【短編】まぶしさにやかれるまでに
苦しんで死んで欲しいと願っていた人が死んだ。そんな便りが届いた。どうやら、苦しんで死んだらしい。本当のところはわからない。ただ、僕が怨んでいた人が死んだという手紙だった。そのとき、僕はこれまでずっと願っていた結末なのに、諸手をあげて喜べなかった。人の死に喜ぶ自身が浅ましいと思ったからじゃない。ただ、本当に呆気なかったからだ。
こんなにも呆気なく、人は死ぬ。目の前で死んで欲しいと思ったわけじゃなかった。ただ、苦しんで死んで欲しいと思った人だった。それだけのことで、でも僕は自分が苦しめる側になろうとは考えてもいなかった。僕の知らないところで、苦しんで死んでしまえば良いと思った。そして、その通りになった。それは、僕が願った結末だ。だけど、何もスッキリなんかしなかった。
僕の姉は、それはそれは悪い奴だった。僕と妹のことを酷くぞんざいに扱い、逆らえば殴られた。今思えば、不思議なことだ。僕のほうがよっぽど力も強いのに、僕は姉に睨まれると身体が竦んで動けなくなってしまう。これは、両親の影響もあったかもしれない。両親は、姉のことを大事にしていた。僕と妹のことが嫌いだったわけじゃないとは思う。だけど、両親は僕と妹を守ってくれなかった。僕と妹は、長らく姉に虐げられて生きてきた。
でも、世の中とは不思議なもので。僕は、姉に虐げられてきたことを外の人に話したことがある。でも、一様にこう言うのだ。「兄弟喧嘩じゃないか」と。そう、これはたかが喧嘩なのだ。僕と妹は、いつか話したことがある。どちらが姉を殺すか。姉がいなくなれば、もっと僕たちは幸せになれる。そうやって夢想した。実際、そんな勇気はなかった。でも、僕たちはそうやって話し合うことで、有り得ない未来を夢想して生きてこれたのだ。そんな風に話し合ったのも、たかが兄弟喧嘩に違いない。皆、こうやって生きているのだ。そう思った。殴られても、土下座させられても、人前で大声で罵られても、全ては兄弟喧嘩になる。だから、僕はこの血が嫌いだ。
不仲な両親は、互いを罵り合う。そして、親を以てして、汚い血だと言われた僕は、どちらの血も受け継いでいる。いくら努力しても、血は変えられない。それなら、どうしたら良いだろう。僕は死にたくないから、這いつくばってでも、生きていくしかなかった。
そして、そんな姉が死んだ。そんな知らせを受けたのは、僕が一人暮らしをしてから数年後のことだった。苦しんで死んで欲しいと思っていた人が死んだ。そして、実際に苦しんで死んだらしい。そう聞いて、胸が空くと思ったら、何もなかった。何もない。ただ、何も考えたくない。一人暮らしをしてからは、ずっと一人で生きてきた。がむしゃらに仕事を頑張った。ただただ、外の世界に迎合するように努力した。何よりも、外の世界が僕を受け入れてくれたから。僕のことを評価してくれたから。僕を大切にしてくれたから。
だけど、僕の目の前には何もなかった。いつか、いつかを考え続けた。遠い昔、妹と一緒に話した。お姉ちゃんが死んだら。そんな話。だけど、今は何も思いつかない。姉が死んでも、僕の世界は何も変わらない。むしろ、ただただ空白だけが続いている。通夜のために、一人暮らしのアパートから実家に帰った。両親は、すっかり痩せ細っていた。そして、つとつとと語り始めた。その内容の一つも、僕は覚えていない。
苦しんで死んで欲しいと思った。僕のことを苦しめながらも、幸せに生きるのはおかしいことだ。僕が苦しいと思っただけ、苦しんで欲しい。来世も何もない。僕は人生を捨てている。そう、とっくの昔に。そして、そんな僕を生み出したのはお前だ。姉だ。だから、ただ、姉を苦しめるためだけに生きていたかった。だけど、結局はそうじゃなかったのだ。
僕は、ただ謝って欲しいだけだった。ごめん、と。そう言われても、納得はできないかもしれない。だけど、何度でも謝って欲しかった。僕にしたことが、僕を苦しめていたことを自覚して欲しいだけだった。そして、その言葉をずっと聞きたかっただけなんだと気づいた。
姉の遺体を前に、僕はようやくそのことに気づいて、そして涙が溢れた。命は儚い。皆、そうやって言う。でも、本当に儚いものなんだと思った。まさか、こんな終わりが来るだなんて思ってもいなかった。いっそ、もう二度と見ずにいなければ、僕は未だに憎しみだけで生きていけたかもしれないのに。結局は、血の繋がり。僕も姉も妹も、血の繋がりからは抜け出せない。どうしても、僕たちは絡み合ってしまう。こうして、見たくないことすら見ざるを得ない。
姉の遺体を横に、僕はぼうっと考える。皆が寝静まった後に。姉の顔は、見られなかった。その顔を見たら、吐いてしまいそうで。苦しくて、気持ちが悪い。僕は葬儀場から出て、外を歩く。冷たい風が気持ち良い。気慣れないスーツが肌を擦る。
ふと、ネオン街が見えた。眩しいネオンに、僕は瞬きを繰り返す。ずっと昔から、ネオン街に憧れていた。目が焦げるぐらいの眩しさに憧れて、生きてきた。僕は、お前らとは違う。そうやって、逃げるように一人暮らしをはじめた。外の世界に救いを求めた。がむしゃらに働いて、そして、僕は今も生きている。
でも、本当は。僕は、ネオン街が好きなんじゃない。本当は、とろけるような朝日が好きだった。カーテンを開いた部屋で、窓を焦がす朝日に目を覚ますように。うたたねをしそうになるような、優しい木漏れ日のように。ゆたりとした時間を楽しむように。太陽がのぼり、太陽がしずむ。その姿のまま、生きていけるように。そんな生き方を、僕はしたかった。やわらかい日差しの中で生きていたかった。大事なものを丁寧に守るような生き方をしていたかった。
もう、今更なことだ。わかっている。何も変わらない。でも、心の中で燻る何かがあって、どうにもならない。そうだ、姉は死んだのだ。そう思う度に、心が軋んで、どうにもならなくなる。何もなくなった僕は、どこへ行けば良いのだろう。遠くに行きたい、と呟く。これは僕の口癖だ。何も知らない場所まで行きたい。遠くへ、遠くへ。
僕のことすら知らない遠くへ行ったら、僕は変われるのだろうか。それは、わからない。ただ朝日を見たいと思った。とろける朝日を眺めて、綺麗な太陽だと笑えるような自分になりたい。そう、ずっと願っている。死んだ命の横で。
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