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忘れがたき私的名作漫画 『パーム シリーズ』

「愛は何度でも生き返るんだよ。だからお前が大切な人を失くしても 世の中を呪ったり、神様にあくたいついたりしちゃいけないよ。何があってもそりゃあまた戻ってくるもんだよ。」


  今回、紹介する作品は伸たまき(現:獣木野生)さんの『パーム』シリーズ。

 この作品はオタク女子が主な愛読者の新書館『Wings』に連載されていたもののため当時、全く注目されていなかった。もっともかなりオタクが市民権を得ている今では、その評価がどうなっているかはよくわからない。おまけにこの話、肝心の私も途中でリタイアしたりもしたので、最終的な評価も不明だ。
 が、20巻ぐらいまでの、環境運動に傾倒し、少々ついていけなくなるところまでは、私の中では金字塔になっている。


ジェームスの少年時代を描く 『ナッシング・ハート』

 これはW主人公(と私は思っている)の、探偵業に手を出した医者・カーターと、彼の探偵助手として身を寄せる、天才的頭脳と老成した人格の持ち主である青年・ジェームスの物語。
 取りあげたセリフはその一人・ジェームスの、あまりに複雑で過酷な少年時代が語られる第2巻『ナッシング ハート』でのもの。

 マフィアのボスの息子に生まれながら、父親にその天才的な頭脳を恐れられ、疎まれるのを通り越して、偽装誘拐事件を企てられ、わずか10歳で命を狙われるジェームス。
 父の冷淡さを知り尽くしている彼は、自宅ではなく乳母の家に入り浸り、むしろその場所で真の家族としての幸せを手に入れていた。
 だがその父親が企てた、狂言誘拐事件に巻き込まれた乳母とその息子が殺害される。結果、無念にもジェームスの誘拐は成功してしまう。
 表情にこそ出さなくとも、静かに怒りをたぎらせた彼は、実行犯らに更に怒りを煽られ、彼ら3人のうちの2人を殺してしまう。

 後から来た3人目の男に銃の台座で殴られて失神したジェームスの、夢とともにに蘇ったのが、乳母・マリアが彼に諭すように語った見出しの言葉。
これを語った当時、彼女は最初の子どもを肺炎で亡くしたばかりだった。ジェームスにだけではなく、自分にも言い聞かせるように紡がれた冒頭の言葉が、彼を正気に戻らせる。

 許しがたい、不条理なやり方で大好きな人と二度と会えなくなってしまったとしても、ひねくれたり世をそねんだりしない魂の下に、その大好きな人の魂は形を変えても、きっと戻って来るのだ。

 これを読んだ時、私にはその言葉が、そんな意味合いを持って響いてくるように感じられた。

 この言葉に何の裏付けがあるわけではない。リアルの世界なら尚のこと、そんな魂の持ち主に必ず会える、なんて、誰にも証明できない。だからそんな無責任な言葉なんか信じられるか、と、拒むこともできた。
 でも私の奥底の方から「この言葉は嘘じゃない」と本能のささやきみたいな声がした。だから信じる気になった。
 けれどもそれは私自身が受けた、いじめの経験がそう言ったのかも知れなかった。

 いじめの被害者だった時はやった者への恨みで心がいっぱいだった。だから、彼らへの報復としては何が一番効果的だろう、と考え抜いて猛勉強の末、政治家になってヒトラーのような悪政を行うのが一番いいだろう、という結論に至った。ヒトラーおばさんになる!これを目標に定めた私は、私史上、一番熱心に勉強に励む時期を迎えた。
 そう、「いじめられる奴が悪いんだ」と言い放った奴らを迫害する法律を作り、「迫害される奴らが悪いんだ」という言葉を突きつけ返せるようにー。

 けれど、そこまで意気込んだ思いも、一年も経たずにしぼんだ。
その時こそ自分が受けた、あまりにも不当すぎる迫害だけに目が眩んでいたが、落ち着いて自分を俯瞰できるようになると、私は決して人を裁けるような人徳者ではないことが判ってしまったからだ。
 端的に言えば、自分より劣った者をいとも簡単に馬鹿にしている、自分の姿に気づいてしまったからだ。その自分の醜さに、愕然としたからだ。
 だからって、人をいじめていいということにはならない、という気持ちは今でも変わらないけれど、今思えば醜い上に、自分の悲しみばかり見ている私は自分のことしか考えられない、ただの子どもに過ぎないことに気付いたのだ(まぁ、これについては無理はないけれど。だって家を一歩出れば世界中が敵だ、と体を固くしながら毎日を過ごしていたのだ。自分の気持ちを整理する余裕もなかった)。
 ついでに言うなら県内でもそこまで学業レベルの高くない学校で、上位クラスになったところで、そもそも政治家になるには程遠かった。(笑)

 けれどそうやって、人を憎んで恨んだ末にやっとわかったことがあった。それは、自分は別に人を傷つけて溜飲を下したかったわけではない、ということ。いや、それもゼロではないけれど、それ以上に、学校という社会の中で「幸せになれなかったこと」が哀しかっただけなのだ、と。
 仕返しをして胸のすく思いを手に入れても、きっと体の芯からの満足感を得ることはできないだろう。仮にできたとしても、それは一時のことだ。長続きなんかしない。だから、そのことに時間を費やすより、自分が幸せになれる道を探す方が優先事項だ、と。
 私はどこかでそのことに気づきはじめていたのだ。
マリアの言葉はそんな迷走するばかりの私に、目指すべき方向を示してくれた。
 だから例え、最後まで好きな人の魂が自分の所に帰って来なかったとしても、大事な人がいつでも戻って来られる生き方をしよう、と思えたのだ。

 結果。
そういう生き方は今に至るまで、以前よりずっと気持ちの良い時間を私に与え続けてくれた。

  一方、この話ではマリアの言葉を証明するように、ジェームスは再び(血のつながりはなくとも)「家族」として心許せるカーター、アンディ、アンジェラらと巡り会うことができた。そして短い時間でも(この人は短命なのだ)、切望していた“人との繋がり”から、最上の幸せを享受した。
 彼の愛情はマリアのこの後の言葉のようにナッシング・ハート(決して傷つきはしないもの)だったのだー。

 私自身は、といえば、そこまで強烈な巡り逢いはないけれど、何となく身の回りに同じようなタイプの人が、繰り返し現れるなぁ、と感じることがある。
 いい人でも、嫌な人でも。これは、いい人だったらより幸せになるために、嫌な人だったらそれを乗り越えて幸せになるためのチャンスを、どこかの誰かが与えてくれているのかもしれない。

 生きていれば、全く無傷でなんかいられない。傷の痛みに、重さに、引きずり込まれそうな時、何度でもこの言葉を思い出す。
 これは私にとって、そういうギフトをもらえた、至福の物語だ。

※今回は bookpartyさんのイラストを使わせていただきました。

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