【短篇】ロスト
昔に書いた短編。
【短編】ロスト
正直なところ、僕はどうやって生きていけば良いかなんてわからないのです。
日々を無駄に消化している。胸を掻き毟るような衝動が湧いては消えていく。明日になれば、全て忘れている。僕達はアルコールを消化するだけのいきものに成り果てている。それで良いじゃあないか、なんて君は言うけれど、僕はそれは間違いなんじゃあないかと思っている。ただ、そう思うだけで何をするわけでもない。
嗚呼、無駄に消化している。一生取り戻せないものを、一秒ごとに無駄にしているような気がする。どうしてこんなに苦しいのだろう、と言っても誰も答えてくれない。これまで出会った全ての人に理解されたこともない。そりゃあそうだろう。こんな小汚い男に魅力もありはしない。いつも鬱屈として、何か悲しいことを探している。そう、探しているのだ。
ねえ、あの場所をご覧よ。燃え盛る火が見えるだろう。そう、あの火は僕の命だ。何事もなく揺れているけれど、いつか急にふっと消えてしまうのだ。そんな気がしている。そう世迷言をのたまう僕について、馬鹿馬鹿しいと君は笑った。だから、僕もそんな君が馬鹿馬鹿しいと笑い飛ばす。すると突然、君は僕に殴りかかってみせた。いつものことだ。とっくに僕達は酔っ払っている。頬を叩かれて鎖骨を殴られると、少しだけ痛かった。でもそんなもんだ。痛いのは最初だけで、そんなものかと思うとどうでも良くなる。
床に置いた缶ビールが倒れて、辺りを濡らしていく。血なのか汗なのか酒なのかわからないまま、僕と君はもつれあって、ふと見つめ合う。お互いに息があがっていた。どうしてこんなに疲れてしまうのだろう。どうせ、酒を飲んだからさ。そう笑う君は、僕の頬を擦って「ごめん」と呟いた。だから僕も、気にしてないよ、と一応笑ってみせた。背中を浸す液体がとぷとぷと嵩を増す。このまま溺死してしまいたい。そう言うと、君は一言「それも良いね」と笑った。
◎◎
あの男は悪い奴だよ、と言われた回数なんて、もう数え切れない。お前も同類だと思われるとも言われた。でも、僕にとってはどうでも良いことだったのだ。他人の評価なんてどうでも良い。僕は彼のことを好いている。それだけで良かった。生来、僕は人を好きになることなんてないと思っていたけれど、まさか同性を好きになるとは思ってもいなかった。しかも、巷で噂の悪い奴。こう見えて、僕は普通の青年だったのだ。普通の家の一人息子に生まれて、大学は地方の公立を受験したので、自然と一人暮らしになった。そこで勉学に励み、サークルではなく部活にも入った。本当に普通の、いやむしろ両親にとっては自慢の息子だったのかもしれない。
あれは、部活の飲み会が少し遅くなってしまったとき。僕は終電を逃すまいと最寄り駅に向かって走っていた。そんな僕の腕を掴んだのが彼だった。最初は人間違いなのかと思った。急いでいることを伝えようとした僕に、ボサボサの髪の彼は半笑いでこう言ったのだ。
「なあ、火、ない?」と。
それが僕と彼との出会いだった。この出会いを思い出すと、何故か頭が痛む。出会ってはいけない二人だったとは思ってもいない。そう、僕は彼みたいな人と出会いたいと思っていたのだ。ずうっと、ずうっと長い間、僕は鬱屈としていた。暗闇の中、微かな光を探して生きていきたいと思っていた。どうしてそう思ったのかはわからない。父や母の所為でもない。学友の所為でもないし、教師の所為でもない。もう、元から僕という人間がそうだったとしか思えない。
だから、僕は彼と出会って、そのまま始発の時間になるまで語り合った。僕が話す度に、彼は「面白い」と大笑いしていた。彼はすえた藁の臭いのする男だった。でも、やけに癖になる臭いだ。始発の時間になっても、僕達は離れることが出来なかった。そのまま、彼のアパートに転がり込むことになって、今日に至る。
どうやら、彼にはたくさんの友人がいるようだった。しかし、全員彼のことを「ろくでもない男」と評している。それなのに、友人でいるのだから不思議だ。僕は、彼のことを何とも思っていない。僕は、彼のアパートに転がり込んだまま、大学にはきちんと通っていた。だから、僕と彼が会うのはほとんど夜になる。夜になると、彼は浴びる程の酒を呑んで愚痴愚痴と長い話を語った。僕も負けじと飲んで、愚痴愚痴と長い話を語った。それからの、はじめてのことは覚えていない。もう癖になっている。お互いそういう人なのだと思えば、どうということはない。
「神様なんているわけない」
と、彼が言ったことがある。僕もそう思う。
「じゃなきゃ、ここに君がいる筈もない」
確かに神様なんて存在しないから、僕と彼は出会ったのだ。そうだろう。そうであって欲しい。もし神様という存在がいるのなら、僕と彼は出会うべきではない、出会わせないようにすると、彼は思っているのだ。そのことが少しだけ寂しくて、でも「確かにそうだろう」と思う僕も、本当に卑しい奴なのだ。
嗚呼、火が燃えている。僕の命だ。彼の命を見てみたい。彼のことを見つめていたい。もし僕が彼になれるのなら、僕は彼のことを理解できるのだろうか。そうして、彼は僕のことを理解できるのだろうか。全ては闇の中。僕達に、未だ火はない。
◎◎
「僕達、少し寂しい奴だったんだ」と。
じめっとしたアパートの一室で、君は言った。何かを悟ったような台詞に、僕はもじもじと爪先を弄る。ささくれだっているのに、ぷつぷつとした水泡ができている。何かの病気なんじゃないかと思うけれど、季節が変わるといつもこうなる。他人の指先なんてそこまで人は気にしないから、表立って指摘されたことはない。もし気づいていても「どうせ酒の所為だろう」と鼻で笑われていることだろう。
「僕達、似ているよね」
と、君は自分に言い聞かせるように呟く。反論する気はない。確かに、僕と君は似ている。僕は小汚い男で、君は清廉潔白とした大学生だ。求めるものが似ていることに間違いはない。
しかし、君は一つだけ勘違いしている。僕が君に声をかけたのは、新しい金づるが欲しかったからだ。それも、うんと世の中に慣れていないような、綺麗で真っ白な奴。
君自身は気づいていないかもしれないけれど、君はいつだって清く正しい空気を撒き散らかしている。派手な服装でもない。ブランド品の一つも身につけていない。それなのに、君からは汚れ一つもない石鹸の香りがする。それは僕のような人種にとって紛れもなく一種の餌であり、一種の暴力だった。
何も答えずにいると、君の瞳から一粒の涙が溢れて伝った。君は弱い奴だ。そう見えて、実は強くもある。壊れ物のようなのに、時に酷く反発する。はじめて僕を殴った日、君は物凄く悪いことをしたような表情をしていた。だから僕は言ってやったのだ。
「良いさ、それで」と。
そのときの君の安堵した表情といったらない。
「ずっとこうしたかったんだ」
「そうかい」
「痛くない?」
「痛いさ、少しだけ」
「ごめん」
そこで会話は終わった。しかし、それから君は酔っ払うと僕に暴力を振るうようになった。当り前のように、止め処なく続く。その代わりに、僕に差し出す金の量が増えた。それで良い。僕達は似ている。差し出されるものと受け取るものの割合が同じなら、それで良い。そうして、僕は小汚い男に成り果てたし、君はいつまでも清廉潔白な人間で居続けるのだろうと思う。
◎◎
僕は未だに、彼のアパートで暮らしていることを両親に言えずにいた。両親は過保護で、一人暮らしでは使い切れない程の仕送りをしてくれている。だから、僕は自分の家の家賃を支払いながらも、彼にお金を渡すことが出来たのだ。つまり、僕は僕の人生を切り売りしている。いや、まさか。彼に渡す金が増えていくと、自然と部活の飲み会に参加することも減った。ただ、学校にだけは通っている。彼の傷が増えたとしても、僕は未だに傷一つない。乾いた服を着て、大学に行き、教授や同級生と歓談し、そうして夜にはあの家に戻るのだ。
時折、いつまでこうした日々が続くのだろうと思う。成績証は、未だ優等生を保っている。しかし、同級生と話していても、沸々と湧いてくるこの感情は何なのか。不思議な感情を持て余している。喉にでかかった言葉を飲み込むことも増えた。教授が僕に声をかける。
「卒論はどういうテーマにするつもりだい」と。
同級生は、僕の成績証を覗き込みながら言う。
「どこの会社を狙うんだい」と。
そうか、次は会社か。卒論を書いて、就職活動をして、僕はこうして普通の流れに乗っていくのだろう。両親に連絡しては「そう、頑張っているのね」と一言。そうして、次の季節には、自分一人では使いきれないだけの金が振り込まれる。春夏秋冬、同じような服を着ていても指摘されることもない。
ふと、周囲を見渡してみる。大学の講義の時間だ。僕みたいな奴等がたくさんいる。この中で、僕はどんな風に見えているのだろう。同類だと思われているのだろうか。しかし、誰も知らない。夜になれば酒を飲み、知らない男を殴り続ける日々を繰り返していることを。その代わりに金を渡していることも。そうして、僕は日々清廉潔白な人間であり続ける。
あり続けるのか? 果たして、本当にそうして生きていけるのだろうか。鬱屈としている理由もわからず、ただ彼を殴る瞬間だけ、心に火が灯る。ずうっと、薄暗い道を歩いてきたかった。日向にいながらも、路地裏を探していた。本当の僕を探すには、もう時間が経ちすぎたのだろうか。僕の根っこは未だに僕を内部から刺し続けて、その痛みの余り、僕は彼を刺してしまうのだけど、もし彼が僕の目の前から消えてしまったらどうなるのかなんて考えたくもない。ずっと、この痛みを抱え続けて生きていくだなんて嫌だ。
でも、後戻りは出来ない。
「なあ、次の合同説明会、一緒に行こうぜ」と、講義が終わって、隣の席の友人が言う。その声に、僕は笑顔で「勿論」と返した。こうして、心に灯る火がぷつんと消えていく。その火種を抱え込むように、僕は講義室を後にした。
◎◎
その日は、突然訪れた。
酷く酔っ払っていた。君からの金を使って、朝っぱらから飲んでいた。美味い酒じゃあないと思いながらも、酒と煙草をバカみたいに飲んだ。知らない人の言葉に、適当に頷いた。もう閉店だと言うので、真昼間の太陽に焼かれながら、別の店を探して彷徨う。そんなとき、僕は声をかけられた。丁度、まるで昔の君みたいに。薄汚いコートを着た男に腕を引かれて立ち止まる。男は僕を一瞥して、黄色い歯を見せてにたりと笑った。
「兄ちゃん、煙草持ってねぇか」と。
嗚呼、どうやら僕と同じだと思っているらしい。この男は憐れにも、僕と自分が同じ人種だと思って声をかけたのだ。じりじりと太陽が額を焦がして、汗が頬につたう。気分が悪い。僕はポケットからくしゃくしゃになった煙草を男に差し出した。それを男は奪い取って、またにたりと笑う。そして、震える手で煙草をとって銜えた。僕に取り返されないように、必死の形相で煙草に火を点ける。煙がぷかりと浮かんで、男は僕を見てにたりと笑った。その一連の流れを見届けて、僕はふと思った。
この男は僕の成れの果てだ。
小汚い僕は、薄汚い男になり、こうして知らない誰かに煙草を強請るようになる。そうしてまで生きる理由とは、何なのだろう。そう思うと、僕は目の前の男の生きている意味がわからなくなった。自分の存在意義なんて、これまで真面目に考えたことはない。でも、そのときだけは、ふっと考えてしまったのだ。きっと、朝から浴びるように飲んだ酒と、昼間の太陽が脳を焼き焦がしてしまったのかもしれない。
僕は、にたにた笑う男に悟られないように、直ぐ傍にあったものを手にとった。飲み屋街でも、流石に昼間は人が少ない。男は煙草に夢中で、僕を気にもしない。掌の感触を確かめる。その間、僕を咎める人はいない。ふと、君の姿が浮かんだ。でも、それだけだった。ただ、少し早まっただけなのだ。
そう、蝋燭の火が消える瞬間が。
ぷかぷかと煙がのぼる。のぼって、のぼって、それが人間の魂だというのなら、今日が僕の命日だったのだろう。
◎◎
いいえ、違います。聞いてください。申し上げます。僕は頭が悪いわけでも、狂っているわけでもない。彼は、人一倍世間というものを知っていました。だから、こうして何もない、何にも縛られない生活を続けていたのだと思います。全ては僕の想像かもしれませんが、いいえ、実際のことをお伝えします。
あの日、僕は彼よりも早くアパートに帰っていました。そして、彼はいつも帰ってくるであろう時間に帰ってこなかった。だから少しだけ心配して、僕はアパートを出たのです。そうしたら、驚きました。
彼は、家の扉の直ぐ横の通路で横たわっていたのです。どうせ酔っ払っているのだろうと思って、僕は彼を揺さぶって起こしました。でも、彼はそれぐらいじゃあ起きなかった。そんなことは慣れっこで、僕は彼の頬を引っぱたこうとした。そこで、はじめて違和感に気づいたのです。
彼の黒いコートが黒ずんで変色していました。更に、彼の頬にも赤い切り傷が一つ。意を決して首元まで閉じたコートを開くと、彼の腹部には真っ赤な血痕が残っていました。
ええ、正直に申し上げます。そのとき、僕は彼が死んでしまったのかと思いました。だけど、彼は呼吸をしている。そして、傷は頬の一つだけなのです。つまり、彼は何か大変なことに巻き込まれたということだけは理解できました。
そこからの僕の動きは素早く、兎に角誰かに見られないうちに、と部屋に引きいれました。勿論、僕と彼の塒のアパートの部屋のことです。そこで、僕は渾身の力で彼の頬をはたきました。彼は目をしぱしぱと瞬かせて、億劫そうに起き上がる。
「何があった」と、僕にしては珍しく力強い声を出せたと記憶しています。彼はそんな僕を夢現のように眺めながら、呆然と言ったのです。
「死のうと思った」と。
「その血は」僕は続けます。
「これは、僕の血だ」と、彼も続けます。
自分でも、もう何を話しているのかわからなくなってしまいました。彼はふらふらと頭を揺らしながら、面倒臭そうに僕を見るだけで、それ以上を語るわけでもない。ただ、時間が経過するのを待っている。
――こんなバカな話があってたまるか!
そう思った、その瞬間。恥ずかしい話、僕は彼を愛していることに気がつきました。この、ろくでもない男を途方もないくらいに愛している。それは、彼が僕と似ているから。それだけではなく、僕はもう彼のことを僕の一部だと思い込んでいた。僕は僕のことを気持ちが悪いくらいに、堪らなく愛しているのだと気づいたのです。僕は馬鹿です。ようやく気がつきました。彼は僕だ。僕は彼だ。そんなことが、途方もなく難しい。
それからの僕は、とても早かった。彼の覚束ない舌が覚醒してしまう前に、部屋の荷物を簡単にまとめて、タクシーを呼びました。勿論、彼の服を着替えさせるのも忘れずに。施錠はしませんでした。もしかしたら、他人の所為になるかもしれない、と甘いことを考えたものですから。
ええ、その通りです。僕は、彼と共に遠くへ逃げようとしました。そして、その通りにした。彼は何も言わなかった。僕は彼を誘拐したのです。
それから、それからのことは、あまり覚えていません。遠くへ行って、二人で暮らしました。何分、あれから数年も経っていますから。もう、自分の名前も曖昧なのです。僕達は、別の場所で別の名前で、別の暮らしをしていました。ただ、ただ。
そう、心に灯る火を探しているのです。それを情熱と呼ぶのなら、そう呼べば良い。でも、僕達はそれを情熱と呼びはしないでしょう。
「ただ、寂しい奴等だったんだ」と、彼は言いました。
そうかもしれないね、と僕は言いたかった。でも言わなかった。彼は、最期のときにこう言いました。
「気づいていたかい。君は、同性が好きなんじゃない。あの頃は、ただ恋を知らなかった。美しい女性に恋をするのが怖くて、だけども恋だけが自分を救ってくれると信じていて。だから、一番自分に近い僕を好きだと思い込んだんだよ」
その声は、少しだけ申し訳なさを含んでいて。
「だから君は、少しだけ覚悟をすれば、また元に戻れる。清廉潔白な人生を歩んでいける。そうは思わないか」
据えた藁の臭いがしたのを覚えています。もう僕は、どこまでが夢でどこまでが現実なのかがわからないのです。
嗚呼、押し入れは開けないで。まさか、死体なんてありませんよ。死体があれば、僕は未だまともでいられたでしょうか?
暑いですね。もう夏ですか。もう何年経ちましたか。親は未だ生きていますか。僕は未だ、元の道に戻れますか。日差しが眩しいですね。焼かれて、焦げて、このまま煙になってしまえば良いなと思うのです。もしかしたら僕は、とっくの昔に死んでいたのかもしれません。
嗚呼、見てください。あの太陽。あれが、僕の命です。そして、もう幾ばくもないでしょう。ただ、時間が許すだけ、彼と一緒にいたいのです。そんなバカな話があってたまるか、と仰いますか。そう、こんなバカな話、あってはいけません。
僕の死体を調べたら、もう一人の僕が見つかるでしょうか。そうだったら、とても嬉しい。それでは、お先に失礼します。
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