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【短編】クッソつまんない人生だった


 海外小説の登場人物紹介が嫌いだった。いきなり登場人物が全員揃い踏みして、僕を値定めするのだ。会ったこともない癖に、「お前は、オレの名前がわかるのか?」って面をしている。うるさい。名刺を貰っただけのこと。覚えるか覚えないかは、僕が決める。警部だの警部補だの、違いがわからないんだ。ただの単語の羅列で、自分を語れる自信が僕にはない。貰った名刺は破いて捨てるためにある。今この瞬間だけの名前をつけ合おう。それがきっと一番、自分らしい作業だと思うんだ。
 生まれただけで幸福な人生が約束されているのなら、なんと素晴らしいことだろう。この世は平和で平穏で争いのない美しい世界なんだろう。でも、きっとみんなが「ばかばかしい」って思っている。これは予想じゃない、確信だ。みんなって誰だよ、って思いながらみんながみんな、「みんな」って口にしている。「みんな、そうしているんだよ」と、魔法の呪文みたいに呪いの言葉を繰り返している。自分は自由だとのたまう奴は、大体不自由だ。これは僕の妄想。
 小説のジャンルだとミステリーが好きだった。この作品を書いている人は、きっと四六時中どうやって人を殺すかで頭がいっぱいなんだな、と思うと気が紛れる。僕もミステリーを書いてみようと考えて、人体図鑑を購入した。グロテスクな映画も借りた。僕には想像力がないので、自分が体験したことや知っていることしか言語化できないのだ。言語化できなければ、文章化もできない。だから、とりあえず人間を物理的に知ろうと思った。
 それは新たな発見だった。どうやら、僕は人間の中身に対して耐性がないようだ。人体図鑑を開いて、内臓のページを見ただけでゲロを吐いた。グロテスクな映画の八割は目を瞑っていた。人の悲鳴で、またゲロを吐いた。僕には想像力はないけれど、見たものや聞いたものを自分のことだと思い込んでしまう繊細さがあった。そのことを知って、僕には到底ミステリーは書けないなと思った。頭の中で、僕はなんとか僕を殺そうとする。でも、僕は殺せない。痛いのは嫌だし、僕は僕の内臓がどんな色でどんな形をしていて、どんな風に動いているかを見たくなかったからだ。自分の泣き顔は見たことがある。あんな不細工な顔を晒して、更には内臓すら晒すなんてごめんだ。僕はまだ生きていたい。でも、物理的に僕が死ぬことになったら、ミステリーは書けるのかもしれない。
 そしたら、無人島でミステリーを書こう。僕の最後の瞬間を、リアリティたっぷりでお届けする。そうしたら、エッセイになってしまうだろうか。でも、死んだ筈の人間が書いた小説が届くって考えたら、それ自体がミステリーな気がする。
 そういえば、僕の名前は十個ぐらいあって、正直自分でも整理できていない。声をかけられる度に「あれ、自分ってなんて名前だったけな?」と悩んでしまう。名前なんてどうでも良いと思うんだ。でも、覚えておくという作業が信頼感に進化するらしい。相手の名前は覚えているのに、自分の名前は覚えていない。だから、ついつい喉元まで出かかってしまう。
「すみません、以前何と名乗りましたか?」と。
 別に相手を疑っているとか、自分について話したくないとか、そういう訳じゃない。ただ、お互い知らないままのほうが楽しいんじゃないかと思う。だから、お互いに仮名でそこら中を走り回ろう。今時、どうせ化粧と服装で姿も変えられる。僕だけでなく、誰でも誰にでもなれる。そんな時代です。
 これは誰にも話したことがないんだけど、実はゲロを吐く行為が嫌いじゃない。痛くないし、内臓も見えない。だけど、自分の中身が知れてちょっと楽しい。時折、思いだしたように水をガブ飲みしてゲロを吐く。そうすると、今の僕の中身がわかる。ああ、まだある。もっとある。僕の中は空っぽなんかじゃない。色々なものが詰まっていて、その一部を視覚で感じて安心する。大丈夫、まだ死んでない。死ぬまでは好きに生きよう。そう思って、もう何十年経ったのだろうか。時間だけは平等に流れるから嫌いだ。部屋に時計を置きたくない。明日になるのが恐ろしい。目を覚ましたら、無人島にいたい。そこで僕は、ゲロを吐きながら生きていく。
 人生詰んだ、と僕なんかの人生じゃ口にすらできないぐらい、詰んでる人が多すぎる時代です。先日、妹が結婚した。両親はとっくの昔に離婚していて、父親の顔は覚えていないし、母親ももう亡くなっている。本当なら、長男の僕がしっかり普通に生きていかないといけなかったんだろうな、と今頃になって思う。でも、妹は僕と違ってまともに育った。しっかり普通の人生を送っている。父のため、母のため、妹のため、そんなこと考えたことがない。みんなそれぞれ好きに生きれば良いじゃん、と言って母親に殴られたのは、多分大学生の頃だったと思う。もう、あまり覚えていない。思いだしたくないだけだろうか。「無人島に行きたい」と言ったら「好きにすれば」と言われるような関係だった。好きにすれば、が母親の口癖だった。だから、僕も好きに生きていた。と、考えると、意外に僕の人生は母親によって生み出されたのかもしれない。それも嫌だな。やっぱり、忘れたことにしよう。

 絶賛、僕は無人島にいる。無人島って暑いな。それでいて、足の裏が焼けて痛いな。楽しい人生だったかと問われれば、それなりに楽しかったような気がする。でも、口にしたら「ノー」と答えるだろう。まだまだ、もっと楽しく生きられただろうな、と思ってしまうからだ。でも、もう良いか。これも新たな発見だ。どうやら、無人島に水は存在しないらしい。ミステリーを書くためのノートもなければペンもない。そりゃあそうか。やっぱり、僕には想像力が欠片もなかった。だから、僕は砂浜に指でミステリーを書くことにした。昨晩の事故の所為で、僕の身体はぼろぼろだ。剥き出しの内臓も、口から溢れて止まらない血も、痛みで無意識の内に流れる涙も。この全てを書いて、この物語を閉じよう。
 ああ、意外と海外小説の登場人物紹介って大事だったのかもしれない。僕の名前を書く前に、物語は終わってしまいそうだ。だけど、それで良いのかもしれない。ただのクズが、楽しく生きただけのことなのだ。僕のことは、僕だけが覚えていれば良い。そこまで書いて、僕は空を見上げた。太陽が僕の眼球を焼いて、まだ目が見えることに感謝した。じわじわと僕の表面が熱をもつ。咳をすると、折角書いた文字に血が落ちてぐちゃぐちゃになってしまった。指が震えて上手く書けない。何故か、僕は口を開いていた。舌が焼け焦げて煙をあげる。濁った声が僕の鼓膜に響いて、とうとう物語は終わる。
「ああ、死にたくないなぁ」

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