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【短編】じゃあな、ババア

 僕はずっと、夏の日の電車の中にいる。

 耳の奥が痒くなって、耳たぶを引っ張った。じわじわと染みるような感覚は、覚えがある。きっと、耳垂れが起きている。夜中、汗ばむ身体が気持ち悪くて起きてしまった。耳の奥が痒い。だけど、間が悪いことに、宅配便の箱を開けようとして、耳かきを折ってしまったばかりだった。人差し指では届かなくて、小指まで使った。だけど、それでも足りなくて、何の用途で使ったか覚えてもいない爪楊枝を耳に突っ込んだ。ガリガリと掻きむしっている間は、少しだけ心地が良くなった。暫くして、耳の奥どころかこめかみが痛くなって止めた。目の裏が痛む。ああ、またやりすぎた。そう思いながら、ベッドに飛び込んだ。勢いが良すぎて、ベッドの柵に頭をぶつける。じんじんと痛む頭を抱えて、天井を見上げた。このまま、意識を失ってしまえたら一番楽だろうな、と。
 身体が揺れて、ふと意識が現実に戻る。窓の向こうには、自然とスクラップ工場の看板があった。どこを走っているのか、実は良くわかっていない。大きなワゴン車に、運転手が一人と、乗客が五人。
「久しぶりに、全員で車に乗ったな」
 と、一番後ろの席で揺れながら、父が言った。固定された車イスは、他の誰よりも高い位置にある。隣で腰にシートベルトを巻きつけた母が笑いながら同調する。僕と弟は、運転手の後ろに並んだ二つの席に座って、何も言わずにスマートフォンを弄っていた。手持無沙汰の兄が、両親と何かを喋っている。耳の奥がむずむずして、こっそり小指を突っ込んだ。ぐちゃりと音がして、慌てて指を抜いた。

 葬式は家族葬で。そう決めたものの、家族葬とやらが何なのかを僕は知らなかった。身内が死んだとき、何をしたら良いのかも。考えてみればこれまで、僕たちは何もかもが他人事だった。僕の記憶の中で一番はじめに死んだ父方の祖父は、父方の祖母が看取った。二番目に死んだ母方の祖父は、母方の祖母が看取った。残された祖母たちの内、一人が死んではじめて、僕の家族は葬式の手筈を、他人事ではなく自分たちで行うことになったのだ。

 それにしても、と僕は数日前のことを思い返す。祖母が死んだという話を、僕は自室で聞いていた。両親に言われたわけではない。母がスマートフォン越しに喋っている内容が聞こえてしまったのだ。何かトラブルが起きているのだろうということはわかった。「警察」という単語が聞こえて、不穏に思った。随分前から、祖母は施設で暮らしている。僕が最後に祖母と会ったのはいつだっただろう。もう覚えていない。それに、あまり良い思い出がない。
 祖母が死んだという話は、日頃から距離の離れている家族とはいえ、あっと言う間に広がった。家族会議のために、充電しっぱなしのタブレットをリビングに置く。正直、どれだけ皆が祖母のことを思っていたかはわからない。ただ、タブレット越しの家族会議で、誰もが口にした言葉がある。
「最後まで、おばあちゃんらしかった」
 それは、そう。僕も、そう思う。昔から、祖母はそういう人だった。

 僕は、父方の祖母のことが好きじゃない。どちらかといえば嫌いだ。いや、ハッキリ言ってはやく死んで欲しいぐらいには憎いと思っていた。結局、物事の根本。僕がこうなった原因は何なのかと考えると、最終的には祖母の存在に行き着いてしまう気がした。これは、よくある話の羅列。幼少期や学生時代、僕の家族はボロボロだった。当時は、名前がつかなかったけれど、今であれば全員に病名がついていてもおかしくない。じゃあどうしてそうなったのか、って考えたら、結局は嫁姑戦争の成れの果てだ。僕の過去の記憶で、祖母が良かったことなんてほとんどない。いつだって、僕のことをけなしていた。僕の家族のことも馬鹿にしていた。何なら、周囲の人のこと全員を嘲笑っていた。気づけば、僕は祖母と二人きりで会うのを嫌だと思うようになった。顔を合わせると、人前で辱められるから嫌だった。
 母が祖母と会うと体調を崩すので、母の代わりに祖父の墓参りに付き添っていた頃がある。今思えば、何で付き添っていたのかはわからない。嫌な思いをするとわかっていながらも、僕は何故か断れなかった。墓参りに行く途中、いつも祖母は、電車の中で僕のことを叱った。スカートを履けば「だらしない。男を誘っているのか」と言われた。荒れた肌を見ると「可哀想に。貴方の母親は何をしているの」と言われた。如何に僕が劣っているかを話し、如何に他の人が優れているかをずっと喋っていた。周囲の人の視線が痛かったことを、未だに覚えている。可哀想と思っていたのか、祖母に賛同していたのかはわからない。ただ、僕は祖母と顔を合わせると、いつも夏の日の電車のことを思いだしてしまう。知らない人たちの前で、お前とお前の母親が悪いんだと言われ続けた日々のことを。大人になって、墓参りに行かなくなっても、いつだって思いだすのは、そのときの僕の姿なのだ。

 斉場の喫煙所は、場所がわかりにくい。途中で道に迷いながらも、ワゴン車は斎場に到着した。スマートフォンは、万が一斉場で音が鳴ったら嫌なので、コートと一緒にぐちゃぐちゃにして席に置いてきた。運転手に「スマホ、忘れてますよ」と言われて「鳴るのが怖いので、置かせてください」と答えて、ワゴン車を後にした。
 ちゃっちゃと受付を済ませ、呼ばれるのを待つ。筈だったのだが、少し早めに着いてしまったので、びっくりするぐらい暇を持てあますことになった。
 仕方なく、喫煙所で煙草を吸うことにする。考えてみれば、僕の家族は父以外全員が煙草を吸っている。同じ喫煙者である兄と一緒に喫煙所に向かい、並んで煙草に火を点ける。空は曇っていて、小ぶりの雨が降っていた。そういえば、祖母は僕が煙草を吸うことを知っていただろうか。目の前で吸ったことはなかったかもしれない。それぐらい、大人になってから会った時間は少ない。
「寒いなぁ」と、兄は言った。僕はぽつぽつと降る雨を眺めながら口を開く。
「涙雨って言うんだっけ。おばあちゃんの涙」
「はぁ? 何言ってんの、お前」
「いや、何か言うじゃん。涙雨って。あれ、でも死んだのって数日前だから、今更泣かないか。いや、みんな来てくれてありがとうって泣いてるのかも」
 吐く息が白いのは、煙草の煙だけじゃない。兎に角、寒い。コートをワゴン車に置いてきたのは失敗だった。兄と震えながら煙草を吸う。ふと思いだして、僕は口を開いた。
「そういや、遺品ってどうなんの?」
「あ?」
「何かそういうのあるじゃん。身に着けてたものとか」
「ああ、全部向こうで処分して貰うって母さんは言ってたよ」
「え、マジ?」
 僕が思いだしたのは、未だ僕が幼い頃の話。僕は母と二人で、デパートに祖母の誕生日プレゼントを買いに行った。そこで、僕は紫のブローチを選んだ。確か、そうだったと思う。正直、形状すら覚えていない。何しろ、それは本当に幼い頃で、そのときの僕が何歳だったかすら覚えてないのだ。だけど、祖母は僕と会うとき、いつもそのブローチを着けてきては、忘れないように「これはね、貴方がくれた物なんだよ」と言っていた。そのブローチは、僕が祖母のことを好きだった頃の、最後の遺産のような気がする。未だ残っているだろうか。それとも、もうとうの昔に失くしてしまっているだろうか。ぼんやりとブローチに思いを馳せる僕に、兄の声が響く。
「母さんも、もう思いだしたくないんだろ。色々あった相手だし」
 その通りだ。その言葉に、僕は煙草の煙と一緒に色々な思いを飲み込んだ。確かに、その通りだった。なんだかんだ、僕はもう二度と手に入らないものを、いつまでも欲しがっている。どうして、僕は少しでもブローチを欲しいと思ってしまったのだろうか。もし、あのブローチが残っていたとしたら、僕はどうするつもりだったのだろう。手元に残して、僕はどんな顔でブローチを眺める気だったのか。
 そう考えると、少しだけ感傷的になっている自分に気がついた。もう、数年前から祖母を憎んでいる。さっさと死んでくれと思ったし、死ぬなら苦しんで死ねば良いと思っていた。僕という人間の根源を考えれば考えるほど、そう思った。家族を憎みきれない僕は、祖母を憎むことで心の平穏を保ってきた。僕という人間は、そうだった筈だ。
 兄と他愛のない話をしながら二本目の煙草を吸って、僕は兄よりも先に喫煙所を後にした。さっきよりも雨は強くなっている。喪服越しに感じる風が冷たい。吐く息が白い。なんだかんだ、祖母も長く生きたなぁと思う。
 自動ドアを潜り抜けて、生暖かい風が頬に触れたとき。僕は、すっかり元の僕に戻っていた。もし、祖母が紫のブローチを後生大事に持っていたとしても。そんなものよりも、僕を大事にして欲しかったと思えた。

 実は、僕は死体が苦手だ。数年前に死んだ母方の祖父の死体を見ることができなかった。勿論、触れてもいない。目を逸らしながら花を入れたことを覚えている。これについては、自分でも良くわからない。死んだ人というのが苦手で、顔を見るのも嫌だった。祖母の遺体を前にしてもそうだった。父が最後に写真を撮れというので、顔を背けながら何とか撮った。そしたら、結構良い写真が撮れた。どうやら、写真なら大丈夫らしい。祖母と祖父が大恋愛の果てに結ばれたことを知っている僕は、写真を眺めながら無意識の内に言っていた。
「こうやって見ると、おじいちゃんがベタ惚れしたのも何となくわかるね」と。
 はじめて、手放しで祖母を褒めたような気がする。僕の言葉に、家族全員が笑った。父なんかは「昔から、黙っていれば綺麗な人だった」と茶化してみせる。確かに、写真の中の祖母は喋らない。穏やかなそれは、僕が見たことのない表情だった。もしかしたら、祖父と出会った頃の祖母は、こんな顔をしていたのかもしれない。そういう人だったのかもしれない。本当のことはわからないけれど。母や僕がゆっくりと変わっていったように、祖母もどこかで変わったのかもしれないと、何となくそんなことを思った。
 祖母の遺体に花を入れるとき、母は誰よりも祖母の死を悲しんでいた。きっと、生前は母が一番苦労していただろうに。もし僕が母の立場なら、祖母がどうなろうと許すことはできない。だけど、僕は母じゃない。だから、こうして母が祖母の死を悼んでいるのなら、今更二人の関係について、僕がどうこう言うことではないような気がした。だから、ここから先は僕の話だ。僕は未だ、祖母の死を受け入れられずにいる。僕は、花を一つだけ祖母の棺桶に入れた。あんなに大好きだった母方の祖父のときには、怖くて花すら入れられなかった。それなのに、憎くて堪らなかった祖母の棺桶に、花を入れている。薄目で見た祖母の顔は、確かに美人だった。

 祖母が骨になっても、僕は直視できなかった。この骨の部分はこうで、ここの骨はこうで、と。説明されているときも、盛大に眉を顰めていただろうと思う。年齢の割に、祖母の骨はしっかりとした形で残っていた。その生々しさに、僕は気持ちが悪くて仕方がなかった。下半身の骨と、後頭部と、耳の部分。そんな説明が、耳に入って通り過ぎていく。はやく終わって欲しいと思うぐらいだった。
 だけど、不思議なことに。家族の納骨作業が終わった後の、残りの骨を入れてもらう時間に、僕は家族の中で唯一立ち会った。多分、何となく、僕は思った。これを逃したら、僕は一生祖母の死を受け入れられない。僕以外の家族が椅子に座って待つ中、僕はじっと祖母の骨を見つめる。手慣れた手つきで拾われた祖母の骨が、壺に落ちていく。そういえば、この壺は何と呼ぶのだろう。常識のないまま、大人になってしまった。祖母の大きくて軽そうな骨が、一つ一つ、壺に入る。白い骨が、まるで煎餅のようだと思った。海苔が散らばった、薄い煎餅。あれは、何ていう名前の菓子だっただろうか。そう考えて、僕は祖母の骨を見ることに恐怖を感じなくなっていたことに気がついた。何故か、急激に実感が湧いた。祖母は死んだ。祖母は、海苔煎餅になったんだ。海苔煎餅になった祖母は、綺麗に壺に納まる。今なら、きっと骨も触れるし、顔を見れたと思った。だけど、もう祖母は海苔煎餅になってしまった。きっと、人は死んだら、何でもなくなる。祖母は、もう人間じゃなくなったんだってことを知った。

 それからは、あっと言う間だった。斎場の担当者に挨拶をして、ワゴン車に乗り込んで、今日の晩御飯はどうしようという話で盛り上がった。祖母が好きだったご飯の話もした。誰もが、おぼろげな記憶の中で話している。あれが好きだった、これが好きだった。そんな話の中で、僕は自然と「おばあちゃんが作る雑炊が一番美味しかった」と口にしていた。「何が食べたい?」と聞かれて、何となく食べたくて口にしたら、文句も言わずに作ってくれた雑炊の味。他の料理は問題だらけの祖母だったけれど、雑炊だけは誰よりも上手だった。そう話すと、父はふと思いだしたように言った。
「親父が、白粥が好きだったんだよ。中華粥とか。だから、美味かったんだろうな」
 父方の祖父は、祖母よりも二十年程前に亡くなっている。父の言葉に、斎場の喫煙所で兄との会話を思いだした。「じいちゃんのこと、随分待たせたなぁ」と。大恋愛の末に結ばれた二人も、祖父が亡くなる前は喧嘩ばかりだったと聞いた。本当のところは、僕にはわからない。もう、聞く相手もいない。だけど、もうどうでも良いか、と思う気持ちはあった。今更、祖母の過去ことなんて考えて、思いを馳せることにどれだけの意味があるだろう。結局、僕は祖母のことを憎んでいる。紫のブローチも、あげなければ良かったと思っている。あの夏の日の電車のことも、きっと僕は一生忘れないだろう。未だに、僕は祖母のことを許せてはいない。でも、何故だか以前よりもスッキリとした心地だった。耳の奥がじくりと痛んで、小指を入れる。耳垂れは瘡蓋になっていた。冷たい風と雨の所為で、普段よりも早く傷が塞がったらしい。

 自宅に戻ってきて、互いに塩をかけあって、暗い部屋の電気を点ける。どたばたと駆け回る家族を眺めながら、僕は煙草に火を点けた。やっぱり、斎場で吸う煙草より家で吸う煙草のほうが格段に上手い。
 煙草の煙を吐きだして、僕は天井を眺める。喪服を脱ぎながら、母が僕に言う。
「貴女、本当に外面は良いのね」と。
 斎場での立ち居振る舞いだろうか。僕はスマートフォンを手にとって答える。
「社会人やってるもん」
「そうだけど。びっくりしたわぁ」
「流石にね、ちゃんとお別れしないと」
 流石に、僕だって場は弁える。祖母のためじゃない。ただ、僕のためだ。それにしても、社会不適合者だらけの我が家とはいえ、それなりに努めは果たせたのではないか。そんなことを考えながら、僕はスマートフォンを机に放り投げて、口を開く。本当に、無意識の声だった。
「じゃあな、ババア」
 母は、僕の声に反応しなかった。僕も、自分で言って自分で驚いた。まさか、こんなことを口にするとは自分でも思ってもいなかった。良い子ちゃんのフリをする気なんて更々ないが、そういえば僕は、あまり汚い言葉を口にしてこなかった。どれだけ嫌いな人が相手でも、こんな言葉は使わなかった。筈だ。汚い言葉を使うのは恥だから。僕だけじゃなく、僕の家族まで馬鹿にされるから。だから、僕は祖母の前で、口を開かなくなった。いや、結局は良い子ちゃん。どうせ、咎める人はもういない。それなら、どうだって良いのだ。だから、口にしてみた。そしたら、もっともっと心がスッキリした。そうだ。さようなら、だとか、お別れだとか、そんな言葉よりも、もっと相応しい言葉があった。僕が、言ってやりたかった言葉だ。
 海苔煎餅になった祖母は、そんな僕のことをどう思っているだろう。思いもしないか。きっと、今頃は海苔煎餅同士で仲良くやっているに違いない。

 じゃあな、ババア。
 僕は生きているから、明日も生きていきます。夏が来たら、もしかしたら思いだしてやるかもしれない。

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