【短編】無自覚症状ダーリンダーリン2
続きました。BL風味です。
どうしてこうなったのだろう。と、考えることがある。幼い頃は、考えたこともなかった。僕が、こんなに色々考えるようになったのは、細沢遥と出会ってからだ。彼は、とても難しい。時折、僕は目の前の彼が本当に僕の知っている細沢遥なのかわからなくなることがある。そして、思い直すのだ。いや、元から僕は細沢遥の爪先すら理解していない。見た目も、中身も、動作も、細沢遥という人間自体が、僕には理解できない。もしかしたら、細沢遥は人間じゃないのかもしれない。じゃあ、何なんだと言われても、答えられないけれど。
ぞっとする瞬間がある。間違いなく隣にいるのは彼の筈なのに、得体の知れない何かが隣にいるように感じる。そんな感覚。でも、その感覚を知ってしまったら、もう前までの日常には戻れない。
ああ、皆。なんて、わかりやすいんだ。朝起きれば、家族がいて、挨拶を交わして。母親の料理を食べながら、どうでも良い会話をして。「美味しい?」と問われれば、「美味しいよ」と返すのが普通だと思っていた。「おはよう」と言えば、「おはよう」と返されるのは当たり前だと思っていた。泣いて笑って怒って悲しむのは、普通のことだって。まさか、目の前の人が嘘を吐いているだなんて、そんな決めつけを前提に、生きているわけがない。嘘なんて、そんな簡単に吐けるものだろうか?
ふと、一ヵ月前のことを思いだす。一ヵ月前、僕は約十年ぶりに細沢遥と再会した。あの、はじめてちゃんと話した公園で。そこで、彼は僕のことを「好き」だと言った。返答に戸惑う僕に気づいた彼は、明るい声で笑った。
「え? ゆかりちゃん、何か勘違いしてねぇ?」
そして、至って顔色も変えずに続ける。
「俺の『好き』は、そんな重いもんじゃねぇよ。ゆかりちゃんだって、好きな食いモンとかあるっしょ? それと同じレベル」
「食べもの、と同じ?」
「そ。何つーか、ゆかりちゃんって昔から重く考え過ぎなんだよなぁ」
いや、それは細沢君のほうなんじゃないですか。と言いそうになって堪える。彼は、いつだって僕にとって重い言葉を使う。その癖、僕のことを重いというのは何なのか。十年経っても、さっぱり彼のことはわからない。
「だって、たかが俺の言葉じゃんか。ゆかりちゃんには、もっとちゃんと考えないといけない人の言葉があるだろ」
と。案の定、彼は平然として言った。僕にとっては、とてつもなく重くて考えさせる言葉を。
「……僕よりも」
「ん?」
「僕よりも、細沢君のほうが重くて考え過ぎだと思うけど」
そのときの僕は、酔っぱらっていたからか、思っていることが素直に口にできた。と、今なら思う。彼は、少し視線を彷徨わせて、数十本目の煙草を口にした。
「別に? 俺は重くもないし、考え過ぎでもねぇよ。それを言うなら」
「……」
「相変わらず、ゆかりちゃんは普通で、俺は普通じゃないんじゃね?」
ずるいな、と思った。そうやって、彼はいつだって僕を煙に巻く。どうしてそうなのかは教えてくれない。ただ、同じ言葉を繰り返すだけだ。まるで、元々別の生き物だったかのように。彼は肉食動物で、僕は草食動物なんだと。線引きをされたような気になる。でも、本当にそうなんだろうか。僕たちは、わかりあえないのだろうか。僕には、一生彼のことを理解することはできないのだろうか。
いや、きっと違う。
子供の頃から、好奇心は旺盛なタイプだった。わからないものが嫌だった。何でも知りたくなった。だから、勉強も苦じゃなかった。自分が知らないことを知れば知る程、興奮した。学級委員長になったときも、恋人ができたときも、高校生から大学生になったときも。ただ、楽しかった。楽しいことをすればするだけ、周囲から褒められた。僕はずっと、正しいことを続けてきた。その筈だ。
だから、彼のことだけが、どこかで引っかかっている。結局、僕は何もできなかった。彼のことを理解できなかった。彼と話すと、正しさがどこにあるのかが、わからなくなった。だって、
世の中の正しさを問われることはあっても、僕の正しさを問われたことは――一度だってなかったから。
「細沢君」
と、僕は彼を呼ぶ。彼は、面倒くさそうな顔で僕を見る。もう十年経ったというのに、彼だけはずっと、出会った頃と同じままの顔をしているような気がした。口から、自然と言葉が零れる。
「もっと、話をしよう」
「は?」
「細沢君のことが知りたい」
「お前、酔っ払い過ぎじゃね?」
「違う。いや、確かに僕は酔っぱらってるかもしれないけど、でも」
彼の冷静な突っ込みにぐるぐると巡りはじめる思考を断ち切るように、僕は首を横に振った。そして、口を開く。
「僕が、細沢君に普通を教えてあげる、から」その代わりに、と。続けようとした口は、言葉が吐けなかった。何故って、僕の目の前に彼の顔があって、何か冷たいものが僕の唇に触れたからだ。灰色の瞳が、至近距離で開かれる。あ、やっぱり灰色だな、といやに冷静に思った。ぽつ、と。火の点いたままの煙草が地面に落ちる。
「……」
「良いよ」
「……え?」
「だから、良いって。言っただろ、さっき」
そう言って、彼は立ち上がる。呆然とする僕を一瞥して、彼は踵を返した。追いかけようと思うのに、足が動かない。背中を向けたまま、彼は立ち止まる。そして、宙を仰いで息を吐いた。
「俺は、ゆかりちゃんが命令してくれるなら、何だってするよ」
そして、彼は上半身だけ振り返り、八重歯を見せて笑う。
「チャット、ブロック解除しとくから。また連絡して」
僕は頷くことしかできなかった。良くわからない状況についていけず、ただただ混乱していたからだ。そのまま僕は、彼の背中を見送った。
そして、それから一ヵ月。結論、僕は未だに彼に連絡をとれずにいる。
◎◎
ポチ、ポチ。と、スマートフォンの画面をタップする。便利な時代になったもんだ。スマートフォン、タブレット、パソコン。同じ空間に、同じようなものが溢れかえっている。スマートフォンの操作が終わったら、次はタブレットに溜まったチャットを消化する。ただ、定型文を返すだけの作業。その間も、耳につけたイヤフォンから誰かの声がする。高級マンションの一室は、電光掲示板のようなネオンで埋もれている。その光にたかるように、人が群がる。ベルの音がして、タブレットを机に放り投げてパソコンのキーボードに指を置く。
終了時間、十分前です。
この単語を打つ度に、何となく思う。これが、お互いの人生のタイムリミットなら良いのにな、なんて。
実の姉が、俺の家に飛び込んできたのは、多分俺が十四歳だか十五歳のときだ。どうやら、俺は昔にこの姉という生き物と会ったことがあるらしい。姉に続いて、実の父親だという人とも会った。正直、何も覚えていなかった。不思議な事実。そのときの俺の実の父親の年齢は、五十幾つかで、実の母親の年齢は三十幾つか。細かい年齢は覚えていない。実の父親は、母親のことを責めていたけれど、俺は「お前も立派な犯罪者じゃねぇか」と思った。
何やかんやあって、俺は実の父親に引き取られることになった。でも、実際のところは違う。俺は、実の姉に引き取られた。姉は、丁度二十歳を越えた頃だった。つまり、俺とは約五歳の差。姉の話によると、昔から父親には母親は死んだと言われて育ったらしい。でも、いつか母親に会いたいと思い、自分で調べた結果、母親と俺の現状に辿り着いたと。そういうことらしい。
正直、その話を聞いて俺は「コイツ、クソ暇なんだな」と思った。あと、金持ちなんだろうなとも思った。実際に、父親は世間ではご立派な職業に就いていて、姉には湯水の如く金を使っていた。
離婚されたときの、実の母親の罪状。モラハラ、DV、浮気、金の使い込み。流石に、これは数え役満待ったなし。でも、父親は俺の親権をとらなかった。離婚した当時、母親は妊娠中だった。俺は未だ、生まれていなかった。だからだ、と父親は俺に語る。
父親には「お前を守れなかった」と泣かれた。姉も泣いていた。でも、俺は笑いを堪えるのに必死だった。笑いを堪えすぎて涙が落ちたのを、二人は勘違いして、そうやって。
ああ、ほら。そうやって、俺を否定する。
お前は可哀想な奴なんだと、俺が必死に生きてきた十何年間を、可哀想な物語にしようとする。まるでテレビの向こう側の話のように、自分は傷ついていないのに泣いて、当事者のように振る舞うのだ。
殴られて、殴られて、知らない人にも殴られて。殺してやりたいと思っても、勇気がなくて。ただ、息を潜めて生きる。こんなの可笑しいと思って泣き叫ぶ術も知らず、それでも何とか生きていくために必死になって、何でもかんでも受け入れて、真っ黒になった俺のことを、馬鹿々々しいと否定するんだ。今更、過去の俺に可能性を提示するんだ。ああ、なんて舐め腐った行為だろう。本当は、もっと、違う道があれば、と。そう考えて、でもそれは空想でしかなくて、もう噛む爪がなくなっても爪を噛み続けて、ようやく現実を受け入れて、真っ黒になった自分を、可哀想な奴だと、そういう目で、そういう目で。
そういう目で、みんなが、俺を、見るから。
俺は、自分を可哀想な奴だなんて思っていない。そうやって、俺は生きてきた。世の中、馬鹿ばかりだ。何も疑わず、何でもかんでも受け入れる。俺も同じだ。だけど、惨めだと言われても、それでも俺は生きてきた。将来の夢なんて、どこにもない。ただ、俺は生きる。何でも良い。金も権力も、何も要らない。俺の生き方が、俺にとって正しかったと、それを証明するためだけに。
は、と目を醒ます。どうやら、眠っていたらしい。パソコンのチャットに、「ご飯、リビングに置いておきます」という伝言が残っていた。姉からだ。二十四歳になった俺は、姉のマンションに居候をしている。高校、大学と、言われるがままに進学した。大学が単位制で良かった。必要最低限の授業だけ受けて、それ以外の時間は、全て目の前のことに注ぎ込んでいる。
ピロン、とイヤフォン越しに音がする。ああ、また人がきた。人生に疲れた人が訪れる、インターネットの相談室。俺は、そのサイトの管理者だった。
キーボードに手をかけると同時に、スマートフォンが通知音を鳴らす。何だ、と思ってスマートフォンを手に取った。そして、息を飲む。長田縁からのチャットだった。
◎◎
今日の午後十時、あの公園で話しませんか。
それが、僕が細沢遥に送れた唯一のチャットだった。あまりに唐突だったから、返事はないものだと思っていた。でも、彼は「わかった」と返してくれた。だから、僕はこうして公園のベンチに座って待っている。時計は、午後九時半を指している。流石に早すぎたか、と反省した。でも、変な時間に家を出ると親がうるさいのだ。だから、今日は飲み会だと嘘を吐いて、家をでた。
薄暗い公園は、一人だと、何だかしんみりとしている。憂鬱、というわけではない。ただ、色々考えてしまう。僕は、何がしたいのか。彼は僕のことをどう思っているのか。とか、とか。この一ヵ月の間、ずっと悩んでいた。でも、答えはでない。
ぼんやりと、宙を見る。ああ、今日は快晴だ。雲一つない夜空に、星が一つ、二つ、三つ。月が、僕を照らしてくれている、だなんて言ったらクサいだろうか。彼は、笑ってくれるだろうか。そう考えて、頭を振る。
「ゆかりちゃん」と、声がして顔を上げる。そこには、黒髪の彼がいた。童顔で、八重歯の彼。僕が座っていたベンチの隣に腰をかけて、ポケットから煙草を取り出す。当然のように。
「どしたん?」
「……」
何も言えない僕を、彼が見下ろす。そういえば、と僕は思いだす。僕はベンチに座っていて、彼は僕を見下ろしている。まるで、昔を真逆にしたようだと。そう思うと同時に、僕は彼の頬が前よりもこけていることに気がついた。出会った頃から、どんどん細くなっていく。こうやって、遠くから見ると何となくわかってしまう。
でも、それを口にするか、しないかは別だ。だけど、僕には少しだけの覚悟があった。僕は、彼のことが知りたい。彼のことを知りたい。僕の知らない、普通じゃない世界を知りたい、とまでは言わないけれど。
彼が、僕の火種を点けた。それを燃やしたくて仕方がなくて。どうでも良い、ただのボヤだと笑われるには、どうしようもなくて。だから、僕は。
まるで、彼に闘いを挑むかのような気持ちで、こうして対峙していたのだ。愛? 愛じゃない。多分、きっと。そうやって、僕は自分に嘘を吐いた。それが、はじめて僕が自分に嘘を吐いた瞬間だった。そう、僕はきっと、大分、多分、彼に惹かれている。それでも、それを口にはできない。だから、こうしてーー嘘を吐く。はじめて、嘘を吐いた。
本当に、バレないで欲しいと願った嘘だった。
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