【短編】無自覚症状ダーリンダーリン
BL風味です。
はじめて僕が細沢遥と出会ったのは、僕たちが中学二年生、十四歳のときだった。
細沢遥は、滅多に学校に来ない。黒の頭が並ぶ中で一際目立つ金髪に、耳たぶにぶらさがった貴金属は、俗にいう不良を連想させる。実際に、彼は素行があまりよろしくなかった。授業中もずっと眠っているし、朝にいたかと思えば、午後にはいなくなっていることもある。僕たちは、同じ空間にいる。だけど、誰もが彼の存在をなかったことにしていた。目が合わないように、少しでも距離が近づかないように。
珍しく、その日は彼が登校していた。こめかみが、ちくりと痛む。彼が教室にいるときは、いつも以上に神経を尖らせる必要があった。まるで、草食動物の檻の中に、気まぐれな肉食動物をぶちこまれたような、そんな異様な空気。どことなしか、教師の顔も強張っているような気がする。シャーペンの芯がノートにひっかかる音が、妙に頭に残る。彼がいる日は、どうにも僕の悪い癖が出てしまう。いつも以上に、周囲の音が気になってしまうのだ。暑くないのに、冷や汗が止まらない。彼に何かされたことなんてないのに、いつもと違うことが怖くなってしまう。ちくり、と目の奥が痛む。教師の声が反響して、気分が悪い。消しゴムを取ろうとして、震えた指先が弾いた。思った以上に飛んだ消しゴムが宙を舞って、僕よりも数席前の床に転がる。視線を上げた拍子に、こめかみから冷たい汗がつたった。
誰かが、消しゴムに手を伸ばしていた。金色の髪が揺れている。教室の全員が、きっと彼を見ていた。彼の伏せた視線が彷徨って、僕を見つける。目と目が合うと同時に、彼は振り返ったまま椅子に身体を預けて、僕に消しゴムを差し出した。
「はい」
窓の外で、蝉の鳴き声がする。そのとき、はじめて僕は彼の声を聞いた。
◎◎
はじめて俺が長田縁と出会ったのは、俺たちが中学二年生、十四歳のときだった。
昔から、自分の名前が大嫌いだった。父親が好きだった芸能人の名前らしいが、この名前の所為で、小さい頃から「女の子みたい」とからかわれてきた。「はるかちゃん」と呼ばれる度に、どうして自分が決めたことじゃないのに馬鹿にされなければいけないんだと憤った。酒を覚えたのは、小学生四年生の頃。煙草を覚えたのは、中学一年生の頃。どちらも、教えてくれた人は死んだ。もう、この世にはいない。
気づいたときには、周囲にはクズしかいなかった。小学生に酒を飲ませた奴も、中学生に煙草を吸わせた奴も、もれなく全員クズだ。でも、そういう奴等に媚びを売れば、欲しいものが手に入ることを知った。「はるかちゃん」と呼ばれることを、いちいち気にしなくなったのはいつからだろう。全てをぶち壊してやりたいという衝動を酒と煙草で塞いでいる。胃の奥で暴れ回る気色悪さは、ゲロを吐いてやり過ごせば良い。誰かに同情するには、自分に必死すぎた。
ある日、気まぐれに登校したら、クラスメイトの話し声がした。
「ゆかり君ってさ」
という、女子の声だ。俺は窓の外を見ながら、「ゆかりって女みたいな名前だな」と思った。
「格好良いよね」
「え、好きなの?」
「いやぁ、好きっていうかぁ」
そんな、他愛のない話。でも、その会話を聞いていて思った。どうやら、ゆかり君は女みたいな名前にしては、格好良いと女子には思われているらしい。別に、今更自分の名前がどうだこうだと言う気はない。だけど、ちょっとだけカチンときたのは確かだった。
どんなだよ、ゆかりちゃん。これで童顔だったら笑えるな。とか、どうでも良いことを考えた。本当に、どうでも良い話。でも、ちょっとイラついてきたから、もう帰ろうかな、と。うとうとしはじめたところで、「ゆかり」という声がした。声がしたほうを見ると、丁度、男が三人教室に入ってきたところだった。
瞬間、目の前がチカチカした。夏の空を見過ぎて、目がバグったのかもしれない。「ゆかり」と呼ばれた男は、笑いながら隣の男をはたいている。綺麗にまとまった黒い髪に、何の汚れもない白いシャツ。笑った唇の隙間から、白い歯がのぞいている。その笑顔に、ゾッとした。背中に、何かがはりつくような感覚。ぺたり、ぺたり、と這い上がってくる。背中から肩に触れて、喉から唇に。
駄目だ。咄嗟に椅子から立ち上がり、そのまま教室の出口に向かう。その隙間、「ゆかり君」とすれ違った。彼は、俺を見もしない。でも、一瞬だけ触れそうになった腕がかわされたのを感じた。自然な動きで、彼は俺をここにはいないことにした。いることを知っていて、いないフリをした。
校舎を出ると、真夏の太陽が俺の肌を焼いていく。ああ、暑い。暑くて死にそうだ。スマートフォンを見ると、知り合いからの連絡が溜まっていた。はるかちゃん、はるかちゃん、はるかちゃん、はーとまーく、はーとまーく、おんぷ、ほし、み。
「……あっつ、」
耳にうるさい、蝉の鳴き声がする。その日、俺ははじめて長田縁のことを知った。
◎◎
二度目に僕が細沢遥と会ったのは、寒い冬の夜だった。
夜食に肉まんを買いに行った帰り道、公園のベンチに倒れこんでいる彼を見つけた。その姿を見て、僕の脳内にハテマナークが三つぐらいは浮かんだ。何かあったのか、こんな夜中に。でも、彼は不良だから、そういうこともあるかもしれない。不良の世界はわからないけど。このまま放っておくか、それとも声をかけるか。物凄く悩んだ。
悩みに悩んで、僕は彼に声をかけることにした。ただ、あくまで声をかけるだけだ。邪見にされたら、そのまま立ち去ろう。そう思って、僕はベンチに向かう。彼は冬の夜なのに、長袖の薄着一枚だった。そして、近づいて気づいた。ベンチの近くに、アルコールの缶が転がっている。う、と声をかけるのを躊躇った。でも、それこそ酔っぱらったまま眠っているのだとしたら、凍死一直線だ。流石に、それは寝ざめが悪い。
「あ、あの」
と、勇気をだして声をかける。
「細沢、君?」
「……」
僕の声に、彼はむっと眉をしかめた。ベンチに預けている上半身が震えて、ゆっくりと瞼が開く。
「……あ?」
彼の声は、ガラガラに嗄れていた。僕を見て、ぱちぱち何度か瞬きして、ゆっくりと起き上がる。といっても、地べたに座る形だ。
「……あれ、お前って?」
訝しげに見つめられて、慌てて口を開く。
「あ、僕のこと知ってる? あの、一応同じクラスの」
「ゆかりちゃん?」
「え?」
「知ってる。ゆかりちゃんだろ」
平然と繰り返されて、うえ、と変な声がでる。ゆかりちゃん、なんてはじめて呼ばれた。いや、それよりも、彼が僕の名前を知っていることに驚いた。くしゅん、と彼がくしゃみをする。
「あの、細沢君。寒くない?」
「あ? いや、別に。つーか何で、お前いんの?」
「あ、僕は、夜食を買いにコンビニに行ってて。えっと、この公園、コンビニへの通り道というか」
「それで?」
「いや、そんな薄着で凄いポーズで寝てるから、心配になって」
「それだけ?」
「それだけ?」
当たり前のことだと思ったのに、彼の答えに驚いて、オウム返しになってしまった。それに、彼は噴き出して笑った。
「ゆかりちゃん、やべぇ良い子じゃん」
「いや、普通は心配するよ」
「……普通? まぁ良いや、煙草持ってねぇ?」
「持ってるわけないよ。僕たち未成年なんだから」
「ふーん。それも、普通?」
「普通、だと思うけど……」
ふーん、と繰り返して、彼は立ち上がってベンチに座った。僕は立ったまま、彼を見下ろしている。それにしても、と僕は思う。こうして、まじまじと見ると、彼は思ったよりも幼い顔立ちをしている。いや、前に消しゴムを拾ってもらったときも思った。童顔、というのか、中世的、というのか。それに、声も意外と高い。不良というのは、もっとドスの効いた感じの声だと思っていたから、意外に感じたのを覚えている。
ぱ、と彼が目が合った瞬間、あ、と気づいた。彼の口が開くと、尖った歯が見える。八重歯だ。それが、幼く見える理由なのかもしれない。
「家、帰んの面倒で」
そう言って、彼はポケットを探る。ポケットから出した彼の手には、くしゃくしゃになった煙草が握られていた。ぎょっとする。僕の家族は、誰も煙草を吸わない。友人だってそうだ。彼は、驚愕する僕を置いて、自然な手つきで煙草を咥えて、そのままもう一度ポケットを探った手で探り当てたライターで火を点ける。僕はそれを呆然として見ていた。ふと、僕の視線に気づいた彼が笑いながら言う。
「何、煙草吸いたいの?」
「あ、いや。僕は、まだ、未成年だから」
「だよなぁ。ゆかりちゃんは絶対に吸わなさそう。死ぬまで、一生」
「……一生?」
いや、僕だって成人したら、もしかしたら煙草を吸ったりするかも。お酒だって飲むかも。でも、成人しているからこれは不良じゃなくて、なんてことを考えていたら、カスカスに嗄れた彼の声が公園に響いた。
「そう、一生。誰にも煙草の味を教えて貰えないで、死ぬ」
そう言った彼は、暗い公園の中、微かな煙草の明かりに照らされて、微笑んでいた。瞬間、眩暈がした。まるで、あの日と同じような感覚。彼が僕の消しゴムを差し出したときに感じた、あの変な感覚だ。薄暗さと、軽くて高い声と、煙草の臭いと、この異質な空間に。早く帰らなきゃ。お母さんが待っている。お父さんも心配している。スマートフォンが、ポケットで震えている。
でも、何故か僕は彼から目を離せずにいた。ぽつ、と真冬の筈なのに、額から汗が落ちる。彼は僕を見上げたまま、薄く笑っていた。彼の薄い唇が開く。
「なぁ、立ったままで、足疲れない?」もう少し、話そうぜ。
その言葉に、吸い込まれるように足が動く。カラカラに乾いた喉が痛い。でも、それよりも、もう少し彼と一緒にいたい。彼の隣に座ると、チリ、と空気が弾けた。今の僕は、どんな顔をしているのだろう。直ぐ横の彼が僕を見る。彼が吐き出した煙草の煙が、僕の頬に触れる。あ、また。八重歯が、見えた。
「ゆかりちゃん、普通を教えてよ」
その代わりに、と彼は続ける。
「社会勉強させてやるから」
彼の瞳は、濃い灰色をしている。そのことを、僕はそのときはじめて知った。
◎◎
「別に、俺は不良じゃないけど」
「え?!」
チラ、と見たスマートフォンの時計は午後十一時を指している。二本目の煙草に火を点けると、長田縁は大げさに驚いてみせた。
「え、って何だよ」
そう言うと、俺の不快感が顔に出ていたのか、慌てて彼は首を横に振った。
「いや、だって、あんまり学校に来ないし。金髪だし、ピアスだし」
「普通じゃないって?」
「あ、その、まぁ」
「ふーん。理由があったら納得する?」
「へ?」
ふ、と自然と笑いが零れる。
「家が貧乏でお金がなくて、毎日働いてます。だから、学校に行く余裕がありません。金髪とピアスは、俺がしたくてしてるんじゃなくて、親に無理矢理させられてます、って」
煙草を吸いながら、俺は続ける。
「そう言ったら、お前は納得すんの?」
「……」
「納得できる?」
「わか、んない。でも、先生とかは納得してくれるかもしれないし」
「だから?」
チリ、と目の前で煙草の灰が弾ける。横目で見た彼の表情は、何とも言えない。
「納得して欲しい人に納得して貰えなかったら、何の意味もねぇじゃん」
冷たい風が、酒の熱を醒ましていく。変に冷静になって、気分が悪い。ああ、酒が飲みたい。あと、もう一本、二本、三本。そこまで考えて、つい数時間前のことを思いだした。はるかちゃん、はるかちゃん、はーとまーく、おんぷ、ほし、み。ぐらぐらと巡る視界が、薄暗くなっていく。
「あの、細沢君は」
「良いよ」
「え?」
俺に遮られて面食らった彼を見て、俺は笑いながら言う。
「はるかちゃん、って呼んで良いよ」
「は? うえ?」
「ゆかりちゃんとはるかちゃんで、丁度良いじゃんか。それで、俺たち」
そこまで言って、息が止まった。俺は何をしているんだろう。今、何て言おうとした? 自分でも自分が何をしたいのかわからない。午後十一時、刻一刻と時間が過ぎていく。あ、寒い。今更、冬だということを思いだした。いや、思いだすな。このまま、何もなかったことにしよう。
「悪い、帰るわ」
帰る場所もないのに、そう口にした。どこにも行く場所なんてない。いや、場所はある。でも、行きたくない。行きたくないけれど、生きていかなければいけない。視界の端、彼が身じろぐ。
「あの、細沢君?」
「酔ってんなぁ、俺」
口にすると、胃がじくりと痛んだ。まともじゃない。そうだろうか。今更、今時、良くある話だ。まともじゃない人間のほうが世の中、多いだろ。まさか、こんなことで? そう思った瞬間、どっと胃から熱が溢れだした。煙草で塞ごうとして、唇から落ちたのは何だったのか。
「不幸自慢大会するには、参加者が少ねぇのよ」
ベンチから立ち上がる。煙草を放り投げて、靴の踵で火を消した。彼は、何も言わなかった。そのまま歩き出した俺を追いかけることもなかった。
そうだ、これで良い。このまま、何もなく生きていく。それで良い。スマートフォンがポケットで震える。名前も見ずに、通話ボタンを押す。身体は冷えているのに、胃の奥が熱くて仕方がないのは、少しだけ信じてしまった自分の所為だ。
その筈だった。
「細沢君」と、背後で声がした。
振り返ると、何故か上着を脱いだ彼と目が合った。彼の手には、ダウンジャケットが握られている。そして何故か、そのダウンジャケットを俺に差し出した。
「は?」
「僕の家、もう直ぐ近くだから」
は? と、もう一度心の中で繰り返す。
「ほら、細沢君、お酒飲んでるし」
彼の声と同時に、聞き慣れた声が鼓膜にねじこまれる。そうだ、俺は電話をかけたんだ。誰に? 誰だったか。見知らぬ誰かと、兎に角、話がしたくて。
そのとき、はじめて俺は、暗闇の中でも光る、黒い瞳を見た。
「風邪ひくと、辛いから」
と、彼は言った。瞬間、鼓膜の奥でノイズが走る。急に、大雨が降りだしたときみたいな。ザア、ザア、ザアと、雨が降っている中で、アー、アー、アー、と獣の唸り声。
風邪ひくと、辛いから。
その言葉。その言葉が、きっと普通なんだろうと思った。それでいて、だから彼は「ゆかりちゃん」じゃなくて「ゆかり君」なんだろうなぁと思った。そう思った。思い知った。思い知らされてしまった。
「ふーん」
と、知らず内に声が落ちる。自分の唇から落ちたそれは、いやにどろどろと粘着質な響きを持っていた。
「それなら、ありがたく」
ダウンジャケットに伸ばした俺の指先が、一瞬だけ、彼の指と触れる。その瞬間に走った痛みを、俺は生涯、忘れはしないだろうと思う。
◎◎
それではここで、不幸自慢大会の開催です。
人生という名のビデオテープを回してみましょう。あんまり長いと興が冷めるので、持ち時間はお一人様十分で。ビデオカメラを回して、回して、ノンストップ回転。一番良いところを切り抜いて。審判は、何も知らない一般市民を無作為に十人集めました。おっと、参加者は百人以上。この世は不幸で溢れています。百人の中で、トップ十を決めますか。それとも、最後の一位を決めるまで、一生続けますか。でも、残念。この大会は、この一回だけで打ち切り決定です。差別がどうだの、不謹慎だのどうだのこうだの、うるさい大人がいるもんで。
でも、そんな大人が一番、同情が欲しくて騒いでいる。可哀想だと慰められたくて、自分は悪くないってことを知らしめたくて、無責任に他責に無礼を重ねている。自分は悪くない? そんなら、誰が悪いんだ。何も知らない自分は可哀想で、いつだって自分は被害者で、自分より弱い誰かに責任を押しつけて、不幸ぶって慰められて満足している。
その隣で、責任を押しつけられた誰かが死んでいる。それでも、皆さん仰います。仕方がなかったことだと、他人事のように。泣きじゃくる癖に綺麗なネイルで、もう噛む爪すらなくなった弱者を殺そうと躍起になっている。
失礼。ナレーションが長すぎましたか。いいえ、批判しているわけではないですよ。そうですよね、わかります。自分を憎む誰かを生かしておいては、怖くて仕方がないですもんね。それこそ、怖くて怖くて、被害者面をしてしまうぐらいには。
さて、準備が整ったようです。それでは、早速はじめましょうか。無自覚に人を殺す連中の、自白大会のはじまりです。
◎◎
僕が細沢遥と出会って、もう半年が経った。はじまりは、何だっただろう。あの、消しゴムを拾ってもらった日か。それとも、ダウンジャケットを貸した日か。何はともあれば、僕は時折、学校以外の場所で、彼と話す仲になっていた。
何故、学校以外なのか。これは、所謂不良じみた彼を、僕が学校で避けたからではない。むしろ、僕を避けているのは彼のほうだ。学校という場所で、彼は絶対に僕を見ない。何度か、僕から話しかけようとしたことはあった。でも、そういうとき、決まって彼は僕が声をかける前に教室から出て行ってしまう。
それなのに、彼は僕の家近くの公園のベンチに座って、僕が来るのを待っている。冬の寒い晩に、僕が彼に声をかけた公園だ。一回目は、偶々。二回目も、偶々。三回目も、と続いて、流石に偶然じゃないだろうと僕も勘づいた。でも、仕方がないのだ。彼があの公園のベンチに座っている日には、何の規則性もない。何回かそれが続いて、とうとう僕は彼とチャットツールのアカウントを交換することにした。それからは、彼からの連絡を待って、僕は公園のベンチに向かうようになった。
「細沢君って、学校嫌いなの?」
そう問うと、彼は面食らった顔をした。
「何で?」
「いや、あんまり来ないし。それに、僕が話しかけるのも嫌なのかなって」
「んー、嫌いじゃないけど。学校で誰かと話すのは好きくない」
「何で?」
「めんどくさいから」
面倒臭いから。その言葉で一蹴されると、何も言えなくなってしまう。でも、僕からすると、こうしてわざわざ公園に来るほうが面倒臭いんじゃないかな、とは思う。
「誰かの前で、誰かと話すってのがめんどくさい」
「誰かの前で、誰かと? どういうこと?」
「ビデオカメラが回ってるときに話すのって緊張するじゃん。それと同じ感じ」
そう言って、彼は笑った。彼の言いたいことはわかるようで、僕にはよくわからない。学校にはビデオカメラもないし、別に聞かれて困る話をしているとも思えないからだ。
「今は良いの?」
鼻をすすりながら問う。時刻は十時を越えている。珍しく、彼は煙草を吸っていなかった。
「今は良いよ。ゆかりちゃんしかいないから」
そりゃあそうだ。こじんまりした公園には、そもそも昼間も人が少ない。夜なら、もっと少ない。それでいて、通りがかる人も少ない。
「そういえば」
と、僕はふと気づいて口を開く。
「あの日、何で細沢君はここにいたの?」
それは、真冬の寒い晩のことだ。ベンチにもたれかかって眠っていた彼に、僕が声をかけた日。こんな公園に、どうして彼はいたのか。彼は眠そうに欠伸をして言う。
「ブランコに乗りたくて」
「え?」
「ブランコ、急に乗りたくなって。公園検索して、ここが一番近かったから」
「ブランコ?」
「そう。ブランコって、大抵公園にあるだろ。そんで飽きたから近くのコンビニで酒買って」
「え、いや、ブランコ?」
「だから、ブランコだって言ってんだろ」
呆れたように言われて、閉口する。いや、そういうことではなく。と、続けそうになるのを我慢した。ブランコ? ブランコとは、直ぐ目の前にあるブランコのことだろうか。紐に吊るされた木の板に腰かけて、こぐ、という。子供がやる遊びだ。そりゃまぁ、中学生なんてまだまだ子供だけれど、僕よりも大人びた彼がブランコにそこまで執着するだなんて、誰が想像するだろう。
「ブランコとかシーソーとか、好きなんだよな」
と、彼が言う。どんな顔をしているのだろう、と横目で見た彼は、少しだけ笑っていた。
「流石に一人じゃシーソーはできねぇけど。ブランコなら一人でも楽しめる。昔は、ブランコでぐるって一回転できるって思ってた」
「あ、」それは僕も。
そう続けると、彼は「やっぱ?」と笑った。笑うと、僕と同い年だと思える。確かに嗄れは、話す内容は大人びているし、僕には理解できないこともいっぱいある。だけど、彼は僕と同い年だ。そう思えば思う程、僕はどうして彼が学校にあまり来ないのかが気になってしまった。そして、どうして僕と学校で話をしてくれないのかも。
つい、数日前。僕は職員室で担任と話しをしていた。日直だったからだ。でも、その横で、教師同士が彼の話をしているのを聞いてしまった。
彼は不良で、どうしようもない奴だ、と。こういう奴は稀にいる。今は、ただ時間を経つのを待つしかない。どうせ、あと一年でいなくなる。そんな話をしていた。
彼は、本当に不良のどうしようもない奴なのだろうか。きっと、彼は勘違いされている。話せば、皆がわかってくれる。確かに、僕も最初は見た目で勘違いしていたけれど、話さえすれば、彼が悪い奴じゃないってことは皆、わかってくれる筈なんだ。
「あの、細沢君」
「ん?」
だから、意を決して僕は言った。
「学校、嫌いじゃないなら、来ても良いんじゃないかな」
彼が僕を見る。僕も、彼を見る。彼の瞳には、何の色もなかった。何を考えているかもわからない。慌てて僕は続ける。
「いや、僕にはわからないけど。ていうか、来ても良いって言い方もアレだけど。嫌じゃないんだったら、」
「ゆかりちゃんが、俺に学校に来て欲しいってこと?」
「うえ?」
「ゆかりちゃんは、俺に学校に来て欲しいの?」
「ぼ、僕?」
「うん」
僕の気持ち? 何故? 何故そうなる? あくまで僕は、彼が嫌じゃないのなら、そのほうが良いと思ったから言っただけで。彼の意図がわからず、僕は答える。
「そりゃ、僕は。やっぱり来て欲しいというか、その方が、細沢君も良いと思うし」
「何で?」
「な、ん?」
「学校に毎日行くことが、俺にとってそんなに良いこと?」
と、言った彼の目は真っ直ぐだった。だから、僕は息を飲んでしまった。毎日、学校に行くこと。友人と話すこと。授業を受けること。それは、それは?
細沢君にとって、それは、良いことなのか。それは、僕にはわからない。でも、一つだけわかることがある。
「……細沢君、不良じゃないんでしょ?」
彼は、ただ僕を見ていた。その瞳があまりに真っ直ぐすぎて、僕は一瞬だけ視線を逸らす。でも、直ぐに戻した。彼の目を見て、僕は口を開く。
「でも、細沢君は不良だって、皆に思われてるよ」
僕にでもわかる、ただ一つのこと。それは、悪いことだ。彼は不良じゃない。だけど、周囲はそんな彼を知らない。だから、彼は不良だと思われている。教師に「どうしようもない奴だ」と言われ、過去の僕のように、見ないフリをされる存在になったらいけない。だって、彼も僕と同い年の、ただの中学生なんだから。
「……」
沈黙が落ちる。人通りの少ない、静かな公園だ。何だか気恥ずかしくなって、僕は彼から視線を外す。そう、外してしまった。だから、彼の表情はわからなかった。この、次の瞬間、彼がどんな顔で、この台詞を言ったのかが。
「それが、何?」
ひや、と僕の腕に何かが触れる。咄嗟に見た腕には、何も触れていない。何だ、今のは。確かに、何かが僕の腕に触れた。それなのに、何もない。どっと冷や汗がこめかみに滲む。
「ゆかりちゃん。俺、前にも言ったよね」
くしゃ、と紙を潰す音が聞こえた。知らない内に、顔を伏せていた。顔を上げると、煙草を咥えた彼と目が合った。丁度、煙草の先に火を点けるところだった。
「納得して欲しい人に納得して貰えないなら、何の意味もないって。それと一緒」
そう言って、彼は煙草の先に火を点けた。
「名前も知らない『みんな』って奴等が俺のことをどう思ってるのかなんて、俺にはどうでも良い。そいつ等は俺を救ってくれやなんかしない」
だけど、と彼は続ける。
「ゆかりちゃんが、俺に学校に来て欲しいって言うなら、俺は従うよ」
「従う、って」僕は、そんなつもりじゃ。
「同じだよ。同じ。お願いと命令は、いつだって一緒」
煙草の煙を吐き出して、彼は微笑んだ。開いた口内、八重歯が見える。くゆんだ視界の中、その笑顔はまるで悪魔のようだった。
「無自覚に、俺に命令すんなよ。やるなら、ちゃんと命令しないと」
なんて、と彼は目を細めて続ける。
「ちょっと、言い過ぎたかな」
カラッと、人が変わったかのように彼は笑った。そして、可笑しそうに言う。
「まぁ、ゆかりちゃんの気持ちはわかったよ。俺も、ぼちぼち学校には行くからさ」ね、と。
その言葉に、僕も笑う。歪な笑顔だったと思う。それでも、彼は笑ってくれた。そして、それからは、本当にどうでも良い話をした。最近ハマってる番組だとか、好きな食べ物だとか。僕たちは、終始笑っていた。それなのに。
お願いと命令は、いつも一緒。
その言葉が、僕を捕らえて離さない。彼は、悪い人じゃない。だけど、彼は自分を悪い人のように見せている。そう思えば思う程、何だか僕と彼の距離が離れていくような気がした。
そして、その三日後。学校で、担任が言った。彼が、転校したことを。
「残念ですが」と言った担任は、明らかに嬉しそうな顔をしていた。教室の空気がやわらぐのを感じて、喉が詰まる。ああ、やっぱり。皆、彼のことを嫌っていたんだ。でも、そうだろう。僕だって、昔はそうだった。だけど、知ってしまった。
彼は、悪い奴なんかじゃない。
それを何と言うのかわからないけれど、僕がどうしてここまで彼のことを思うのかも、自分でも良くわかっていないけど。ただ、彼は悪い奴じゃない。それだけを、叫びだしたくて仕方がなかった。
◎◎
「どうして、あのとき――」
そんな質問をしたのは、間違いだったのかもしれない。
今年、二十四歳。僕は、約十年振りに細沢遥と話していた。
……。
…………。
細沢遥が転校してからも、僕の日常は変わらなかった。毎日学校に行き、友人と話し、授業を受ける。ただ、あの公園のベンチに待っている誰かがいなくなった。それだけだった。
細い身体に、中世的な顔立ち。金色の髪と、耳たぶに並ぶ金属の飾り。公園で会うときの彼は、いつだって大人びた顔をしていた。自身を不良じゃないと言いながらも酒を飲み、煙草を吸い。ブランコとシーソーが好きで、僕には理解できない言い回しをする。
だけど、そんな細沢遥は消えた。僕の目の前から、突然に。転校するのだと、担任から知らされて、チャットツールの彼のアカウントにメッセージを送っても、何の反応もなく。ああ、本当に彼は僕の前から消えたんだと理解した。
それからも、僕は日常を続けた。高校受験をした。大学受験をした。その合間に、彼女もできた。彼女と喧嘩をして別れたり、アルバイトを始めたりもした。周囲からは「リア充だ」と言われた。
でも、いつもどこかで何かが軋む。もし、過去に戻れるのなら。いや、過去じゃなくても。あの公園で、もう一度だけ彼と会いたい。そして、彼の言っていることを、少しでも理解したい。あの、灰色の瞳が。僕を真っ直ぐ見つめる、あの薄暗い灰色の瞳が、今も僕を捕らえ続けている。
大学生になって、門限が緩くなった。だから、少し飲み過ぎた。ふらふらと歩いて、でもタクシー代が惜しくて。駅から家までの最短距離を歩く。スマートフォンを見ると、彼女から連絡が入っていた。ああ、このまま歩いていると寝てしまいそうだ。そう思って、通話ボタンに指をかけた。
その瞬間、だった。
ギィ、と。音がした。何かを漕ぐ音。スマートフォンを見ていた顔を上げる。すると、家近くの公園の道まで来ていたことに気づいた。そして、その公園。
公園のブランコを、漕いでいる人がいた。
一瞬、何も理解できなかった。ギィ、ギィ、と。音がする。何故か、僕は泣きそうになっていた。酔っぱらっていたからもしれない。公園のブランコに、黒髪の男が座っていた。髪の色は変わっている。でも、僕にはわかる。彼は、細沢遥だった。
「細沢君!」
思わず、僕は叫んでいた。宙を彷徨っていた男の目が揺れて、僕を見る。その、瞳の色。灰色。そして、あの頃と変わらない中世的な顔立ち。目が合って、男は可笑しそうに笑った。
「ゆかりちゃん、久しぶり」と。
急いで僕は、彼に駆け寄った。彼はそんな僕をケタケタと笑う。約十年振りに見た彼は、相変わらず彼のままだった。僕は荒くなった呼吸のまま口を開く。
「ひ、ど。なん、で」
「んー?」
「何で、僕に何も言わないで、転校なんて!」
「そこから? 相変わらず真面目だねぇ」
と、彼は八重歯を見せて笑う。それに腹が立って、僕は続けた。彼にじゃない。全てのことに対してだ。
「だって! だって! あんな、まま、会えなくなって。皆、細沢君のこと、悪者にしたままで……!」
言いながら、流れる涙を袖で拭う。何でか、涙が止まらない。涙腺が緩くなり過ぎている。そんな僕を見る彼の表情は穏やかだった。彼が口を開く。
「どうでも良いよ、そんなの」
ああ、と。僕は思う。彼は、昔から変わっていない。ずっと、彼は彼のままだ。だから、次に彼が言う台詞もわかっていた。
「納得して欲しい人に納得して貰えないなら、意味なんてないから」
「じゃあ、どうして」
咄嗟に、僕は口を開いていた。でも、ずっと、知りたかった。どうして、彼は僕にだけ、そんな話をしたのか。あの、夏の日。僕に消しゴムを渡して。あの、冬の日。僕と話してくれたのか。
「どうして、あのとき――」
心臓が、キュッと掴まれる。彼は、煙草を吸っていた。いや、彼の足元にはもう数えきれない程の吸い殻が散らばっている。もう、僕たちは二十歳を越えている。そして、彼の言う通り、僕は煙草を教えてくれる人もいないまま、こうして生きている。
「何で、僕に話してくれたの」
そう言うと、彼は唇の端で笑った。ブランコから立ち上がり、煙草の灰を地面に落とす。
「好きだからだよ」
と、彼は言った。その言葉に、ぐらぐらした。脳を直接ぶん殴られたような、酩酊感。
「ゆかりちゃんが命令してくれるなら、俺は何だってやったよ。本当に、何だってやった」
「す、好き、って」
「そう、好き。何で好きかなんて、理由が必要?」
そう言って、彼は笑う。すがすがしいまでの笑顔だった。煙草を地面に落として、彼の踵が火種を潰す。火種は、いつだってそうだ。どこかにある。でも、それを潰す人がいなければ、一生くすぶったままなのかもしれない。
「俺は、ゆかりちゃんのことが好きだよ」
その言葉を、聞かなかったら。
聞かずにいたら、僕は普通のままでいられたのだろうか?
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?