【短編】赤い月
なんとなく悪いことをしたくなって、貴方の残したオレンジの皮をゴミ箱に捨てることにした。
残しておいても意味がない。何でも残したがる私のことを、貴方は「面白みがない」と小馬鹿にしていたけれど、もう今更何を言っても詮のないことなのだ。
貴方は最低な男だったと思う。浮気もしたし、ギャンブルもした。ロクでもない男というのは貴方のような男をいうのだろう。だけど、私が泣くといつもしみじみと「ごめんね」と心の底から謝るような男でもあった。
きっと、貴方がロクでもない男だったのなら、私も面白みのない女だったのだろうと思う。幾ら仲の良い友人に「別れろ」と言われても、私は貴方から離れられなかった。
貴方が泣く姿を見たときだっただろうか。それとも、もっと昔、私達が出会ったときだっただろうか。もうどうでも良い。私と貴方がいるのなら、もう何でも良いと思ったときもあった。
「なんだか泣けちゃうね」なんてアイドルじみたことを言うのは終わりにしようと思う。「ずっと一緒にいたのにね」なんて子供じみたことを言うのは終わりにしようと思う。
色々考えたけれど、肌を刺すような寒さにどうでも良くなって、それが本当の終わりだった。思考がぐるぐるしているのに、吐き出すことも出来ない。胃がぐるぐるするのに、吐けないみたいな変な感覚は、きっと風邪をひいたからだ。さっきから鼻の調子が悪い。
あと数歩歩けば、貴方の家がある。扉を叩くだけで良い。そうしたら、きっと真実に出会える。そう思うのに、薄汚いアパートの二階に続く階段に座り込んで、それからずっと動けずにいる。
どこかでゆらゆらと煙っている。燻っている。ふと顔をあげると、自分が白い息を吐いていることに気がついた。手が震えるのも、きっと寒さの所為だった。そんな当り前のことに気がついて、ポケットに入れたままだったスマートフォンを取り出す。
もう二時間も経っていた。逆に言えば、二時間もこの階段を上っていないことになる。人が少ないアパートなのだろう。そりゃあそう。私だって、こんな汚いアパートには住みたくない。頼まれたって、住みたくない。
スマートフォンをポケットにしまって、宙を仰ぐ。真っ黒な空に、ぷかぷかと白い月が浮かんでいる。今日が赤い月の日じゃなくて良かった。大きな月の日じゃなくて良かった。そんなことを思った。
目を瞑ると、冷たい空気が頬を撫でる。白い息が漏れるのも、手が震えて仕方がないのも、全部寒さの所為だ。瞼の裏で白い月の明かりが眩しくて、それすら隠すように顔を両手で覆う。
じんわりと掌に染みる温かさに、自分が泣いていることに気がついた。いや、気がついていた。涙が止まらなくて、嗚咽も震えも止まらない。鼻をすすって、もう一度ポケットからスマートフォンを取り出す。未だ二時間と数分しか経っていない。それなのに、通知が止まない。延々と続く他人の言葉は、まるで貴方と一緒に見て「長くてつまらないね」と笑い合った映画のエンドロールみたいだった。
「なんだか泣けちゃうね」
そう口にすると、ぼろぼろと涙が後を追う。
「ずっと一緒にいたのにね」
まるで、後追い自殺するみたい。そう考えた私は、面白みのない女だ。本当に、今日が赤い月でも大きな月でもなくて良かった。
こんな当り前の一日が、貴方の命日な筈がない。
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