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優しくはなれない

 数年前の僕は、誰かを救いたいと思っていた。簡単に言うと、ヒーロー願望があった。全人類は救えないので、自分の目の前の人は救いたいと思っていた。あのときの心は嘘ではないと思う。だけど、自分中心な考えは捨てられなかった。自分なりの救い方しかできないし、自分にはそれだけの立場や財力もない。恵まれた人しか、本当の意味で人は救えないのかもしれない。お金がなくてもできることはあるけれど、お金がないとできないこともたくさんある。でも、その現実を見ないようにして、自分ができることしかやってきてなかったような気もする。結局のところ、そう思っていた自分は確かだった。だけど、本当に誰かが救われていたのか。その答えはわからない。
 自己犠牲の心は持っている。自己犠牲に慣れているつもりではあった。だけど、いつも覚悟しなければいけないから疲れる。「やらねばならぬ」という覚悟を持つのは、少しだけ面倒で、少しだけ疲れる。覚悟する度に思う。これから面倒なことがはじまるんだろうな、と思う。だけど、その選択肢が見えてしまった時点で、逃れる術はない。「すべき」論者は、いつもこの負のループに巻き込まれ、苛まされる。一生治らない悪癖と呼んでも良い。見えてしまったものを無視はできない。そこから目を逸らすことができない。だから、少しぐらい馬鹿なほうが良いのだ。最初から選択肢は少ないほうが良い。自分を楽に生かせるには、そうするしかない。見えてしまえば、やっぱり無視はできない。良いアイディアが、途方もなく手間で面倒なアイディアが思いついてしまったとき。ひらめくとき、電球にぱちりと光が灯る。でも、その電球は地獄に続く道を照らしているのかもしれない。だとしたら、はなからその道を照らさなければ良かったのだ。道なんて見えないほうが良い。多分。

 クリティカル・シンキングというものがある。具体的に何なのかはわからない。会社で適性検査を受けると、いつも「抑うつ性」の数値が悪い。これまで幾つかの適性検査を受けたけども、どれもこれも精神的な数値が終わっている。精神を数値化するという行為も終わっている。つまりこの世界は終わっているのだから、丁度良い。という僕の口癖じみた変な理論も、もはや飽きてきている。ともあれ、今の僕は意外と気分が良い。そんなに病んではいないと思う。だけど、いつも数値が悪い。
 やっぱり心を数値化することに懐疑的だ。あまり意味がないと思う。だけど、数値じゃないと納得できない人もいるだろう。つまるところ、何でもかんでも目に見える形にしないと納得できない。不安な心を抑えられない。曖昧なものが苦手な人は、大体不安症を患っている。その不安の根源はなんなのだろう。少しだけ興味がある。
 大概、僕も不安症ではある。いや、不安症だった。大概な不安症だった。不安で夜眠れなかった。動悸が酷かった。手が震えて、足も震えて、もう立っていられないんじゃないかというときもあった。世の中には「間違えてはいけないときがある」と思っていた。「間違えたって死なない」という言葉を信用できなかった。いや、信用できないのではない、ハッキリ言えば「嘘だ」と思っていた。世の中には、間違えてはいけないときがある。確かに、それは僕の中で事実だった。でも、今思い返しても、あの頃の自分がそれを強く「事実だ」と感じていた理由はわからない。だけど、当時の僕は、それはどうしようもない事実だと思い込んでいた。だから、間違えたらいけないときの不安は凄まじかった。間違えたら死ぬのだと思っていたのだから、それはそうだ。でも、実際死にはしなかった。だけど、脳の奥が変な感覚だった。この感覚の説明は難しいんだけど、なんというか全く興味がないし必要がないとわかっている答えのない問いに対して、必死に答えをだそうとしなければいけない、みたいな。そういう嫌な感覚になっていたのは覚えている。結局、そんな僕を救ったのは、僕だった。ある晩、夜も眠れなかった。ただ、ただ不安だった。だけど、そのときふと思った。
「どうせ、僕は何もしないんだ」と。
 理由のある不安なら、未だ良い。でも、当時の僕を悩ませていた不安というのは、特に理由もなく、対処法もなく、ただ悪い結末だけを予想してしくしく泣き続ける、という生産性の欠片もない何かだった。それに対して、あの晩に僕が思った「こんなに不安なのに、悲しいのに、苦しいのに、でも僕は何もしないんだ」という、ともすれば自分に対しての辛辣な問いかけは、あのよくわからない不安を吹っ飛ばしてくれた。「そうだ、僕は何もしない」のだ、と気づいた。不安で不安で仕方がないのなら、何かすれば良いのだ。今からでもパソコンを開き、メールを書けば良い。資料を作れば良い。泣きながら、こうすれば良いと思ったことを行動に移せば良い。この不安を吹き飛ばしてくれるだろう、自分の思う正しい行動をすれば良い。筈なのに、僕は布団の中でしくしくと泣き続ける。その事実が、僕の不安はただの僕の妄想の世界の不安だということを証明してくれていた。そして、結局これだけ泣きながらも、行動できない自分という人間を、本当に突然、見つめることができた。僕の不安の出どころが何だったかはわからない。でも、もっとできる、もっとしなければいけない、と思うだけだった自分という事実を見つめて「僕はそういう奴なんだ」と受け入れることができた。そう、正しく僕は「結局、何もしない奴」なのだ。こうして、僕は夜に泣くことが少なくなった。いや、ほとんどなくなった。今も、時折不安で眠れなくなるときがある。そういうときは、こう考える。「でも、僕はこうして考えたことを、何一つとしてしないのだ」と。そう考えると、悩んでいるのが馬鹿馬鹿しくなる。そうやって、うまく自分と付き合っていくしかない。

 クリティカル・シンキングの話を忘れていた。どういうことなのかと言うと、批判的思考のことらしい。何故、それがクリティカル・シンキングなのかがわからない。僕は、英語がよくわからないので、もう本当によくわからない。わからなかったので、インターネッツで調べてみた。そういえば、批判的といえば、僕は適性検査で批判的MAXだった。そもそも論が好きなのだ。これを、僕は哲学的な考えと思っている。でも、実はそうでもなかったのかもしれない。いや、でも哲学ってそんなもんじゃなかったっけな。本質論は、仕事で良くでてくる。「どうしようか」と考えると同時に、「そもそも」を考える。物事の本質を理解できれば、ルールなんて不要だということにも気づく。そういえば、この前、こんなことがあった。
 部下と出張に出かけたとき、地下鉄の道を歩いていた。どうやら、混雑時はとんでもない人数が闊歩しているだろう道だった。何故なら、広い道の真ん中に白線(黄線だったかもしれない)が引かれていて、進行方向で歩く領域が決められていたからだ。僕が歩いたときは、本当に人がいなかった。偶々、時間が良かったのだと思う。しかし、部下はおもむろに僕から離れ、ルール通りではあるが、目的地に遠回りになる道を歩いた。「何でそっちに?」と聞くと「ルールですから」と部下は答えた。まぁ、それはそうだなと思った。ルールではある。しかし、今ここには、僕と数人しかいない。進行方向が逆の人が同じ道を歩いたとしても、ぶつかることなんてありえない。「でも、ほとんど人いないよ?」と言うと、部下は「それはそうですが」と言った。そのとき、何となく僕は思った。世の中には、きっとこういう人が多いんだろうな、と。
 前述したことも、傍から見ると「ルールを守っていない」僕が悪いのだろうと思う。でも、そもそも何故このルールがあるのだろうか。それは、きっとこの地下鉄の道が通勤時間はひどく混んでいて、進行方向が逆の人が同じ道で歩くと、うまく人が流れず、効率的に交通機関を活用できないからだと思う。つまるところ、ルールというのは過去に「何か原因があり」「こうせざるを得なかった」というものなのだ。では、その原因が発生していないときに、そのルールは守るべきなのか。しかし、恐らくはこういう意見もあるだろう。「ルールは、その前提条件や原因に関わらず、常に順守すべきである。でなければ、ルールを破っても良いのだと思う人が現れる」という意見だ。まるで、ご最もな意見だ。でも、個人的には、その意見には同調しかねるときがある。何故なら、その意見というのは、つまるところ、人間とは愚かであり、原因を学ぶ必要などなく、常に同じでなければいけない、と言っているように感じるからだ。
 ルールは守らねばならぬ。それはそうだ。しかし、その前の本質。何故、そのルールができたのか。それを教えず、理解させる余地を残さず、ただ隣の人と同じことをすれば良い。だから、隣人もしくは生きる人間全てが同じルールを守るべし、というのは、あまり肯定したくないなぁと思う。何度も言うが、ルールは守るべきだし、ルールは使いようによっては簡単で間違いがない。ルールさえ守っていれば、その基となった本質も守られる。ものすごく、簡単な統治方法だと思う。しかし、ルールができたいきさつや原因、つまりは本質を理解する余地を残さなければいけないと思う。個人的には、何故かはわからないがルールだけは守る、というその文化が、臨機応変がわからない人間を育てているのではないか、と思ったりする。
 これは言い過ぎかもしれない。とはいえ、僕みたいな人間のことは、本当に正しくルールを守る人からすると「不真面目」で「屁理屈ばかり」で「良くない人」だと思うのだろうから。また、いつものように屁理屈を言っているのだと思っていただけたら良いと思う。


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