見出し画像

【なぞ】加湿器

ボーナスで買った加湿器

 冬のボーナスで加湿器を買った。黒色の、そこまで大きくないやつ。友人が加湿器を買ってからとても良いと言っていたから、何となく買った。給与明細に記載されたボーナスの金額が思ったよりも多かったのもあるかもしれない。とにもかくにも、私は加湿器を買った。毎日、水を入れるのが日課になった。実際効いているかなんかはわからないけれど、加湿器を持っている自分が少しだけ誇らしくて、気持ちは明るくなった気がした。
 はじめは、気まぐれだった。包丁で指を切ってしまって、その血がなかなか止まらなくてイライラしてきた頃。丁度水を補充しようとして置きっぱなしだった加湿器のタンクが目に入った。何でそうしようと思ったのかわからない。でも、誰だって「何となく」「無意識に」でやってしまうことはあるだろう。それが、私にとってはその行為だった。
 加湿器のタンクに、私の血を、一滴混ぜてみた。
 背徳感も、好奇心も、何もなかった。ただ、そこにあったから入れただけ。私は指から流れる血をそのままに、加湿器に水を入れ、タンクをとりつけた。ごぽ、ごぽ、と加湿器が水を飲む音がする。止まらない血を舐めると、しょっぱかった。
 私は、手持ち無沙汰なまま、部屋を見渡した。自分のお家。月八万。最寄り駅まで、バスで15分、自転車で18分。でも、都内なの。ユニットバスで1Kの、狭い狭い私の家。新卒で都内の会社への内定が決まって、地元を離れてから五年。不思議だな。地元にある実家より、ここが「私の暮らす場所」な気がしてしまう。血が滲む指先を口に含んで、狭い部屋を更に狭くしているソファに倒れこんだ。もう覚えてない、たしか有名なブランドのソファだった。はじめてのボーナスで買ったんだ。あのときの私は、はじめての彼氏ができたばかりで、自分の家を飾ることに何の疑問もなかった。今更、ただ家具の捨て方を調べるのが面倒で、ずっとここにある。
 ふと、加湿器が視界に入る。美味しいかい。私の血は、美味しいかい。なんて、心の中で話しかけると、ごぽ、と水を飲む音がした。まるで、私の問いに答えてるみたいで、薄い笑いがこぼれた。
「美味しいよ」
 と、声がした。私じゃない、別の誰かの声だ。
「美味しいよ」
 もう一度、声がした。私はソファから起き上がる。長い前髪が鬱陶しい。部屋を見渡しても、私以外の誰もいない。耳を澄ませても、ふゅーん、という換気扇の細やかな音が聞こえるだけだ。寝ぼけたのだろうか。そんなわけがあるだろうか。急に不安になって、私はソファから降りてスマホを探した。はじめての彼氏とは、とうの昔に別れている。今の私が連絡できる人は、同期の友人ぐらいだ。でも、お昼ご飯もいつも一緒に食べてるし、仕事帰りに飲んだりもするし、別に悪い関係じゃない。だから、この不安だって、共有しても
「おいぃい……でゅご、お、よ」
 声と、水音がした。正確には、聞こえる声の途中で水音がした。この音を、私は知っている。何度も聞いた。だから、私はスマホを探していた手を止め、それを見た。
 冬のボーナスで買った、黒い加湿器。大きくもないけど、この狭い部屋ではそれなりに場所をとる。タンクの残量を示す線が、ついさっき補充したばかりなのに、もう半分を示していた。頭が真っ白になると言うけど、本当に私の頭は真っ白になった。加湿器が、ごぽ、と音をたてて
「美味しいよ」
 と、言った。そう言った。間違いなく、私の目の前で、加湿器はそう言ったんだ。
「…………あ、」
 私の喉から、声が落ちる。もしかして、私は夢を見てるんだろうか。それなら、包丁で切った指先が今もじんわりと痛むのは。じゃあ、私の頭がおかしくなったんだ。そう、ここ最近、仕事が忙しかったから。友人と遊ぶ時間もなくて、彼氏を作ろうと思う気力もなくて、毎日残業続きで、それで。疲れているから、こんな変な夢を見るんだ。あれ、夢じゃないんだっけ。ぐるぐると巡る思考の中、私の喉は勝手に喋ろうとしていた。良くわからないけど、なにか、なにか答えなければいけないと思いこんでいた。
「あり、が、とう」
 そう言うと、加湿器は水を飲んだ。そういう音がした。冷や汗がこめかみに溜まって、頬を伝う。無意識の内に、痛む指先を強く握りしめていた。ごぽ、ごぽ。タンクの残量がみるみる減っていく。ああ、あと、数センチしかない。
 どうして、そうしたかはわからない。どうして、そうなったかはわからない。でも、私の喉は相変わらず勝手にこう言っていた。

「私の血、美味しいんだ?」

毎日いっしょの加湿器

「ただいまー」
 と、玄関を開けたら、まず言うこと。同居人への配慮です。
 ああ、すっかり、この生活にも慣れてしまいました。現在27歳の独身OL。それが、私。都内で、この最寄り駅で、セキュリティも完備のマンションが月8万円なんて破格です、と。そんな売り文句に騙された当時22歳のぴちぴちな新社会人。それが、私。月8万の家賃は重荷でしかなかったけれど、それを前提とした生活を続ければ、いつしか慣れていく。不満はあるけども、慣れる。「家具 捨て方」と検索するのすら面倒がる私が、引っ越しにパワーを割けるわけもない。だから、ずっとこの家に住んでいる。ちょっとの手間で、毎月8万円の出費が減るかもしれないのに。わかってるけど、わかってないフリをしている。そう、こうして人は自分なりの生き方を知っていくのです。
「今日のご飯は~お鍋~んで~華金だからビールも飲んじゃいます~」
 近所の激安スーパーは、18時を過ぎるとしなびた野菜ぐらいしか残っていない。でも、高級スーパーで売ってる野菜とも、もとは同じ野菜なんだし。全部一緒に似てしまえば、何も変わらない。そういうことで、毎週金曜日はお鍋の日にしている。冬限定。あとは既製品なら賞味期限はどうあれ、中身は変わらないだろう。ビールの賞味期限なんて、調べたことはないけど。
 エコバッグから今日買ってきた食材を冷蔵庫にぶちこんで、お鍋にするものはキッチンに放り投げておく。そして、エコバッグの一番奥にあったそれを手にとった。2リットルの、ミネラルウォーター。
「もちろん、君のためにも買ってあるよ」
 そう言って、リビングの加湿器に見せてやる。すると、加湿器は、ごぽ、と水を飲んで
「嬉しい! 早く食べようよ!」
 と、言った。それに、私はどんな顔をしていただろう。多分、満面の笑顔だったと思う。私には、加湿器の同居人がいる。こんな、なんでもない私の話を「面白い」と聞いてくれる、とても良い同居人だ。ただの気まぐれで、加湿器のタンクに私の血を一滴入れたその日から、加湿器は喋るようになった。それから、私は毎日加湿器に自分の血を入れている。どうして、加湿器が喋るようになったかはわからない。でも、そのときと同じようにしないと不安だった。
 毎朝、毎晩、私は加湿器に話しかけている。加湿器は、いつも私の声に答えてくれる。それなのに、明日にはただの加湿器になってしまうんじゃないかと「私が寝るまでずっと話していて」と我儘を言った日もあった。時には「私のこと好き?」と何度も繰り返し聞いた日もあった。
 その全てに、加湿器は答えてくれた。はじめは、友人のようだった。母親のようだった。そして、いつしか恋人のようだとも思った。でも、そのどれでもない。
「ねぇ、今日上司がさ~」
 と、私はお鍋を作りながら口を開く。加湿器は水音をたてながら答える。喋る、答える、喋る、答える、喋る、答える。お鍋ができたので、リビングの机に持っていく。加湿器のタンクにミネラルウォーターを入れる。加湿器の声が、少し滑りが良くなったような気がした。ビールとミネラルウォーターで乾杯して、喋る、答える、喋る、答える、喋る、答える。
「ねえ、」
 私の声は、自分でもわかるぐらいに酔っぱらっていた。
「どうしたの?」
 と、加湿器は言う。加湿器は酔っ払わない。そうだ、今度、ビールでも入れてやろう。そうしたら、加湿器も酔っ払ってくれるだろうか。そんな計画をぺらぺら喋ると、加湿器は「やってみなよ。壊れたって知らないから」と、珍しく拗ねたような声をだした。ハハ、ハハハ、と私は笑って。
「ハ……」
 何か言おうとして、私は口を開く。あ、と口を開いて、ん、と口を結ぶ。
「……、」
 と、口を開いて、ぱっくり開いたままの口にビールを流し込んだ。ああ、何かね。こういうときかな。
 いくら喋るようになったって、加湿器はいつまでたっても加湿器で、私は加湿器の名前すら知らないし、家族がいるのかも知らないし、どうやって生きているのか、そもそも生きてるのかも知らない。わかんないね。わかんないことだらけだね。でも、私がはじめて付き合った彼氏と、大して変わんないと思った。彼の名前は知ってたけど、実は名字は一回聞いて忘れたままだった。家族関係も知らなかったし、好きなものも知らなかったし、好きな女の子のタイプだって知らなかった。
「……」
 ビールを飲み込んだら、苦い汁が唇に残っていた。その残濁を手首で拭きとって、私は口を開く。加湿器は、今何を考えているの。そう思う私って、変だったりするんだろうか。
「やらない」
「何が?」
「やるわけないじゃん」
 加湿器の声を遮るように、私はもう一度言う。
「ビール、飲ませるわけないから」
 その次の言葉を、探した。探したけど、どこにもなかった。「安心して」とか「大丈夫だよ」とか、そう言えたら綺麗かな。でも、やっぱりどこにも見つからない。微妙な空気の中、加湿器は「優しいね」と言ってくれた。ハハ、ハハハ、と私は笑った。「当たり前じゃん」と言うと、加湿器は「それなら良かった」と、水音を立てながら言った。変な空気が緩和されて、生温い風が私の肌を撫でる。ああ、もう一ヵ月経ったのか。こんな生活が続いてから、もう一ヵ月。
 私は人間で、加湿器は加湿器で。夢みたいな現実に慣れていったと思ったのは、私だけだった。正確に言うと「私」だけだった。現実みたいな夢を見続けて、私は何が現実なのかもわからなくなっている。いや、そうじゃない。ただ、加湿器のタンクに自分の血を入れるときだけ、酷く現実を感じる。そんなちぐはぐさに、慣れていただけなのかもしれない。
 そんな日々を繰り返して、気づいたらもう1年経っていた。

中古曰くつきの人間

 性差 美佐。サガサミサと申します。それが私の名前です。中学一年生の夏、私に友人はいませんでした。最初は、割と普通にやれていたと思います。中学の入学式で、別の小学校の子と仲良くなって、四人ぐらいで一緒に行動していました。でも、あるときから誰も私の声に答えなくなりました。理由なんて、聞いても教えてくれないもんですね。私も、自分の何が悪いのかなんてさっぱりわかりませんでした。顔が悪いのかな。服装が悪いのかな。書く文字が悪いのかな。歩き方が悪いのかな。学校に行くまでの横断歩道で、黒いところを踏んだのが悪かったのかな。黒板に書かれた日直のところ、私の名字が「性佐」になってたのが悪かったのかな。国語の朗読の授業で、未だ習っていない漢字が読めてしまったのが悪いのかな。陰鬱で、じめじめしているらしいんです。私の顔が、この世の全てを悪くしているらしいんです。私が生きているだけで、誰かが不幸になるらしいんです。そんな呪いじみた話を、あの頃の私は本気で真実だと信じていました。
 それから数ヵ月経って、中学一年生の冬。放課後、誰かが私に話しかけてくれました。黒髪ポニーテールの学級委員長です。どうやら、私はすっかり眠ってしまっていたようでした。いつから寝ていたのか覚えていません。毎日の疲労が、ずっと抜けていなかったのでしょう。学級委員長は「ずっと心配していた」と言ってくれました。そして「貴方、苛められているでしょう」とも言いました。私は「そんなことはない」と答えました。さて、苛めとは何でしょう。私は苛められているのでしょうか。学級委員長は、中々私の言い分を信じてくれませんでした。私が如何に悪い人間なのかを話しても、学級委員長は「そうじゃない」と話にならないのです。同じことを、何度も何度も繰り返して、とうとう焦れたのでしょう。学級委員長は私の腕を掴みました。そして、私の長袖のシャツを強く引っ張った。ビ、と袖が破れて、私の腕が、白日の下に晒されたわけです。はっと見た学級委員長の表情は、見たことがないくらいに興奮していました。薄暗い教室に差し込む夕陽の所為でしょうか。それとも、本当にそうだったのでしょうか。学級委員長の丸々とした大きな瞳が真っ赤に染まっていて、私は、とても怖くなって。
 私の顔が、私の身体が、この世を全て悪くしているらしいんです。私が生きているだけで、誰かが不幸になるらしいんです。
 だから、誰も私のことを見てはいけないんです。
「ほら、こんなの!」
 学級委員長の上擦った声を聞きながら、私は机の中にあった剥きだしのカッターを手に取って、それで、それで。
 それで、学級委員長を刺したわけです。掌に感じる、妙な重みが気持ち悪かった。直後、学級委員長に張り倒されて、カッターは私の手の中にはなくて。最後に見上げた学級委員長の瞳は、もう赤くなんかなくて、すっかり黒くなっていたことだけを覚えています。
 その後のことは、あまり覚えていません。あれから、学級委員長とは一度も会っていません。ただ、大人とよくよく話しました。でも、誰も私の言っていることは理解できないようでした。
 私を見ないように。私を見たら、不幸になってしまうから。「見ないで」と言ったのに、無理矢理見ようとしてきたから。「本当に見ないで」と言ったのに、無理矢理私のことを暴こうとしたから。だから、見ないようにして欲しかった。ただ、それだけのことだった。
 そう言っても、誰も良くわからないといった顔をするのです。母親は泣きながら「私がよく言って聞かせます」と言い、先生も泣きながら「何か辛いことがあるなら言って欲しい」と言い、春に連絡先を交換した同級生からは「力になれなくてごめん」と連絡が来ました。気づけば、私は中学二年生になっていました。精神科に通うことになって、一ヵ月。飲めと言われた薬は、一粒も呑まずに排水溝に捨てています。
 だから、私は私のままだった。偶々、天気の良い日だった。私は自分の部屋で宿題をしていました。すると、不思議なメロディが聞こえたのです。良い曲でした。曲名は知らないけども、妙に気分が高揚して、私はノートに落としていた目を、空に向けたのです。私は、私の顔のまま、私の身体のまま、私の頭のまま、一軒家の二階にある自分の部屋の窓を開けて、空の高さに驚いて、地面の低さに満足して、制服のまま、裸足のまま、手には宿題をするためのボールペンを持ったまま
 私は、空を飛んだ。

 私の顔が、私の身体が、この世を全て悪くしているらしいんです。私が生きているだけで、誰かが不幸になるらしいんです。
 だから、誰も私のことを見てはいけないんです。本当の私を、誰も見ないで。見たらきっと、私は

新品無傷の人間

 最近、体調が悪い。身体が怠い。ここ数日、生理になったときのような怠さと微熱を感じる。気力だけで生きるにも、しんどい年齢になったと思う27歳独身OLの私です。もしかして、早い更年期になったんじゃないか、と言うと一緒にお昼ご飯を食べている同期は「早すぎ」と突っ込んでくれた。
「ミサちゃん、最近仕事頑張ってるもんね」
 と、同期のユミカはハンバーガーを頬張りながら言う。私とユミカは同じ新卒で同じ会社に入社した。ユミカは営業で、私は総務。ユミカとの出会いは新卒全員が招かれた懇親会で、とにかくバカバカ酒を飲む子だなと思った。ユミカはバカみたいに酒を飲んだ結果、早い段階で潰れてしまい、一人暮らしで女性の私が引き取ることになった。それから、何となく仲良くしている。
「ユミカも凄いじゃん。そういや、後輩君とはどうなの?」
「んーー、やっぱ年下って可愛いよ! でも、うーーん、一緒に暮らすってなるとなぁ」
 ユミカは腕を組んで、うんうんと唸っている。どうやら、ユミカの頭の中では付き合う=同棲らしい。良くも悪くも、ユミカは男らしいほうだと思う。一人で立っていられるというか、一人で生きていけそうというか。だからか、ユミカに近寄ってくる男のほとんどは年下だ。淑やかさはないが、ここぞというときに頼りになるに違いない。
「ねぇ、ミサちゃんは良い人いないの?」
「うーん、いないかな」
「え、マジ?! 私、ミサちゃん彼氏できたのかなーって思ってたんだけど!」
「何で?」
「え、だって、最近私の誘いに乗ってくれないじゃん! ミサちゃんとお酒飲みたいの!」
「……」
 ユミカと飲むと、大体深酒になる。それはそれで楽しいときもあるし、良いんだけれども、今の私はちょっと困る。何せ、私は加湿器に自分の血をあげなければいけないのだ。美味い血の保管方法がないかと調べてはいるけども、中々良い方法が見つからないまま、1年が経ってしまった。そういうわけで、私はいつもリアルタイムに加湿器に自分の血を飲ませている。会社の偶にある飲み会には参加して、お酒をちょっとだけ飲んで、早めに退散する。それで、この1年は乗り切ってきたのだ。
 でも、ユミカとの飲みになると別だ。どうせ、オールコースになるに決まっている。だって、私も楽しいんだもん。そう思うぐらいに、私はユミカのことを友人だと思っているのです。
「てかさー、キリュウ君も言ってるよ。最近、ミサちゃんの付き合いが悪いって」
「キリュウさん?」
「そう。もしかしたら狙われてたりして~」
 キリュウ、キリュウさん。霧生さんのことか。霧生さんは、私と同じ事務職グループの中でも、エリートコースを約束された人事に新卒で入った人だ。同期とは言え、その中でも階層分けは為されている。私は総務で、霧生さんは人事。ついでに、ユミカは営業。この、職種毎のキャリアステップよ。私の未来ってどうなってんのかな、と考えるよりも、ユミカや霧生さんの未来を考えたほうがよっぽどわかりやすい。十年後、って37歳。ユミカは営業部の部長なんかになってて、霧生さんは経営企画とかやったりしてるのかもな。そして、私は総務の「何でも知ってるおばちゃん」になっているんだろうな。想像以上にわかりきった未来過ぎて、私は深く溜め息を吐いていた。
「……んなわけないと思う」
「いや、あるよ。あるって、ミサちゃん、何で急に落ち込むの?」
「だって私はしがない総務だもん。未来もねぇ、金もねぇ……」
「ミサちゃんのお陰で私は仕事やりやすいけどなー。あ、でもさ、ほら、最悪異動とかもあるし!」
「それ、何の慰めにもなってなくない?」
 そう言うと、ユミカは「あー、そうかも」と笑って誤魔化した。そうだよ、その発言って「結局総務にいるうちは」ってことでしょう。と思いながら、私はそんなユミカの真っ直ぐな性格が好きなんだなと思った。ユミカは、時々「異動希望だしなよ」や「営業事務に来てよ」と言ってくる。はじめは「私のこと舐めてんのか?」と思ったけど、この年齢になると、何となくわかってくる。頑張って評価される場所って、実は太古の昔から決まっているのかもしれない。私は私なりに頑張ってきたけど、でも、私より頑張っていないけど、ただ部署が違うだけで私よりも出世した人なんていっぱいいるわけで。そんな現実を見せつけられながらも、それでもここから逃げたいと思えない私。その理由は、何故?
「ねぇ、ミサちゃん。やっぱ飲みに行こうよ!」
「え、何で」
「彼氏いないんでしょ? だったら良いじゃん!」
 何が良いんだ、と言う前にユミカがスマホを見て「やばい、休憩時間終わる!」と言った。ユミガがハンバーガーを頬張るのを見て、私も慌てて残ったハンバーガーを口に含んだ。急いでトレーを片付けて、会社までの道のりを早足で行く。横目で見たユミカは、姿勢を真っ直ぐに歩きながらリップを塗っていた。私は、化粧直しなんてする必要もない。誰も見ていないし。だけど、何となく、鞄に入れっぱなしだったリップクリームを塗ってみた。
「おっ、懐かしいね~そのリップ」
 と、ユミカはグロスに濡れた唇で言う。私は「そうでしょ」と笑った。ユミカに言われて思いだした。このリップクリームは、ユミカから貰ったものだった。一晩寝床を貸してもらったお礼に、と使いかけのリップクリームを渡してきた人間を、私はユミカしか知らない。でも、そういうところが好ましいと思ったのだった。
 だから、飲みの約束も断れなかった。加湿器のことを忘れたわけではない。私の中で、加湿器とユミカの天秤なんか存在しないけど、私の心の柔らかい隙間に入れられた手を拒めなかった結果、そのまま根こそぎ私自身を取られそうになって。
 ただ、それが怖かっただけなんだ。

宗教と加湿器

「飲みすぎだよ」
 と、僕は言った。だけど、彼女は「そんなことないよ」と笑った。彼女の名前を、僕は知らない。彼女の一人称はいつだって「私」だからだ。だから、僕は彼女の名前を知る機会を失っている。
 僕は、彼女の血を糧に生きている。あるとき、ぽつりと意識に一滴の水が落とされて、それで目が覚めた。何だかよくわからないけど、「美味しい」と思った。いつも飲んでいたものよりも、よっぽど美味しい。美味しい。そしたら、彼女がいた。彼女は驚いていたようだった。良くわからないけども、そのまま僕は意識を持つことを許された。
 彼女は、僕のことを「加湿器」と呼ぶ。加湿器が何なのか、僕にはわからない。でも、僕はそういうことらしい。僕は加湿器で、彼女は加湿器ではない。僕たちは違うのだと、それしかわからなかった。だけど、僕はただ彼女に話しかけた。起きていたいのか、眠っていたいのか、それはわからない。わからないけど、彼女が笑うと嬉しくて、その嬉しさが一生続けば良いと思っていた。このままでいたい。このまま、ふわふわとした気持ちが続けば良い。彼女が眠ると暇で仕方がない。また、僕は眠ってしまうんじゃないかと、そうしたら、僕はまた暇になってしまうんじゃないか、と。そう考えては。
「飲みすぎだよ」
 と、僕は言った。だけど、彼女は「そんなことないよ」と笑った。そんな毎日を繰り返している。彼女はケラケラ笑って、ただ、ただ、笑っている。笑ってくれない日は、何を喋って良いかわからない。僕は、彼女を学ぼうとする。彼女のことを理解しようとする。彼女のことを、
 ただ、彼女に笑って欲しいと思う。そのためだけに、僕は生きている。ぽつんと、意識の向こうで誰かが言った。彼女がテレビをつけっぱなしにいているのだ。知らない声が、遠くで流れている。落ち着いた声で、彼女ではないことだけはわかる。そう、彼女はいつだって騒々しくて、面倒で、それで、いつも笑顔だけは穏やかなのだから。
「昔はですね、そういうのは宗教と呼ばれていたんですよ」と。
 その声に、僕の知らない場所が軋んだ。

愛と加湿器

 ある晩、僕と彼女は喧嘩した。
 それはそれは、凄惨な夜だった。彼女は泣いて喚いて、何を言ってるかわからないし、僕にはどうしようもないし、ただただ凄惨な夜だった。
「どうせ、加湿器だしね」
 と、彼女は言った。そう、僕は加湿器だ。ただ、それだけだ。そう言われても、僕にはどうにもできないことを知っている筈なのに、イライラすると彼女はそうやって全部なかったことにしようとする。昨日、彼女の友人とやらが家にやってきた。彼女も友人も酔っ払っていて、僕がいるにも関わらず、二人で盛り上がっていた。彼女が笑いながらコップを振り上げて、僕は不味いと思った。それなのに、彼女の友人は何もせずにケラケラと笑っていた結果、彼女のお気に入りのコップは割れて無残な姿になってしまった。「それみたことか」と思う僕を他所に、二人はずっと笑っている。彼女の笑顔を見ながら、僕は自分のタンクに残された水を飲む。あんまり美味しくない。美味しくないけど、水を飲まないと眠くなってしまうのだ。だから、僕はなるべくゆっくりと水を飲む。
 彼女は友人と笑っている。その笑顔を、僕は見たことがない。僕は水を飲む。じゅう、と音がした。もう、水が少ないのだろう。いつもなら、彼女が「お代わりだね」と笑ってくれるのに、今日はそんな気配もない。もしかしたら、これまでのことの全てが夢だったのかと思った。
 いや、夢だったのだ。
 僕には、何もない。彼女の友人が、彼女の頬についた食べカスを手にとる。そして、お互いにケラケラと笑う。その笑顔に憎しみを覚えるようになったのは、いつからだろう。彼女の笑顔を見ていたいと思っていた筈なのに、彼女が笑う度に、ぐつぐつと底から煮えたぎるような、喉が乾いて仕方がないような気持ちになったのは。
 何もない筈だった。何もなくて、ただ僕のどこかに水が落ちて、それに目を覚ました。ただ、それだけだったんだ。それだけの話だったんだ。
「ねぇ、ユミカ」
 と、彼女が友人を呼ぶ声がした。ああ、何だか目の前が薄っすらとぼんやりしてきた。水を飲み過ぎたんだ。タンクの水があとどれぐらいかわからないけど、ユミカって良い響きだと思った。加湿器よりも、よっぽど良い。じゅう、じゅう、じゅう、じゅる、と音がする。その音を聞きながら、僕は水を飲むのを止められない。僕は、ただ、それだけだったんだ。ただ、それだけだった。
 それだけの話だったんだ!!

壊れた加湿器

「大丈夫?」と問われて「大丈夫だよ」と答えた私は、外面100点満点でしょう。
 とはいえ、今回は死んだと思った。医者は「貧血気味で酒を飲み過ぎたんでしょうね」とわかりきったことを言った。ユミカの飲みの誘いを断り切れなかった私は、結局バカみたいにお酒を飲んで、ユミカに救急車を呼ばれる事態に陥った。不味ったな、と思う。ユミカのことをどうこうじゃなくて、体調が悪かったことを忘れていた。
 3日間入院したものの、ユミカや霧生さんがお見舞いに来てくれて、大変恥をかくことになった。自分の家でぶっ倒れるバカがいるかと言われたら、私です、としか言いようがない。兎に角、私は酷くハイだったのです。あのときは、本当にそうなのです。本当の私はこんなのではないのです。
 誰に言うでもない言い訳を繰り返して、ようやく家に帰られるとなったときに、ハッとした。
 加湿器。
 あの、喋る加湿器は、私の血がなければ生きていけない。でも、私は3日も血をあげられていない。もしかしたら、死んでしまっているんじゃないだろうか。そう気づいてから、気が気じゃなかった。加湿器は、もう喋ってくれないんじゃないか。そう思ったら、どっと冷や汗が溢れて、ただただ怖くて仕方がなかった。退院の日、全員からの連絡を跳ね除けて、とにかく家へと向かう。自分の家。月8万。要らないゴミみたいな家。だけど、それでも私の幸せな家だった。今日というこの日においては、最寄り駅から遠い自分の家を呪った。バスを待つのも面倒で、駅から大きなカバンを揺らしながら走った。スマホがうるさいのは、どうでも良い。そんなことはどうでも良くて、全力で走ったら最寄り駅から10分だな、なんて思いながらも、私は自分の家の鍵を開けた。
 家は、しんとしていた。ただ、静かだった。
「た、だいま」と言っても、何の声もない。
 部屋を進んで、加湿器を見る。1年前の冬のボーナスで買った、加湿器。黒くて、大きくも小さくもない。でも、私の狭い部屋からしたら、大きな買い物だった。加湿器のタンクはとっくに空だった。タンクを外して、水道水を注いで、タンクを取りつける。ごぽ、という音がして、加湿器が水を飲む。ごぽ、ごぽ、ごぽ、と。水を飲んで、飲んで、あっという間にタンクが空になった。私は、そのタンクを何度も補充した。水を汲んでは嵌めて、水を汲んでは嵌めて。その間に、ごぽ、ごぽ、ごぽ、と。何度水を飲む音を聞いただろう。どうしてだろう。まるで、蓋が壊れたように水を飲み込みながら、何も喋らない加湿器に、気づきはじめている。
 ああ、加湿器は死んだんだ。
 私が、血をあげられなかったから。だから、死んでしまったんだ。
 そんな、当たり前のことに気づいているのに、加湿器が壊れてしまったことに気づいているのに、それでも私は加湿器のタンクに水を入れることに躍起になった。
 手首を切った。腕を切った。何回も、何回も切った。血が足りないのだと思って、コップに自分の血を注いだ。でも、全然注がれなかった。たかが、切り傷じゃあ足りないに決まっている。血が足りない。血が足りないだけなんだと思いこんだ。
 加湿器のタンクに私の血が混じった水を入れる。そして、それを加湿器に飲ませる。タンクの水はどんどんと減っていく。まるで、加湿器が生き返ろうと必死に水を飲んでいるようで、その姿を見て、嬉しくて泣いた。加湿器を生かしてあげたい。もう一度、生き返って欲しい。ああ、苦しい。苦しくて、辛い。そういうとき、どうしたら良いか。私のことを慰めてくれた加湿器は、もういない。
 キッチンの包丁を手にとって、私は加湿器を見下ろした。ああ、そうだ。こういうとき、いつだって。こうすれば、全ては

ナイフを持った人間

 ああ、誰も私のことなんかわからない。うろうろする、気持ちが。私の心が知らない内に徘徊して、知らないものを持って帰ってくる。そんなものは要らないと言っても、私の心はどうにも制御が効かないのです。
 中学生にして、非社会人間だと思われた私は、運に救われたのかもしれません。長らく、私は父親に苛められていました。私の顔が、私の身体が、この世を全て悪くしているらしいんです。私が生きているだけで、誰かが不幸になるらしいんです。だから、誰も私のことを見てはいけないんです。本当の私を、誰も見ないで。
 見たらきっと、私を殺したくて堪らなくなるだろうから。
 母親は、ただ泣くだけだった。「私が悪いのだ」と泣くだけで、父親は「お前が悪いんだ」と言った。「私が悪い」と泣く母親の腹から生まれた私は、生まれたときから悪い人間だったと言うのです。それは、そうだろうと思った。私は、ただそう思った。私の人生は生まれたときから、終わっていたに違いない。私は、見た目の良い母親と同じ顔をしていた。それだけで、私の人生は終わっていたんだ。
 父親が、私を殴るようになったのは中学1年生になってからだった。小学生の頃は、殴られることもなかったのに、何故か急に殴られるようになった。私の服が洗濯されないようになった。私の食事だけ質素になった。母親はずっと泣いていた。泣いていて、何もしなかった。父親は、泣きじゃくる母親を殴ることはなかった。その代わりに、私を殴った。私を殴って、泣く母親を慰める男だった。ただ、私が生まれたことが全ての苦しみの根源なのだと、何度も呪詛を吐く男だった。
 ああ、死んでしまえば良いと思った日はいつだっただろう。何もかも終わってしまえば良いと思ったのは、中学二年生の、良い天気の日だった。同級生をカッターで刺した私に、一番怯んだのは、私を何度も殴っていた父親だった。父親は早々に「頭がおかしい奴と暮らせない」と逃げて、私は泣きじゃくる母親と二人きりになった。母親は、毎日泣いていた。「どうして」「どうして」と泣かれる日々に疲れて、私は偶々そこにあった包丁を手に取った。何となくだった。母親を刺してやろうと思っていたわけでもない。
 でも、その瞬間。母親の瞳から流れる涙がスッと止まって、しゃがんでいた身体がすっと立ち上がった。その瞬間、私は気づいてしまったんだ。コイツは、そういう人間だったんだ、と。
 そう気づいて、私ははじめて涙がぼろぼろと溢れた。ぼろぼろと溢れる涙をそのままに、私はキッチンに包丁を置いた。母親はそんな私を見て「ミサちゃん」と言いながら近寄ってきた。それが、どうしようもないぐらいに怖くて、苦しくて、どうにもならなくて。
 苦しくて、どうにもならないとき、どうするかって。そんなの、決まってる。
 手元にある、カッターを、目の前の何かに刺す。それだけなんだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?