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【短編】その晩、冷房が止まった1

 その晩、冷房が止まった。

 二十度に設定した冷房から、ドンドンと扉を叩くような音が聞こえた。そして、生温い空気を吐き出す。冷房が壊れたのかと、僕は布団から起き上がった。自動でスライドする筈の羽が、何故か一番上で止まっていた。冷房の端に、まるでミノムシみたいに垂れ下がった、一粒の、水の雫。水漏れだ。タオルで拭かなきゃ。枕に敷いていたタオルを手に、重い腰をあげた。瞬間、冷房から小雨のような、霧のような、細かくて白い粒が無数に吐き出されて。
 パチン。
 世界が、終わった。

◎◎

 トン、トン。
 トン、トン、トン。
 ドン、ドン、ドン、ドン、ドン。
 扉を叩く音。何回も、何回も。誰かを呼んでいるような、探しているような、ずっと同じ音が聞こえる。誰だろう、と考えて、冷房の音だと思った。何故なら、この世界にはもう、自分以外の誰もいないからだ。まさか、扉を叩く誰かなんて存在しているわけもない。そこまで考えて「あれ?」とも思った。誰かがいるわけもないし、冷房からそんな音が鳴るわけもない。
 だって、冷房はあの晩から壊れて、今もずっと止まったままなのだから。じゃあ、この音は、一体?
「あのー、聞こえない感じですか?」
 そんな声がして。目を開いた俺の前に、一人の青年の顔があった。ぐりぐりした大きな黒目に、小さな鼻と、薄い唇。あ、人間だ。これは間違いなく人間だ。あまりの衝撃に、一瞬頭が回らなかった。その代わりに、身体は即座に動く。
 がばりと起き上がると、青年は咄嗟に身を退いた。暫しの沈黙の後、目と目が合って、呆然とする。青年は、黒い大き目のパーカーを着ていた。ブランド名は、何だろう。無地だからわからない。ぐしゃぐしゃでところどころ跳ねている黒髪は、童顔も相まって、全体的に幼い印象を受ける。
「僕のこと、見えてます?」
 と、青年は自身を指さしながら言った。俺は、頷いて答える。喋ろうと口を開いても、喉が詰まったように声がでないのだ。どれぐらいの間、会話をしていなかっただろう。俺の反応に青年は、ほっとしたように肩の力を抜く。そして、思ったよりも大きな口を開き、歯を見せて笑った。
「あー、良かった。貴方まで死んでたらどうしようかと」
 このときの俺は、その台詞の意味を全く理解していなかった。ただ、もう誰もいないと思っていた世界に、未だ人間がいたこと。そして、未だ世界は終わっていないこと。それだけで、頭がいっぱいだったのだ。

◎◎

 前言撤回。
「世界? もう終わってますよ」
 あっけらかんとして、ハスは言った。ハスとは、全身真っ黒の、ついさっき俺を起こした青年のことだ。名前は、ハミヤハス。年齢は、二十。職業、フリーター。
 それにしても、やはり世界は終わっていたらしい。ちゃんちゃん。で、済ませるには流石に納得がいかない。痛む喉を何とか震わせる。
「じぁ、俺達って何なの?」
 ガラガラの酷い声だが、一応人間の言葉は喋ることができた。こちとらこの二十何年間、人間の言葉を喋ってきたのだ。ちょっとのブランクがあったからといって、忘れるようなものではない。うーん、と唸ってハスは口を開く。
「人間、じゃないですかねぇ」
「世界が滅亡したのに?」
「世界滅亡とは違うんじゃないですか。人類滅亡とも違うし。ただ、世界が終わっただけですよ」
「えー、同じじゃん」
「何となく、何となくですよ。多分ですけど、多分僕達は今、エピローグ中なんじゃないですか? もしくはアディショナルタイム」
「あー、何だっけそれ。アディショナルタイムって……サッカーの……」
「試合中に止まった時間分を、本来であれば試合終了! ってところに付け加えるやつですね。継ぎ足し的な」
「俺、今人生の継ぎ足し時間中?」
「継ぎ足しとはちょっと違うかも? でもまぁ、似たようなもんですよ」
 多分、と適当なことを言うハスは、俺の部屋の冷蔵庫から勝手にビールを取ってきて飲んでいる。それを窘められないのは、こうして人間と話すのが久しぶりだからだ。何だかんだ、誰かと話すのは楽しい。昔は、何でも面倒だと思っていたのに。
「俺はさぁ」
 と、ハスが飲んでいたビールを横からかっさらって、俺も口をつける。淡い炭酸に、微妙な苦み。安い発泡酒の味がする。でも、不思議と物凄く美味しかった。
「世界が終わる瞬間を、見たんだよ」
 言った後、ちらりとハスの表情を伺う。ハスは大きな黒目で俺を見ていた。元から口角が上がっている所為か、黙っていても楽しそうな顔に見える。
「最初は、冷房が壊れたと思った。まぁ、古い冷房だし。もう何十年使ってるかもわかんないし。とうとう壊れたか、ってぐらいの感じで。冷房が水漏れしててさ、タオルで拭こうって、こう、手を伸ばしたんだけど」
 実際に、俺はあのときのように手を宙に伸ばしてみる。手の向こうには、古い蛍光灯がある。蛍光灯の明かりが、俺の手のひらの血管を透かしていた。
「ぶわっ、て。白い霧っていうのかな、俺、霧とかちゃんと見たことないけど。霧みたいなのが一気に噴き出してきて、何だこれって思った。そしたら、」
 ゆっくりと、俺は手を胸元まで戻す。ハスの瞳が、俺の手を追いかける。それを確認して、俺は胸の前で両手を叩いた。ペン、と弱々しい音が部屋に響く。
「パチン、って何かが切れた。視界が真っ暗になって、何の音もしなくなって、ただ頬に冷たい雨が降ってるような。いや、物凄くゆっくり、変な感覚で一滴ずつ水を落とされるような、変な感じがずっと続くんだ。俺、地獄ってこんななんだなって思った」
「はえー、すっごいねぇ」
「もしかしてお前、馬鹿にしてる?」
「いやいや、良く覚えてるなぁって思いまして。うん、凄い記憶力だ」
「馬鹿にしてんだろ」
「してないしてない! だって、僕は何も覚えてないですもん」
「ん。てか、思ってたんだけど」
 ビールを飲んでいたら、塩辛いものが食べたくなってきた。床から立ち上がり、戸棚を開ける。袋詰めの柿ピーは、未開封だった。それを手に、席に戻る。バラエティパックの柿ピーを机に置くと、ハスはわかりやすいぐらいに目を輝かせた。即座に伸ばされた手を、俺は瞬時に叩き落す。
「いへっ?」
「お前、少しは遠慮しろよ。他人の家だぞ」
「えー、んー、そう? そっか、そうですね。それはそう、かも?」
「まぁ、俺の質問に答えれば、やらんこともない」
「んー? つまり?」
 困惑するハスを無視して、柿ピーの袋を切って、俺はピーナッツを口に放り込む。塩の味がする。ビールも、柿ピーも、味がする。何も変わらない。
「お前、本当に人間?」
 俺の部屋、ワンルーム。安い木造アパートの一階。世界が終わる前、近所で不審者がでた。そんな噂が聞こえてきても、何も変わらないような、そんな世界。そんな世界が終わった。冷房が壊れたあの晩に、終わったのだ。だけど、俺は今こうして柿ピーを食べ、ビールを飲んでいる。それも、全て。
 この、ハスという青年がいたから。
「何でお前、ここにいるんだよ」
 そう言うと、ハスは笑っているのか、ただ何も考えていないのか、何もわからない、薄く口角の上がった顔をしたまま、ゆっくりと口を開いた。

◎◎

「あんまり、覚えてないんですけど」
 と、ハスは話しはじめた。何かを思いだすように、どこか遠い目をしている。
「扉を叩く音が聞こえたんです。ドンドン、って」
 思わず、息を飲む。扉を叩く音。それは、俺も聞いたことがある。ハスは続ける。
「ずっとずっと、鳴ってた。いつだったっけな。数日前かもしれないし、もっと昔からだったかもしれない。ずっと、扉を叩く音がしてて、うるさいなって思って、扉を開けようってなって」
 それで、とハスは息を吐いた。
「でも、僕の部屋には扉がなかった」
「扉が、なかった?」
「そう、僕の部屋には扉がなかった。ずっと昔から、扉がないんです。だから、この音はどこから聞こえてくるんだろう、って考えて、耳を澄まして、そうしたら」
「……」
「……」
「……そうしたら?」
 次の言葉を促すと、ハスは少し考えてから言った。
「貴方がいました」
「は?」
「いや、本当なんです。僕にも良くわからないんですが、貴方がいて」
「ちょっと待てよ。いや、百歩譲ってそれが本当だとしても、じゃあ何でお前は世界が終わったって」
「わかりませんか?」
 俺の言葉を遮ったハスと目が合う。その瞳の黒さにぎょっとした。目が大きい所為か、真っ直ぐに見られると、まるで威圧されているかのように感じる。
「だって、僕達以外に誰もいないんですよ」
「……え?」
「この世界には、もう僕達以外には存在しない。貴方も、わかっているんじゃないですか?」
「何が?」
「向こう側には、何もない」
 そう言って、ハスが指をさす。指をさした先には、俺の部屋の扉があった。本来なら、外に続いている筈の扉だ。薄暗い廊下の向こうに、ただ扉がある。それを見て、俺は何故だか、ぞっとした。説明できない、不思議な感覚。あの扉の向こうに、何があるのか。ハスの声が部屋に響く。
「僕、本当に馬鹿にしてないですよ。貴方の『冷房が壊れた』って言葉に、ぴんときたんです。確かに、そうだろうなって思いました。というか、思いだしたんです。だって、僕も」
 蛍光灯が、ジジ、と音をたてる。
「あのとき、扉が叩く音が止んだんです。今思えば、あれが僕の世界が終わった瞬間だったんでしょうね」
 教えてくれてありがとうございます、と。この場にそぐわない笑顔でハスは言う。そして、「答えたので」と言いながら、机にあった柿ピーの袋を手にとった。その笑顔は、本当に無邪気な子供のようで、何の疑いようもない。
 何もかも、わからないことばかりだ。むしろ、わからないことがもっと増えた。だけど、唯一わかったことがある。
 俺の世界も、ハスの世界も終わっていた。
 だけど、終わったのは――果たして、本当に。この世界、全てのことなのだろうか。

◎◎

 ……。
 …………。
 ………………。
「暇、ですね」
「暇、だな」
 俺の人生のアディショナルタイムがはじまって、三日目。俺とハスは猛烈な暇を味わっていた。昔は、暇であることが美徳だった。何でもかんでも面倒で、暇な時間は好きなだけ寝て過ごしていた。それがささやかな幸せだと思っていた。
 が、それは間違いだったのかもしれない。何しろ、俺とハスはこの部屋から出られない。いや、出られるかもしれないが、俺が頑なに拒んでいる。男二人、狭いワンルームに丸々三日間。流石に、柿ピーと酒だけでは如何ともしがたい。
「そういや、腹減らないな」
 と、ふと気づいたことを口にする。この三日間、空腹感を覚えたことがない。それで言えば、排泄もしていないし、風呂にも入っていない。ただ、息をしているだけだ。これが、人生のアディショナルタイムなのだろうか。ハスは畳に横たわりながら、のんびりとした口調で答える。
「お腹、減らないですねぇ。でも、ゲームで言えば、チートみたいなもんですよね。これって」
「でも、逆に暇だな」
「暇ですね。うーん、チーターは何が楽しかったんでしょう?」
「わからんなぁ」
「わかりませんねぇ」
「酒でも飲む?」
「うーん。でも、お酒も残り本数が少ないですよね。昼間は何とか堪えたいところですが……」
 そう言いながら、ハスは起き上がる。ぐしゃぐしゃの髪は、相変わらずぐしゃぐしゃのままだ。ふぁ、と欠伸をかまして、机に上半身を乗せる。
「運動でも、します?」
「何の?」
「そこは、何か。面白そうなやつ、見繕ってくださいよ」
「俺、運動嫌いだからなぁ」
「僕も、あんまり運動は好きじゃないです」
「酒でも飲むか」
「そうですね」
 このやりとりも、もう何回もしている。暇だ。暇ですね。酒飲むか。そうですね。その繰り返し。ビールの残りは、あと四本。これが終わったら、俺達はどうしたら良いのだろうか。
「あ」と、ハスが何か思いついたような声をあげる。
「何か、後悔はないんですか?」と。
「は?」
 突然の問いの意味がわからなかった。ハスは机に顎を乗せたまま続ける。
「いえ、僕達って今、人生のアディショナルタイム中じゃないですか。それで、思ったんですけど」
 アディショナルタイムは、あくまでハスが言った例え話だ。でも俺は、すっかりその単語を信じきっていた。何故だろう。でも、そんなの当たり前のことだった。こんなおかしなことになって、何もわからない中で、あたかも本当のことように言われたら、誰だってそれを信じてしまうに違いない。
「つまり、僕達の人生、アディショナルタイムになるだけの、試合中止時間があったってことですよね。生きているのに止まっていた時間っていうか」
 生きているのに、止まっていた時間。その言葉に、衝撃を受けた。これは例え話だ。あくまで、例え話だ。そう思うのに、心臓が早鐘を打つ。
「ちなみに、貴方はそうい」
「そんなの、誰にでもあるだろ」
 ハスの言葉を遮って、俺は言っていた。
「誰だって、後悔してるだろ。何でもかんでも、全部正しいと思ってる奴なんて、いないんじゃないか」
 自分の人生、全部正しいと思ってる奴なんかいない。誰だって後悔している。もっと良い人生が送れたんじゃないか。もっと頑張れたんじゃないか。もっと、もっと。もっと、どうにかしていたら、どうにかなっていたら、自分は幸せに生きていられたんじゃないか。なんて、誰だって思っているに違いない。
「俺だけが、特別なんじゃない」
 そう言って、ハッとする。ハスと目が合いそうになって、慌てて冷蔵庫へと向かった。素面で話すことじゃない。あまりに暇だったから、ついつい舌が滑りやすくなっただけだ。いや、もう世界は終わっているから。この世界には、もう俺とハスしかいないから。たくさんの言い訳を頭の中で並べて、俺は無理矢理笑顔を作って、ビールを手に振り返った。
「まぁ、そんなのどうでも良いじゃん。さっさと、酒飲んで」
 どきり、と心臓が跳ねる。ハスは真っ直ぐな瞳で俺を見ていた。その、真っ黒な瞳。大きな瞳。俺以外を見ていない、その視線が、俺の心を滅多刺しにする。俯いてしまいそうになって、何とか堪える。残り四本のビール。その内の、二本を机に置く。昨日袋を開けたままの柿ピーを口に入れると、湿っていて不味かった。
「……俺って、ダサいよな」
 ぽつり、と言葉が落ちる。その言葉は、間違いなく自分の口から落ちた。それを自覚したら、もう早かった。
「こんな、世界が終わったみたいな状況でもさ。何か、信じちゃうんだよな。もしかしたら、また明日になったら、明後日になったら」
 息を吸い込むと肺が痛い。理由もなく震える手で、ビールのプルタブに指をかける。クソ安い、発泡酒。
「いつか、俺も」
 カシ、と音が鳴ってビールのプルタブが開く。何度、この音を聞いただろう。
「俺も、こんな世界から、抜け出せるんじゃないかって」
 いつか、そうなった。いつか、そうなる。それが、いつか、そうなったら良いなに変わったのはいつからだろうか。もう覚えていない。俺は、木造アパートのワンルームから、一生抜け出せない。その現実から逃げたくて、逃げたくて。逃げたいのに、どうしたら良いのかもわからなくて。
「今更だよな。こんな状況になっても、俺にはわかんないんだよ。どうしたら良いのかも、何をしたら良いのかも」
 羽目を外すことすらできない。暇の潰し方もわからない。そんな俺の生き方は。
「生きてるのに、止まってる。そんなの、俺の人生、ずっとそうだった」
 後悔しても、何も変わらない。ただ、この狭い部屋の中で思うだけだ。今日は、偶々運が悪かった。俺は悪くない。同じアルバイト先の後輩が俺よりも評価されても、どんどん、最後尾に回されていっても。俺はそういうもんなんだと。所詮、俺はそういう人間だと、そうやって思って、だけどいつか運が良ければ、何かが巡ってくるのかもしれない、とか。
「だけど、俺は特別じゃない」
 皆、そうだ。この世の中には、主役がいて脇役がいる。だから、俺は脇役で良い。この木造アパートのワンルームが、丁度良いんだ。そう思い込むことで、自分の心の矛盾に折り合いをつけている。
「そうですね」
 と、ハスの声がした。その声の優しさに、少しだけ安堵して、ビールの缶に口をつける。カシ、とハスがビールを開ける音がした。そうだ。そうだろう。皆、そうなんだ。俺だけが特別じゃない。
「本当に、貴方ってダサいんですね」
「え?」
 何を言われたのか、一瞬理解できなかった。ハスと目が合う。真っ黒な瞳が、ぐるぐると渦を巻いているような、変な色を帯びていた。
「アダムとイヴって知ってます? あの二人って、神様が造った存在なんですよ。でも、可哀想ですよね」
「何の話だよ」
「だって、選択肢がないんですよ。世界に二人きりって、選択肢がないじゃないですか。相手を愛さなきゃ自分の存在価値はないわけですから。アダムとイヴには当初、自我がなかった。その証拠に、知恵の実を食べたことに罰を受けたわけで」
 でも、とハスは続ける。
「これはあくまで神話の話です。まさか、貴方も自分には選択肢がないなんて本気で思ってるわけじゃないですよね? 人間なのに、自我がないなんて嘘ですよね?」
「な、何だよ、急に……」
「あは、確かに急でしたか。でも、仕方なくないですか」
 そう言って、ハスは笑った。大きな口を開けて、歯を見せて。
「いつまで、貴方は他人事なんだ」
 その声が、鼓膜を打った。うるさい、お前は何様なんだ。そう思った。
 世界が終わって、もう数日経った。それなのに、俺は未だ生きている。ハスも生きている。俺は、これからどうしたら良いのだろう。どうか、神様。


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