い“人間”みたいな気軽さで描かれる。
更にその「神」も一括りではなく、イザナギ、イザナミのような日本神話にも登場する「旧神」と、破滅の時に伴い海の外から渡ってきた、梵天、帝釈天などのインド神話がベースの「新神」に分かれているので、物語はより複雑になる。
大きな体やグロテスクな容姿を持つものも多い「旧神」は、その特殊能力と身体能力で長い時間を生きる。(でも無口)
一方「新神」と呼ばれる方は、旧神同様に超能力的な力と異形の姿形を持つだけでなく、前世の記憶を持ったまま、若い肉体を器として転生を繰り返す、という独自のシステムで“永遠”を生きる神だ。因みにこの肉体には人格がないらしい。まぁ、せめてそうでないと、人間はこの人たちを神じゃなく、悪魔と呼ぶだろう。元の人間を乗っ取っちゃうんだから。(こっちは雄弁)
どっちの神も人から見れば超能力的な力を持ってはいるが、神としてそれを力を持たない人間のために使うか、というと決してそうとは限らない。このあたりもひどく俗っぽくて人間臭い。
ただこの世界には、その神すら超えた「創造・安定・暗黒・帰滅」という大きな自然の力が周期に振るわれ、今、まさに帰滅(=破滅)のシーズンを迎えようとしている。その力には神さえも抗いきれない。
故に人間だけでなく神さえも滅びの予感に怯え、生き残りを懸けて神(主に新神)も人もそれぞれの思惑で動き始める。そうやって“破滅”は容赦なく、それぞれの本性をあぶり出してゆくー。
ーという話をヒューマンドラマと言うにはあまりにもスケールが大きいのだが、私はこれを、社会の底辺で足掻く若者が、踏み躙られた自分の魂を立て直していく姿を描いた物語としても紹介したい。
そんな末法の時代に生まれた人間の青年・カラス。親のいないバリバリのストリート・キッズである。
神のような力を持たない、ただの人間の孤児が生き延びるには、過酷な終末期の世界。当然のように孤児である彼は、大人たちから食べ物や金をかすめ取り、時には殺人さえ厭わず、日々を生き延びている。
カラスにとっては生き延びることこそが、この荒みきった世界への復讐。彼の中にあるのは自分を捨てた者への憎しみ、蔑む者への怒り。そして「そのすべてに唾を吐いてやる」という誓い。それがカラスのアイデンティティの全てだ。
だが、そんな生活は長続きしない。
犯罪を重ねるカラスはとうとう捕まり、罰を受ける。瀕死の状態だったが、そのまま死者として扱われ、他の死体と共に河に流されてしまう。その行き着く先は「死者の国」。
だがカラスはその地でイザナミの娘だというテンガに奇跡的に助けられる。彼女はひたすらカラスの回復を願って献身的に手当てをし、一人の人間としてカラスを扱う。
彼女の温かい優しさを受けて、カラスは黒々とした恨みと憎しみだけを抱いた、自分の惨めな心を初めて自覚する。そしてごく自然な流れとして自分の中の愛情、という温かい感情を呼び覚ましてくれたテンガと共に、これからも生きていきたい、と強く願うようになる。それも死者の国ではなく、自分が憎みながらも生きていた「外」の世界で。
当然、娘を失いたくないイザナミはこれを許さず、阻止しようとあらゆる手を尽くす。テンガもまた外には出ない、という返事をカラスにする。もちろん彼女にも外の世界への興味はあるが、母を一人にできないと思っているし、彼のように生きた人間が冥界から外に出てしまえば「死者の国」そのものが崩壊してしまうことを知っているからだ。
だがその答すら無視し、カラスはテンガを連れて外に出る計画を実行する。
ところが両者の脱出攻防戦の真っ最中、テンガは突然倒れ、死人となってしまう。
実はテンガはイザナミの実の娘などではなく、彼女の傷ついた心を慰めるためだけに作られた“人形”だったのだ。イザナミに「気」を吹き込まれることにより、命を得たもののように動き、感じ、考えた末に、傷ついた者に一番掛けて欲しい優しい言葉をかけ、して欲しいことをするように作られた“命を持たない”存在だった。
愛するものを失う、という突然の喪失体験に愕然とするカラスだが、ここで思わぬ奇跡が起こる。
“気”の力を使い果たしたはずのテンガが「外に出たい」と自分の意思を口にし、再び動きはじめるのだ。
“母”であるイザナミは、人形に宿った魂が、テンガの「外に焦がれる激しい情熱」から生まれたもの、と考えたようだが、断定はできないだろう。テンガがイザナミから「優しさ」を日々、吹き込まれるうちにわずかづつでも育まれたものでもあるんじゃないかと私は思う。
あるいは初めて、そして極めて強い生命力を宿した人間・カラスと触れたことで、新たに芽生えた自分の“感情”に気付かされたのかもしれないし、それ以外の要素もあったのかもしれない。
一方、テンガが自分の意志で動きはじめたことを知ったイザナミは、とうとう二人の旅立ちを許す。
その時テンガには、意志を持つようになっても彼女が完全な人間ではないことを改めて含ませて、
「生きる意味を見失えばただの肉塊に戻るだろう」と、
カラスには、作られたものとはいえテンガの持つ心地よい優しさに
「しがみつき、溺れる事あれば自滅しよう」それを間違えるな、と忠告する。
そしてテンガが人間の肉体を得る手段を、以前の夫、イザナギであれば持っているかもしれない、という助言まで与えるのである。
そこには下手にこじれている現実の親子よりも、ずっと直球で温かい、娘の幸せを願う母からの愛情が静かに、確実に流れている。
カラスが禁を冒して地上に帰ることで「死の国」は崩壊したかもしれないが、帰滅の周期に入った今の世では遠からず、死の国は無くなるだろう、という考えもイザナミにはあったかもしれない。
その後、地底に縫い止められ、動けないイザナミは自らの滅びを受け入れる。
こうして滅びた死者の国をどうにか脱出したカラスとテンガは、「テンガを本物の人間にする」ための旅を始めるー。
この後この二人に、イザナギとイザナミの最初の子ども、イソラが加わる。彼は変身能力で美しい見た目の人間になるのだが、原形である神の姿は醜く、そのため父母に捨てられたと思っている。今も昔も変わらない、ルッキズムがもたらす苦悩の申し子のような青年だ。
けれどそれには訳があるに違いない、と諭すテンガに誘われ、イソラはカラスたちと共にイザナミを訪ねる決心をする。
こうして集まった三人の『オズの魔法使い』的な物語は、進むにつれそんな単純なゴールには収まらなくなってくる。
それはこの物語の周期的な破滅は人間ばかりでなく、神すら滅ぼす破壊力を持つからである。
神だって滅びたくないものも数多くいる。そのため、彼らは生き残りを懸けてその超常的能力を用いて人間をとことん振り回す。永遠の命にしがみつきたい神・梵天。一見、その超常的な力を慈しみとして人間に分け与えるように見えながら、人間の信仰心のエネルギーを使って次の破滅期を引き伸ばしたいと目論む神・月天。退屈な状況は嫌だ、と混乱をもたらそうとする神・ハヤスサもカラスたちを掻き回す。それぞれの思惑と画策が、一気にカラス以外の人間たちにも背負わされる。
カラスとテンガは徹底的にその肉体を神の宿りやすい器(=依代)として利用されまくる。
カラスは破壊神・伊舎那天を自在に呼び寄せ、同時に展開に強制帰還させることができる“門”として(これも何度か読み込まないと判りづらい)、その上、伊舎那天を制するアナンタの依代に。テンガは吉祥天の転生先の器として。
神よりか弱き人間にもまた、恋焦がれる幸せな未来を求めているはずなのだが…。
『一天四海』は、最終的にそんな神々から人間が自分たちの世界の舵取りを勝ち取る、スケールも壮大なファンタジー漫画である。物語は深く考え抜かれ、練り上げられており、完成度も驚くほど高い。
けれどそれを取っ払って、カラスという青年があくまで「人間」として成長する物語の部分だけを掬い取って読んでも全く遜色を感じさせないのが、この漫画のもう一つの凄さだと思う。
ただの若者としてのカラスは物語冒頭、どんなにツッパっていようが、自分を捨てた親、虐げた大人から金品を奪い、傷つけ返すことで自分を満たそうとしている、未熟な子どもだ。
(「大人」を復讐の対象としている、ということは同時に自分は子どもだ、と言っているようなものだと思う)
死の国からテンガを連れ出す時も
「本当は外に行ってみたいんだろ?俺にはわかる」
と、ほぼ強引な決めつけでテンガを“外”に連れ出そうとする。確かにテンガも外は見てみたい、とは思っているだろうが、作られたものとはいえ本来が優しい性質を持つ彼女が、母を一人で置いていきたくない、といった気持ちも同じように強く持っているかも知れないことには思い至らない。
裏を返せばそうまでしてでも、テンガを自分の側に置きたいのだろうが、この頃のカラスはまだまだ自分本位な子どもなのである。
そりゃあカラスは別れ際に、イザナミから「(テンガの優しさに)しがみつき溺れる事あれば自滅しよう」という助言をもらってはいる。いる…が、骨の髄まで味わった孤独からようやっと浮上できたばかりの青年が、そうあっさりと心を切り替えられるはずもない。
テンガを失うかもしれない危機をどうにか自力で乗り切ったものの、その恐怖をひしひしと思い知らされたカラスは
「イザナギに会って人間になって、ずっと俺と一緒にいてくれよ」
とテンガを抱きしめながら懇願する。それも無理のない話だし、その弱さもまるっと含めた姿は、間違いなく年相応の青年のものだ。
そのカラスが物語の終盤では「拾った俺を死ぬまで気にかけてくれたゲン爺、こっそり残飯をくれたおかみ」など、自分に優しかった大人たちを思い出し、「この一天四海(せかい)は俺にも優しかった」とこれまでの恨みつらみだらけだった考え方を、自らの成長で塗り替える。
冒頭でこのセリフを取り上げたのは、カラスが自分に“してもらえなかったこと”ばかりを数えていた子どもから、大人の認識に移り変わったことがよく分かる件(くだり)だからだ。
だからもう、泣いて不満ばかり言うのではなく、自らの手で世界を変えていこう、とカラスは決意する。
一方テンガは自分がイザナギと会うことで、世界の破壊のはじまりである天変地異が起こってしまうことを知る。
考え抜いた末、彼女はイザナギと会うことはするものの、天変地異のダメージを軽くする手段を得るために、カラスの元を離れる決心をする。
そんなテンガの手を、あれほど一緒にいることに執着していたカラスが、彼女の意思を尊重する形で離すのだー。
これは漫画の主人公としては当然の決断かもしれないが、彼を一人の人間として見るならば、自分の魂を救ってくれた人を、生涯のパートナーと決めた人の手を離すというこの行為が、どれほど深い信頼を重ね、自分自身を鍛えてきた末に出来るようになったのだろうか、と考えて見ずにはいられない。
ただこの話はあくまでファンタジーだ。なので、テンガと別れてたった一人、宇宙の力場にたどり着いたカラスがそこにいる神のような精神体に、割と簡単に高評価されてしまうのが読み手としては惜しい。その者に言わせると、今やカラスは人間でありながら神にも匹敵するレベルの“精神的な強さ”を身につけた者であり、同時に「何にでもなれ、宇宙のどこにでも行くことができる存在」になった、と言うのだ。
(このあたりはどうしても安っぽさを感じてしまう)
そしてその評価は暗に、自分の生まれた小さな惑星から広い宇宙に旅立て、と彼に促しているかのようだ。
⭐️しかし、ここでカラスはテンガに誓い続けた「一緒に生きる」約束を思い出す。そして”人間”という宇宙から見たらごくごく小さな存在に還ることを選ぶのである。
彼は自分が大きな力を手に入れたことでテンガや人間たちを見捨てるのではなく、かと言ってテンガに縋る人間になるのでもなく、対等な存在として彼女の側で生きようと決めるのだー。
ただ惜しむらくはこの物語、全3巻、と短いスパンで語られるので、話のスケールの割に詰め込み過ぎた印象があり、私個人としては息苦しさを感じてしまった。
けれど、それを差し引いてもこの『一天四海』はいつまでも擦り切れない、心に残る物語だと思う。
※今回はゴールドラッシュさんの写真をお借りしました。テンガの名前の由来である銀河、そして一話のラストでカラスとテンガが見た星空を想像できる一枚でした。