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【中編】アグナ 前編

 BL的なやつです。




 暇つぶしが人生のメインディッシュになることもある。寿命何百年、いや、場合によっては何千年。不老不死と輪廻転生は似ているようで異なる。ただ、記憶があるかないかの話だ。命が何なのかは、未だに解明されていない謎オブ謎。そして、どうだって良い。どうせ、いつかは誰しもが潰える。継続性に意味などないし、価値もない。つまりは、今この瞬間ハッピーに生きていくということ。それが、この世界の行動理念に間違いはあるまい。
 ――魔界。
 朝、昼、夜。そんな概念はない。当たり前だ。この世界には、太陽も月も存在しない。とある魔族が鐘を鳴らせば、その日がはじまり、鐘を鳴らせばその日が終わる。この世界で生きる物は、誰しもが理解している。自分には何かしらの役割が与えられていることを。役割をこなしてさえいれば良い。そうでなければどうなるかは知らない。なにせ、僕はまだそうなったことがないので。知らないことは語ることすらできない。そうだろう。
 グラウス家次男というのが、僕の役割だった。親父はいつも家のしきたりだの昔の話をしたがるが、その相手になるのは大体が長男だった。僕は、どうでも良い。つまり、隙間の生き物。役割はないけれど、立場だけ与えられて、何をしても変わりもない曖昧な存在。それが僕だった。
 何もしていないのに、美味い飯を食い、知らない奴に媚びを売られ、その果てに行き着いたのが、ただ毎日遊び歩くことだった。
 ピンクとイエローのネオンが目印。『クオターアモン』は今日も二十四時間営業中。旧時代と新時代と未来が混ざり合った調度品はごちゃごちゃに混ざり合って、なんともかぐわしい香りがする。カウンターに座って僕を待っていた神経質な友人は、既に古のウィスキーボトルを一本空にしたところだった。
「やあ、ディオン」
 久しぶりと、名前を呼びながら隣に座る。緑髪に琥珀の瞳の魔族は、ウィスキーボトルの縁を真っ赤な舌で舐めてから僕を見た。
「随分遅かったじゃないか。そう、五百年は待たされた」
「そのネタ、好きだね」
「それぐらいしかないのさ。これも、俺のことを知らない奴には通用しない」
 ディオンは歴史を司る魔族だ。彼の頭の中には、膨大なこの世界の歴史が詰まっている。ただ、その知識は飲みの場のジョークにしか使えない。ディオンは、五百年前の僕の「はじめまして」を一生ネタにしようとしている。それを知っていて、僕は笑って答える。
「僕は君のことを友人だと思っているけど?」
「もちろん。だから、根に持ってしまうわけだ。愛しい友人からの『はじめまして』は、どんな毒よりも胸を苦しませる」
「そういうプレイだと思えば良いじゃない」
 カウンター越しに目が合ったマスターに、視線でワインを注文する。いつものやつ、で通じるぐらいにはお得意様だ。天井に照明のない室内には、お高そうな陶器のランプやブルーのネオン看板だのが所狭しと飾られている。その所為で、いやに明るい。やや間があって、僕の前にワインが置かれる。続いて、ディオンの前にも。どうやら、ディオンも僕と同じワインを注文したらしい。お互いに真新しいグラスの縁をカチンと鳴らして、ワインを舐めた。
「処女の生き血が珍しくなくなって、久しい」
 と、ディオンは唇を舐めながら言う。確かに、と僕は同調した。ほろ苦くて甘いこの味は、おそらく妙齢の女性の血が入っている。ディオンはしみじみと言う。
「どうにも俺には、養殖と天然の違いがわからないんだ。知っているかい、ロゼ。処女の生き血が流行ったとき、わざわざ処女を人間界から買ってきて、死ぬまで飼い殺すのが流行った。それを今じゃ養殖と呼ぶらしいんだがね、どうやら今の人間は、性交渉をせずに一生を終えるのも良くあることだって言うんだから」
「ディオン、今の流行りは聖女の血だよ」
「聖女ほど、堕落している人間はいないと歴史が証明して……おっと、不味い。君のお兄様は、典型的な聖女フェチだったか」
「そうだねぇ。それこそ、お兄様の過去に何かあったんじゃないかと僕なんかは邪推しちゃうけど。君、何か知らないの?」
「あったかもしれないし、なかったかもしれない。つまり興味がない」
「それは間違いない」
 目を合わせて、お互いに声をだして笑った。質の悪いワインは、酔いが回るのが早い。薄い赤紫が残ったグラスをカウンターの向こうへ追いやれば、少しして、代わりのグラスが現れる。サインの要らないブラックカード。支払いは、グラウス家あてに。
「ロゼ。いや、ハウローゼス殿」
「何だい、ディオラウス殿」
 急に芝居がかった口調になったディオンに、僕も芝居がかった口調で答える。ディオンはワインに飽きたのか、ウィスキーに乗り換えていた。ツマミは百年物のチーズと、黒蠍の尾焼きだ。
「君、ペットを飼ってみたくないか?」
「ペット? 種類によるけど」
「ここだけの話だ。あの『クラビ・ドゥバンナ』が人間を仕入れたらしい」
 『クラビ・ドゥバンナ』は貴族向けの有名なペットショップだ。由緒正しい血筋の魔族しか相手にしないだけあって、売り物は一級品だと言われている。僕も、父に連れられて数回訪れたことがあった。それにしても、と僕は五十年程前のことを思いだす。
「ディオン。前にも君、同じこと言っていたよ」
「そうだったか」
「うん。飼って直ぐに死んだって。オーナーに文句言いに行ったものの『飼育が難しいと事前にお伝えしたはずです』って言われて、すごすご帰ってきた」
「そうだったかな?」
「話を聞いてびっくりしたから、よく覚えてる。人間と魔獣を同じ部屋で飼うだなんてね。そんなの、魔力にあてられて直ぐに死ぬに決まってる。オーナーも、君みたいな奴によく売ったもんだ」
「手厳しいね。君ならもっと上手く飼ってみせるって?」
「そういうわけじゃないけどさ。僕は君を心配しているんだよ」
「それは嘘だな。面倒ごとに巻き込まれたくないだけだろう?」
「まぁ、それは正しい。だって、どうせ『一緒に行こう』って言いたいんでしょ?」
「その通り!」
 カラカラと笑ってディオンはウィスキーグラスをカウンターに置く。飲むペースはいつもと同じ。つまり、べらぼうに早い。無意識の内に肩を竦めてしまった。
「僕は、人間に興味はないけど」
「君は、ね。しかし意外だな。グラウス家が人間を飼っていないなんて。貴族の間では、人間飼いがトレンドらしいが、貴族にも階級があるってことかな」
「ディオラウス殿。僕の記憶が確かなら、君も僕と同じようなもんだと思っていたけど。どうやら君は下級悪魔に成り下がってしまったのかな?」
「それを言うのなら、ハウローゼス殿。俺たちは生まれも同じで、育ちも同じだ。そう、与えられた役割もね。つまり」
「由緒正しい家系のボンクラ子息仲間」
「その通り! というわけで、由緒正しい家系の力を借りて、好き勝手やってやろうではないか!」
「また、君のご尊父が怒る気がする。前回も、こってり怒られて向こう十年は監禁されていたような」
「その点、君のご尊父は寛大そうだな」
「興味がないことを寛大と呼ぶなら、そうだろうね」
「さて、それじゃあ」
 と、ディオンは百年物のチーズを口に放り込んで、琥珀の瞳を細めて笑った。
「人間を飼いに行くとしようか。ハウローゼス殿。いや、親愛なるロゼ」
 悪いことをするのなら、鐘が鳴らない間に。これは、僕たちの合言葉だ。この世界では、朝に鐘がなり、夜に鐘がなる。夜から朝の間、それを何と呼ぶのかは、誰も知らない。つまりは、誰も知らない時間。あの鐘が鳴るまでは、僕たちの行方は、誰にも知られない。

◎◎

 ハウローゼス・ツヴァイ・グラウス・アグナは四大貴族に数えられる由緒正しいグラウス家の次男である。親や友人からは「ロゼ」という愛称で呼ばれている。性格は温和で滅多に怒りはしない。甘く柔らかい女性的な顔立ちから、下級悪魔には彼のファンだという者も少なくない。褪せた銀の髪は見る角度によって虹色に輝く。その一方で、赤と紫を混ぜた地獄の底のような瞳は、何を考えているのかわからないところがある。好きなことは楽しいこと。嫌いなことは否定されること。と、本人は言っているが真実はわからない。飄々としており、いつもどんなときでも笑みを絶やさない。地獄に咲いた一輪の花、と呼ぶのは彼のことをよく知らない奴なのだろう。
 ただ、彼は何の興味もないだけなのだ。彼の名前に記された『アグナ』という役割。四大貴族にのみ許されたその役割は、アグナという概念が形骸化した今となっては、ただ彼を蝕むだけのものに違いない。繁栄者としての役割は、この世界において、最早破綻しているのだから。

◎◎

 相変わらず、『クラビ・ドゥバンナ』の装飾はえげつけない。良い意味で。どこぞの貴族の屋敷かというぐらいに華美な装飾品が並び、召使いも一級品とくれば、入口を開けただけで下級悪魔なら逃げ出しそうなものだ、と僕は思う。良い感じに酔っぱらって良い気分のディオンの後に続く僕は、ディオンの肩越しにオーナーの姿を見た。
「おや、ディオラウス様とハウローゼス様ではないですか」
 背中が折れて背丈の低い皺くちゃの顔をしたオーナーは、百年前から同じ顔だ。黒いスーツの上に、赤い毛皮を羽織っている。ディオンと僕の顔を人差し指で一つ二つと数えて「ふむ」と顎を撫でる。
「珍しいですな。お二人が連れ添って来るとは」
「ああ、そうかもな。実は、人間を譲って欲しくて」
 と、ディオンが言うと、オーナーの白濁した瞳が鋭さを増した。
「また同じことの繰り返しですぞ」
 そのセリフに、僕は笑いそうになった。というか、実際に笑った。そして、隣のディオンを小突いて「ほらね」と言ってやる。ディオンはむっとしながらも口を開いた。
「今回は違うさ。ちゃんと人間用の部屋も準備している。親父に聞いてくれたって良い」
「……ハウローゼス様は」
「僕は巻き込まれただけだよ。でも、流行り物には興味があるな」
 そう言うと、オーナーはエヒ、エヒ、とひっかかった声で笑った。そして、僕を指さして言う。
「ええ、わたくしも商人ですから、お売りしますとも。ただ、エヒ、エヒ……」
 ひとしきり笑って、オーナーは「失礼」と言いながらも続けた。
「まさか、貴方様が人間を飼おうと思うのが、驚きましてな。失礼しました。どうぞ、ご案内いたします。ベル、ラル」
 それに答える前に、オーナーに呼ばれた召使い二人が僕たちに頭を下げる。そのまま、僕とディオンは別室へと案内された。僕の前を歩く召使いは、何も話さない。質問をすれば答えてくれるだろうとは思えど、質問する気も起きなかった。
 広い部屋に通されて、ラルという名の召使いから分厚いカタログを渡された。それと同時に、机の上に鐘が置かれる。このカタログが何なのかを聞く前にラルは立ち去ってしまい、僕は黙ってカタログを開くことになった。そのカタログには、人間の写真が何枚も貼ってあった。なるほど、これは人間カタログなのだ。この中から、選べということか。そして、決まったら鐘を鳴らせということなのだろうか。良くわからないまま、カタログを捲る。ページによって、随分と金額が違う。更に、返金制度もあるらしい。その前に殺してしまったらどうもならないが。
 よくよくカタログを読むと、最初の一回目はレンタルになるらしい。もしかしたら、ディオンのような輩が多かったからかもしれない、五年レンタルを経て、買うかどうかを決めるシステムのようだ。勿論、レンタル中に人間が死んでしまえば、賠償金が発生する。五年後に生きていれば、そのまま買うか返品するかが決められる。なるほど、商売上手だ。僕はカタログに目を通して、一番安い人間を選ぶことにした。レンタル中でも返品は可能、という単語が僕を後押ししたのもある。鐘を鳴らすと、直ぐに召使いが現れた。
「このページの人間を」
 それで通じたらしい。召使いは頭を下げて直ぐに踵を返す。さて、ここからどうなるのか。また、ディオンはどうしているのか。それはわからない。ただ、何となく面倒だなと思った。乾いた指先を口に突っ込んで、奥歯をなぞる。そういえば、今日は酒ばかり飲んで、ツマミを食べていないことを思いだした。

 召使いに連れてこられたのは、カタログで見た通りに貧相な少年だった。見目は悪くない。むしろ、写真よりもマシな顔をしていた。ボサボサの黒い髪に、灰色の三白眼。彼は、僕をじっと胡乱だ瞳で見ていた。僕は椅子から立ち上がり、彼の前へと歩み寄る。彼が後ずさるのを召使いが制した。どうやら、良くあることらしい。彼はきょろきょろと辺りを見渡して、僕を見た。目と目が合って、僕はなるべく優しく笑ってやる。
「やあ、元気?」
 と、僕は言った。それだけのことなのに、彼は急に視線を逸らして、更に後ずさろうとする。勿論、召使いが阻む。
「自己紹介を先にしたほうが良いかな。僕は、ハウローゼス。ロゼって呼んで良いよ」
「……」
「この子、喋れないの?」
 それは、彼ではなく召使いへの質問だった。召使いは「いいえ」と首を振った。であれば、彼の気持ちだけだ。彼は顔を真っ赤にして、手を弄っている。僕は彼と目線を合わせるようにしゃがみこんで、彼の手に触れた。
「ヒッ!」
 と、彼が悲鳴を上げる。どうやら、声は出せるようだ。僕は彼の手に触れながら笑ってみせる。
「ねぇ、ロゼって呼んでごらん」
「……」
「これから、五年は一緒にいるんだから。名前がわからないと不便でしょ?」
 そう言うと、彼は困ったように眉根を寄せて、ガラガラの声で「ロ、ゼ」と呟いた。彼の頭を撫でてやると、彼の身体がびくついて震える。その姿に、僕は心臓が掴まれたように興奮した。皮膚の下で、ぐずぐずと腐りきっていた僕の形が明確になる。それを見ないように、僕は続けた。
「ねぇ、君の名前は何て言うの? 教えて欲しいな」
 そう言うと、傍らに立っていた召使いが感情のない声で言う。
「ハウローゼス様、彼には名前がないのです。ハウローゼス様がお付けになってください」
「ええ、僕が?」
「ペットというのは、そういうものです」
 と、何の色もない声で召使いは言う。彼は怯えた表情で僕を見ている。その視線にぞくぞくする。なるほど。ディオンが人間を飼おうとする気持ちを、少しだけ理解できた。本当に、少しだけだけど。僕は、彼の手を握って口を開いた。
「それなら、君の名前はロアンにしよう」
 ロアン。それは、僕にとって一番大切な人の名前だった。何故その名前を渡したのか。どうせ、一年も持つまい。そのときの僕は、そう思っていたからだ。
 そして、ロアンは僕のペットになった。

◎◎

 ロアンを連れて帰ったとき、家族には大変喜ばれた。「お前にもそういう趣向が」だの「貴族としての自覚が」だの何だの言われた。拍子抜けするぐらいに、ロアンは僕の家に受け入れられた。ディオンの話通り、人間をペットにするのが貴族の間では流行っているらしい。「容易ではない」と言われるものなら、誰しも手に入れたくなる。地位も富もある奴なら、尚更のことだ。
 ロアンのために誂えた部屋は、あまり華美な装飾は施さず、なるべく簡素に見えるようにした。その代わりといってはなんだが、調度品や家具は奮発して高級品にしてやった。人間としても魔族としても幼いロアンに、どこまで理解できるかはわからない。身綺麗にさせて、お抱えのブティックに用意させた服を着せれば、それなりに見られる姿になった。人間用の食事レシピも、料理長に渡しておいた。広い部屋で、居心地が悪そうにしているロアンに声をかけようとした瞬間、扉がノックされる。ロアンに「ちょっと待ってて」と声をかけて、扉を開く。
「随分と熱心じゃないか」
 と、そこにいたのは僕の様子を見に来た長男のアレクシスだった。僕はうんざりしながら答える。
「人間よりも、人間を飼うお金のほうがかかるもんだね」
「それはそうだ。父上や母上も、私やお前に対して同じことを思っているだろう」
「特に、僕に対して?」
「腐るな、ロゼ。それよりも、お前の可愛いペットを見せてくれ。私も人間はあまり目にしたことがない」
「僕にも懐いてないけど。それでも良ければどうぞ」
「それでは、遠慮なく」
 その言葉の通り、何の遠慮もせずに悠々とアレクシスはロアンの部屋に入った。椅子に座っていたロアンは思いがけない来訪者に驚いて立ち上がった。アレクシスはそれを手で制して、僕に向けて微笑む。
「何だ。思ったよりも小綺麗な見た目をしているじゃないか」
「馬子にも衣装って言いたいの?」
「やれ、どうしてお前は私にそう厳しいのか。可愛い子だと褒めただけなのだが」
「シス兄からしたら、誰でも可愛い子だろうね」
「これは参ったな」
 僕とアレクシスのやりとりに、ロアンは所在無さげに手を弄っている。アレクシスはロアンへと歩み寄り、口を開いた。
「君の名前は、ロアンだったか。どうだい、魔界での暮らしは」
「……」
「ああ、失礼。名前を名乗っていなかったな。私はアレクシス・ツヴァイ・グラウス。シスと呼んでくれて構わない。ロゼ、いや、ハウローゼスの兄だ」
「ロ、ゼ?」
 ロアンが首を傾げて僕を見る。アレクシスが嬉しそうに笑う。
「そう、ロゼの兄だ。これも何かの縁だ。何かあれば、私に言うと良い」
「シス兄、いきなりそんなことを言ってもロアンは混乱するだけだって」
 困惑するロアンへと歩み寄り、そっと頭を撫でてやる。ロアンはおどおどと僕を見上げた。
「ロゼ、」
 と、それしか言葉を知らない子供のようにロアンは僕の名前を繰り返す。そして、頭を撫でている僕の服の裾を遠慮がちに握った。驚いたのは僕のほうだった。ロアンは目を伏せて、頬を赤くしている。どういうことだろう、と思う前にアレクシスが声をあげて笑った。
「何だ、随分懐いているじゃないか」
「そうかな?」
「ふむ、他人でなければわからないことかもしれないがね。ところで、ロアン」
 と、アレクシスがロアンに声をかける。ロアンは微動だにせず、アレクシスを見ることもなかった。しかし、アレクシスはそれを意にも介さない。まるで、それが当たり前だというように。
「ロゼは、お前の飼い主だ。主従関係を間違えるなよ」
 その声には、ぴしりと冷たい温度があった。まるで、牽制するかのような。僕が口を開く前に、アレクシスは僕に向けて言う。
「わかっているさ。あまり厳しく言うな、ということだろう。でも、ああいう輩には」
 輩、という単語に僕は口を閉じた。良くわからないけれども、アレクシスは自分の敵だと思った相手を輩と呼ぶ癖がある。本人に自覚はないのだろうけれど、僕は知っていた。だから、続く言葉を黙って聞いていた。
「最初に、主従関係を教えておくべきだ。お前は、ペットを飼ったことがないだろう?」
 だから、私がしてやったのだ、と言わんばかりの態度に、腹が立った。でも、僕は何も言えない。ただ、黙り込むだけだ。僕の顔色に何か感じたのか、アレクシスは「それでは、私はこれで」と立ち去った。長い金髪が、背中で揺れている。扉が閉まって、僕はロアンを見た。ロアンは僕を見ていなかった。でも、伏せた目が震えている。アレクシスの言葉に、何かを感じたのだろう。だから、僕は息を吐いた。
「ロアン」
 と、呼びかける。ロアンは僕を見ない。
「ロアン、ねぇ」
 と、今度はロアンの頬に触れてみる。すると、ロアンは僕を見た。黒い髪に、灰色の三白眼。きちんと着込んだ服装のお陰でそれなりに見られる姿になってはいるが、本当の彼がどんな姿なのか、僕にはわからない。
「僕のこと、好き?」
 だから、僕は目の前の自分のことを聞いた。ロアンの僕を見る目が揺れる。揺れて揺れて、それでもそこにあった。
「わかんない」
「そりゃそうだよね。じゃあ、嫌い?」
 ずるい質問をしている。案の定、ロアンは首を振った。
「嫌い、でもない」
 と、幼い声で言う。だから、少しだけ意地悪をすることにした。
「ねぇ、ロアン。君はさ、僕のペットとしてここに来たんだ。それについては、どう思ってる?」
 ロアンからの答えは暫くなかった。そりゃそうだろう。わかっている。ただ、少しだけ困らせたかっただけだ。自分でも何がしたいのかわからない。でも、僕が欠伸をした瞬間、ロアンが小さな声で呟いた。
「俺、全部わかってるよ。だけど、ロゼが俺の飼い主で良かったって、いうのも思ってる」
 小さな声だったけれども、聞こえてしまった。咄嗟にロアンを見ると、ロアンは顔を真っ赤にして僕を見ていた。目が合って、ロアンが逃げ出そうと足を走らせる。その前に、僕がロアンを抱きしめる。わぁ、と叫ぶロアンを抱きしめながら、僕は思った。まるで平和な日常だと。

◎◎

「ロゼ。君とお茶会をするのもいつぶりだろうね」
「本当にね」
 はじまりを知らせる鐘が鳴って、未だおわりを知らせる鐘は鳴っていない。それなのに、僕とディオンは顔を合わせていた。ここは、ディオンの屋敷だ。ディオンはだだっ広い屋敷に一人で暮らしている。「部屋の半分は書斎だ」と、自嘲気味に言っていたのは、何百年前だっただろうか。ディオンは僕より年上だけれど、実際の年齢は聞いたことがない。歴史を司る魔族だということは知っている。ただ、それがどういうことなのかは、さっぱりわからないけれど。
「君のところのペットは、成長が早い」
 と、ディオンは部屋の中央を眺めながら言う。背の高い黒髪の青年と、背の低い金髪の少女がぬいぐるみで遊んでいる。今日のこの会合の主催者は、他ならぬディオンだ。ペット自慢だ。どうやら、ディオンは自分のペットを自慢したくて仕方がないらしい。甘い香りのする紅茶を飲みながら、横目で見る。金色のウェーブがかった長い髪に、くりくりとした栗色の瞳。ピンクと白が交互になったフリルをたっぷりとあしらったドレスを着ている。ロアンよりもだいぶ背が低い。確か、名前はルルリアだっただろうか。
「まるで兄と妹みたい」
 僕の返答に、ディオンは笑いながら言う。
「親の違う兄妹ならわかるがね。ルルと君のペット……ロアン、だったか? それと一緒にしないでもらいたいな」
「まぁ、可愛がってるなら良かったよ。もう死んでると思ってたから」
「まさか! あんなに可愛い子を殺すわけがないだろう。前回は、ここまで上等な人間はいなかった。エスカリフの手落ちさ」
「相変わらず、君って最低」
「褒め言葉をありがとう」
 エスカリフとは、『クラビ・ドゥバンナ』のオーナーの名前だ。すっかり忘れていた。どうやら、名前で呼び合う仲らしい。僕からしたら、どうでも良い話だけれど。
「そういえば、ロアンはあまり喋らないな」
 ふと気づいたようにディオンは言う。それは、僕も気づいていた。ロアンは、人と喋るよりも本を読むほうが好きらしい。身体だけはすくすくと育っているが、あまり自分から喋るタイプではなかった。放っておくと、一日中、本を読んでいる。
「本を読むのが好きみたいだよ」
「あの見た目で? でも、それじゃあ君もペットを飼った楽しみがないだろう」
「僕は別に。君と違って、人間と性交する趣味はないから」
「何も会話の全てが性交に通じるわけじゃあない。いつかは、そうなるかもしれないが」
「そのときは殺さないようにね。君が五年も我慢できるとは思えないから」
 そう言うと、ディオンは声をあげて笑った。「そういえば」と、ロアンを顎で示して続ける。
「俺も、カタログでロアンを見たんだ。そこに書いてあった年齢はルルと同じだったと記憶している。だが、一年経った今はどうだ? ロゼ。君、何かしてないかい?」
「ああ、」そんなこと、と。
 僕は頬杖をついて口を開く。
「僕は五年も待てないからね。だから、ちょっとだけ成長を早めてる」
「なるほど。俺は、ルルの成長を眺めていたいがね。どうせ、何をしなくてもルルは俺よりも先に死ぬ。百年は楽しめる遊びさ」
「君はそうだろうね。でも、僕は」
 その続きを言おうとして、口を閉じた。そして、紅茶を一口飲む。甘くて舌がひりひりする。そんな僕の一連の動作を眺めて、ディオンは「ああ」と続けた。
「そうだったな。君はアグナだった」
 アグナ。その単語に、自然と眉間に皺が寄る。吐き捨てるように僕は言った。
「嫌になるよ。自分がいつ消滅するかもわからないんだから」
「ふむ。俺も、過去の文献でしか詳細は知らないが。アグナは次のアグナが生まれるまでは魂が消滅しないんだろう?」
「それっていつ?」
「逆に考えれば、それ以外はどうしたって魂が消滅しないわけだから。まぁ、この平和な時代じゃあ有難みはないかもしれないが」
「ディオン、ありがとう。僕の気持ちをそのまま代弁してくれて」
「とはいえ、君だってまだ若いだろう。そんなに直ぐに次のアグナが生まれるとは思わないがね」
「どうかな」
 しん、とした空気が部屋に満ちる。
 アグナ。その存在は、過去の魔界大戦まで遡る。大戦の結果、魔王と魔王に忠誠を誓う四大貴族が制定された。しかし、暫くの間。それを良しと思わない下級悪魔による四大貴族に対する襲撃が後を絶たなかった。そこで魔王は、四大貴族それぞれに『アグナ』と呼ばれる魂を授けた。グラウス家、リドル家、メーヴェ家、フェルカリ家。それぞれにアグナの魂は存在する。僕は、グラウス家のアグナだ。アグナは他の魔族と異なり、外的要因によって魂が消滅しない。つまり、自身で消滅を選ぶことができない。ただ、アグナにも消滅する瞬間がある。それが、次のアグナが生まれたときだ。僕はアグナではない両親から生まれた。しかし、僕が生まれて数日後に、元アグナの血族の魂が消滅した。アグナは家系に囚われている。それこそ、グラウス家のどこかの魔族に子供が生まれてそれがアグナとなれば、僕の魂は次の瞬間に消滅する。
 元を辿れば、アグナは四大貴族を存続させるための存在だった。アグナが『繁栄者』と呼ばれているのはそのためだ。アグナは魂が消滅せず、いつかは子孫を残すことができる。それが今はどうだ。魔王と、魔王に従う四大貴族というのは魔界の常識になっている。それでも、アグナという役割はなくならない。
 だから僕は、常に次の瞬間に自分の魂が消えるかもしれないという思いを抱えながら、この魔界で生きている。
「ロゼ」
 と、ディオンではない声がした。見ると、ロアンが本を手に戸惑っていた。
「彼女が、つまらないって」
 ロアンの手には、彼が好んで読む本があった。しかし、確かに年端もいかない少女に読む本ではないだろう。目敏く、ロアンの手にある本を見つけたディオンが喜色をあげる。
「おや、それは俺の本じゃないか」
「ディオン、君が僕の部屋に置いていった本だよ。丁度良いから返そうと思って」
「なるほど。確かに、君のペットは読書が好きらしい。見どころがある」
「僕にはさっぱり面白さがわからなかったけどね」
「ロゼ、そう拗ねるな。あと、ロアン。ルルは絵本が好きなんだ。俺の本は未だあの子には理解できない。それにしても、俺の本の良さが理解できるとは……」
 急に機嫌が良くなったディオンは、下手をしたらロアンの頭を撫でそうな勢いだ。ロアンは不思議そうな顔で僕とディオンを見る。僕は紅茶の残りを飲み干して椅子から立ち上がった。
「ロアン、そろそろ帰ろう」
「おっと、俺とロアンが仲良くするのが気に食わないのかい? 安心してくれよ、俺はルル一筋だから」
「それなら、彼女にたっぷり絵本を読んであげたら? ほら、行くよ」
 促すと、ロアンは僕についてくる。気づけば、ロアンの背丈は僕と同じぐらいになっていた。人間でいうと何歳ぐらいなのだろう。出会った頃が十歳だったから、十五歳ぐらいにはなっているかもしれない。何が可笑しいのか、笑い続けるディオンを無視して、僕とロアンはディオンの屋敷を出た。
「ロゼ」
 と、ロアンが僕を呼ぶ。目が合って、ロアンは不安そうに言った。
「俺、変なことした?」
「いや? そういうんじゃないけど」
 僕とディオンの関係をどう説明するか悩んでいると、ふと右手を掴まれた。ロアンが僕の手を握っている。ロアンは、吐き出すように言った。
「ロゼに、俺一筋になってもらえるようになりたい」と。
 反応に困ったのが、正直なところだ。僕は一瞬息を飲んで、そして無理矢理笑顔を作った。
「大丈夫だよ、ロアン。君はもう、とっくに」
 続けようとして、続けられずに口を閉じる。もしかしたら、次の瞬間に僕の魂は消滅してしまうかもしれない。それなら、どうしたら良い。その不安を振り払って、僕は半ば衝動的にロアンを抱きしめた。
「ロアン、僕の温度を覚えていて」
 そう言うと、ロアンの手から本が落ちる。握られた手に、僕からも力をこめる。ぎゅうと握りしめた手から、淡い温度を感じて僕は笑ってしまいそうになった。
「このときだけを、覚えていてね」
 それきり、お互い何も言わず、おわりの鐘が鳴るまで、僕たちは抱きしめ合っていた。
 魔界に売られてペットとなっていつ殺されるかわからない人間のロアンと、旧時代の役割に囚われていつ来るかわからない消滅に怯える僕と、何が違うのだろう?

◎◎

 今日は、百年に一度あるアグナの会合だ。百年、二百年、三百年。そういえば、僕はどれぐらい生きているのだろう。もう、すっかり忘れてしまった。時間に何の価値もないのだ。指定された華美な服に着替えて、決まった時間に魔王の元を訪れる。それぞれのアグナは、同じ時間に魔王の屋敷の食卓に足を踏み入れる。ああ、未だお前も生きていたのか。そういう視線を交わして、決められた席に座った。数秒して、魔王が姿を現す。魔王はいつも姿が違う。今日は、少年の姿だった。黒い髪に真っ白な肌の少年は、それでも威厳に満ち溢れていた。僕の隣の席は、リドル家のアグナだった。僕たちの向かい側に、メーヴェ家、フェルカリ家のアグナが並んでいる。魔王は、食卓の一番狭い辺の椅子に座った。僕たちアグナを見渡せる席だ。そして、満足気にほほ笑んだ。
「やあ、久しぶりだね。皆、壮健で何よりだ」と、その言葉に直ぐに反応したのはメーヴェ家のアグナだった。
「ええ、魔王様のお陰でございます」
 舌打ちをする前に、僕の目の前に前菜が並べられる。この魔界でも滅多に口はできないご馳走だ。メーヴェ家のアグナは、白銀の垂れ目に長い白銀の髪を左肩に垂らしている。今日は肩をだした長い裾のドレスを着ている。名前は確か、ルルビアだったか。ルル、とディオンのペットが浮かんで笑いそうになった。
「そうですね。この平和があるのも、魔王様のお陰ですもの」
 と、僕の隣の席のリドル家のアグナが続ける。名前はユキ。二の腕と足を露出したミニのワンピースを着ている。まんまるの瞳で、下級悪魔を虜にしていると聞いている。ユキは僕が一番苦手なアグナだ。前菜にフォークを突き刺すと同時に、フェルカリ家のアグナであるラヴィアンヌが口を開いた。
「そんな当たり前のことを今更口にだすのも憚れますが、私は魔王様が今日の会合を喜んでいただけるのであれば、最上の喜びでございます」
 ラヴィアンヌの言葉に、魔王は笑って答える。
「そういうのは良い。僕は、君たちアグナが大好きなんだ。元気そうなら良かった。それで良い話なのさ」
「恐縮です」
「流石は魔王様ですわ」
「その通りですとも」
 と、続く言葉を聞きながら、僕は前菜を頬張った。なるほど、やはり美味い。黙々と食事をとる僕を見て、魔王は口を開いた。
「ところで、ロゼ。人間のペットを飼ったらしいね」と。
 僕が答えるよりも先に、ユキが口元に手を添えて言う。
「まぁ、人間なんて汚らわしい。まさか、」
 次の言葉を、ルルビアが続けた。
「アグナの血を人間で汚そうとしている、とか?」
 そうして、ユキとルルビアは笑い合う。魔王は微笑んだままで、ラヴィアンヌは冷たい視線で二人を眺めていた。僕は、口の中にあった生暖かい前菜を飲み込んで言う。
「ふぅん、君たちはペットと性交する趣味があったんだね。それは興味深い」
 と、ディオンの皮肉の真似をしてみた。すると、ユキは即座に顔色を変える。
「まさか! 私はそんなことは……!」
「まぁまぁ、喧嘩はしないでおくれよ。僕は、君たちが仲良くしてれると嬉しい」
 その魔王の言葉で、ユキは口を噤んだ。そして、魔王は僕に続けて問いかける。
「どうだい、人間のペットは」
「……特に、何も」
 これは本心だ。ロアンはどんどんと成長していく。気づけば、僕よりも背が高くなっていた。でも、それが何だ。ロアンがいつ死のうが、人間の寿命が何だろうが僕には関係がない。どうせ、あと数年後には手放す生物なのだから。そこで、ふと気がついた。ロアンと暮らし始めて、四年が経つ。あと一年後、僕はロアンと別れるつもりなのだ。
「ロゼ、君は好きに生きたら良い」
 と、魔王は言った。全員の視線が僕に注がれる。
「僕はね、君には少しだけ期待をしてるんだ。勿論、僕はこの魔界に生きる全ての種族を愛しているけれど。期待をしているのは、今のところ君ぐらいかな」
「どういうことですか、魔王様」
 ラヴィアンヌが真顔で言う。それに、魔王は涼しい顔をして答えた。
「そうだなぁ。ロゼは、アグナという役割の意味を未だ理解してないから、かな」
 その言葉の意味を、そのときの僕は理解できなかった。それでも、魔王は続ける。
「だからこそ、僕は君に期待をしている」
 ご馳走は美味しかった。久々に、美味い物を食べた気がする。他のアグナの視線を無視して、僕は会合を後にする。自分の屋敷に戻る車の中、ふと思ったのはロアンのことだった。
 僕とロアンは同じじゃない。あと一年後、僕はロアンを手放す。そのつもりだった。それなのに、とぼんやりと虚ろに浮かぶのは、ロアンが不安そうに僕に手を伸ばす姿だった。その手を握れば、嬉しそうに笑う。笑うと、とびきり可愛いと思う。どうして、僕はそう思うのだろう。
 そして気づいた。ロアンは人間だ。僕のペットだ。だから、僕はロアンの前ではアグナでいる必要がない。僕はただのロアンの飼い主だから。僕だけを見て、僕だけを求めて、僕だけを必要とするロアンの姿が、僕にとっては、何にも代え難いものなのだと。そう思ったけれど、僕は変えられない。
 だって、僕は。
 アグナだから?

◎◎

 ロゼがアグナの会合とやらに行った日、ロアンは静かに自室で本を読んでいた。本を読むのは好きだ。何故なら、ロゼが言葉を教えてくれるから。ロゼが感想を聞いてくれるから。ロゼが、自分を見てくれるから。本を読むという行動だけが、ロアンができる唯一の自己表現だった。静かな室内で、ふと過去のことに思いを馳せる。
 六年程前、ロアンは人間界から魔界に連れてこられた。売り飛ばされたと言っても良い。でも、その前のことを考えれば、元からロアンは地獄で生きていた。生まれてからの記憶は、あまりない。ただ、生きていた。降り注ぐ雨と陽の光に晒されて、床に落ちた何かを口に詰め込んで。一時間が何かすら知らなかった。朝と夜の概念すらも知らなかった。理性を知らず、きっと本能だけで生きていたのだろうとロアンは思う。そんなロアンはとある男に拾われて、暗い部屋で過ごすようになった。多分、これが五歳か六歳ぐらいの頃だ。何をしたかまでは覚えていない。ただ、男に言われるがままに、色々なことをした。はじめは殴られてばかりだった。何かを運んだ。何かを食べた。何かを振り回した。何かを舐めて、何かを捨てて。最終的に、ロアンは死体を処理する役目についた。朝から晩まで、誰とも話さず死体を処理する。眠るときは、死体の傍で。それが人間としての生き方だと学んだ。痛みを感じないように立ち回ること。それが生きるということなのだ。
 唯一、ハッキリと覚えていることがある。ロアンを拾った男が、ロアンを売り払った日だ。男は、黒い服を着た老人と話していた。馬鹿なロアンでも、自分がこの老人に売られるのだろうということは理解できた。どこでも良い。どこに行ったって、やることは変わらない。誰かの言うことを聞いて、生きていくしかないのだ。
「本当に、良いのですかな」
 と、老人の声がした。不思議な声色だった。これまで聞いたことがない、静かで落ち着いた声だ。男は笑いながら言う。
「ああ、構わねぇ。元からコイツには何もねぇ。悲しむ奴もいなけりゃ、大騒ぎする奴もいねぇさ。下手打って海に投げられたことにすりゃあ良い」
「なるほど、なるほど。彼のことを知るのは、彼だけという」
「ああ、コイツはどうにも話にならねぇ奴でな。何の欲望もねぇから、ロクに仕事もできねぇ。唯一、出来るのは死体の処理ぐらいだ。一日中、誰とも喋らずに死体の相手をできるイカれた奴だよ」
「死体は喋りますまい。確かに、良い商品ではありますな。エヒ、エヒ」
「だろう? それで、コイツを幾らで――」
 男が喋り終える前に、何かが飛んだ。宙を舞ったそれが、地面に落ちて鈍い音をたてる。ころころと転がり、ロアンの足元で止まった。それは、男の頭だった。首の断面図が見えている。どろりと流れる血と相反に、胴体の首からは血が噴水のように噴き出ていた。
「さて、これで本当に彼のことを知る人はいなくなった」
 さも当然のように老人は言う。ロアンは、その光景をぼんやりと眺めていた。目の前には死体がある。処理しなければ。足を踏み出すと同時に、老人はロアンを見た。目が合って、優しく微笑まれる。
「籠の中の鳥というには、みすぼらしい。しかし、それが良いという顧客も確かに存在しているのです。ならば、商人は顧客の望みを叶える責務があろうというもの」
 ベル、と老人が口にすると、どこにいたのか黒髪の女性がロアンへと歩み寄った。そして、ロアンの肩を抱く。女性からは、やはり不思議な甘い香りがした。黙りこくってされるがままのロアンを眺めながら、老人は愉快そうに言った。
「心配せずとも、今から行く場所に、貴方は直に慣れるでしょう。むしろ、貴方にとっては天国のような場所になるやも……」
 死体になった男の見開いた目が、最後までロアンを見つめていた。まるで、これからのロアンを咎めるかのようだった。そのことを、ロアンは今でもずっと覚えている。

「…………」
 天国、と。あのときの老人――エスカリフは言った。昔、「地獄に落ちろ」という言葉を聞いたことがある。地獄は魔界のことだとロアンは思っていた。でも、本当は人間の世界が地獄で、魔界は天国なのじゃないかと思いはじめている。
「ロゼ、いつ帰ってくるんだろう」
 自分が傍にいたからといって、何が変わるわけでもない。そのことを知りながらも、ロアンはこの場にいないロゼのことを考える。どうして、ロゼは自分のことを大切にしてくれるのだろう、と。それは、自分がペットだからだ。ロゼは飼い主として、自分を大切にしてくれる。それぐらいは稚拙なロアンでも理解できた。
 でも、時折。少し昔、まだロアンの体躯がロゼの背丈を抜かす前の頃、添い寝をしてくれた頃を思い出す。ロゼはロアンを見ていた。ロアンもロゼを見ていた。そして、ロゼの瞳が柔らかく緩んだことを、ロアンだけは知っている。そっと頬を撫でられて、全身に電流が走った。その先の慈しむようなその瞳に、ロアンはずっとロゼに恋をしている。
「ロゼ、」と、ここにいない人の名前を呼ぶ。それと同時に、直ぐ傍で声がした。
「飼い主に思いを馳せるとは、正にペットだな」と。
 その声に振り向くと、ロゼの兄のアレクシスが立っていた。真っ青な服装の部位を何と呼ぶのかロアンは知らない。でも、ただ立派な姿をしていることだけはわかっていた。ロアンは椅子から立ちあがり、アレクシスに頭を下げた。アレクシスは、ロゼの兄だ。すると、乾いた笑い声がする。
「躾が行き届いているようで何より。まぁ、何、気にするな。ロゼは未だ帰って来ないだろう」
 そう言いながら、アレクシスはロアンが座っていた真向いの椅子に座った。おろおろとするとロアンに、視線で座るように促す。ロアンは素直に従った。アレクシスはロアンを一瞥して腕を組んだ。
「もう五年、いや、未だ五年か。安心して欲しい、ロアン。私は君のことを好意的に捉えている」
「……?」
 言葉の意味がわからず、首を傾げる。アレクシスは言葉を続けた。
「君のお陰で、ロゼにもアグナの意識が戻ったというのか。君と遊んでばかりいるようで、実はそうじゃあない。今日だって、本当なら行きたくもないアグナの会合に行っている。それは、君というペットに現を抜かしているなどと言われたくないからだ」
「……そう、なんですか」
「ロゼはね、可哀想な奴なんだ」
 と、アレクシスは言った。机に肘をついて、どこか遠くを見つめる。
「ロゼがいなければ、このグラウス家は四大貴族ではいられない。だが、ロゼは自分の意義が見いだせていない。だから、ずっと苦しんでいる。ロアン、君はロゼのペットだろうが、どこまでロゼのことを知っている?」
「知って、る?」
「アグナという存在のことだ」
 アグナ、という存在をロアンは知っている。ディオンが書いただろう歴史書に書いてあったからだ。アグナはこの世界を存続させるためにいる生物で、それで、それで。ただ、それだけの存在。でも、それがいなければ、この世界は崩壊してしまう。ロアンも、ロゼがアグナだということは知っている。だから、歴史書を読み漁ったのだ。だけど、ロゼは歴史書に書いてあるアグナとはどれとも違った。ロゼは、何故か他者を嫌うような節がある。
「その様子だと、知っているようだな」と、アレクシスはため息交じりに言った。
「ロアン、わかるか? お前がロゼの寵愛を受けているのは、お前が魔族ではない人間だからだ」
「え?」それは、全く考えていなかった。ロアンの思考を無視して、アレクシスは続ける。
「ロゼは、自分が消滅することを恐れている。だから、ロゼは魔族を嫌っている。同族である筈の魔族を。アグナはいつ消滅するのかわからない。明日か、明後日か。それならば、自分は子孫を残さないと、昔私に言ってのけたのだよ。あの子は。だからロゼにとって、お前だけが何も考えずに接することができる……ペットなのだろう」と。
 アレクシスは言った。ロアンは、瞬きするしかできなかった。確かに、ロゼは自分に優しい。他の人よりも大切にしてくれているだろうと思う。でも、そんな理由だとは思わなかった。ロアンが口を開く前より先にアレクシスが口を開く。
「ロアン、前にも言ったな。ペットの分を弁えろと」
「……それ、は」
「本来であれば、私たちがお前の場所にいるべきだった。でも、私は」
 そう言って、アレクシスは目を伏せた。そして、直ぐに顔を上げる。
「ロゼは一つ勘違いをしている。アグナは、この世に存在すべき役割なのだ。そして、ロゼがいるだけで、我がグラウス家は四大貴族として生きていられる。ロゼがいる限り、グラウス家は繁栄し続けるだろう。ロゼはそのことを理解していないのだ。だから、」
 それは正論だと、ロアンも思った。ロゼは、自分と違ってよっぽど凄い人だ。誰かに指示されなければ生きていけなかった自分とは違う。でも、と。とアレクシスが言う前に、ロアンは口を開いていた。自分でもわからなかった。ただ、ロアンの脳裏には、ロゼがふと見せる悲しそうな瞳が浮かんでいた。
「ロゼは、全部わかってる」
 そう言った。言ってしまった。ロアンは、言った後で自分がロゼの何を理解しているんだろうと思った。でも、言葉は消せない。だから、思うがままに続けた。
「きっと、ロゼは全部知ってる。知ってる。知ってるんだ。だから、だから、俺のことを」
 そう言って、口を噤む。瞬間、脳裏ではじけた思いがあった。
 ロゼ、俺は君のことを愛している。たかがペットで、たかが人間で、そうだとしても、俺はロゼのこをとを愛している。自分はどうしてしまったのだろう。過去のことなんて覚えていない。思いだしたくない。いや、過去なんかじゃない。今この瞬間に胸に湧き上がるこの曖昧な気持ちを表現することなんて出来ない。ただ、傍にいたい。傍にいて、ずっと笑っていて欲しい。あの、慈しむような瞳を眺めて、今度は俺が――。
 そんな夢物語を終わらせるように、アレクシスの声が部屋に響いた。
「本当に、躾が行き届いている。ペットは飼い主を愛するしか能がない。そういう存在だと、私は聞いているのでね。つまり」
 君もそうだろう、と暗に言われれたような気がした。
「何一つとして、私には理解できない。何故なら、君が人間だからだ。そして、私は君の飼い主ではないからだ。ロアン、知っているだろうけれど」
 そう言って、アレクシスは椅子から立ち上がった。青い服のが背を向けて、小さな声が聞こえた。
「ペットの分際で、ロゼを語るな」と。

◎◎

 ロアンを人間のペットとして飼ってから、明日で五年になる。つまり、レンタル期間が終わるということだ。ロアンは相変わらずあまり喋らないけれど、ぽつぽつと僕とは話すようになっていた。一緒に外に出れば「アグナとその人間のペット」という扱いをされるようになっていた。
 ロアンの部屋を訪れると、ロアンは本を読んでいた。いつもそうだ。ロアンは本が好きらしい。その癖、喋るのが苦手だ。でも、僕が部屋に入ったことには気づいたらしい。顔を上げて、本を横に避けた。
「ロゼ、どうしたの?」
 と、ロアンは僕に問う。僕は、一瞬言葉に困った。でも、言葉に困る必要もないと思い直す。
「ねえ、ロアン」
 名前を呼ぶと、ロアンは一度頷いた。
「明日で、五年になるね」
「俺と、ロゼが出会って?」
「うん、そう」
 それきり、僕は言葉がだせなかった。沈黙が部屋に落ちる。ロアンは不安そうな顔で僕を見ている。ああ、まるで五年前と同じようだな、と思った。そう思ったら、もう止まらなかった。未だ、おわりの鐘は鳴っていない。
「明日で、レンタル期間が終わるんだ」
「レンタル期間?」
「そう、僕はね、君をずっと飼う気なんてなくて。五年のレンタル期間が終わったら、返却しようと思ってるんだ」
 過去形にしなかったのは、せめてもの意地だ。ロアンは僕を見上げる。ベッドに座っているロアンの前に立っている僕。ロアンの手の横には、昔見た本が置いてあった。ロアンが好きな本だ。それすら考えたくなくて、僕は続けた。
「だから、今日で終わりだよ」
「……」
「僕は、君を飼い続ける気なんてない。だから、明日には君を返却しに行く」『クラビ・ゥバンナ』まで。そう言っても、ロアンは僕から視線を外さない。暫くの間があって、ロアンの声がした。
「わかってたよ、俺」と。
 咄嗟にロアンを見る。ロアンと目が合って、僕は言葉を失った。
「ペットになるってなったとき、そういうのは全部言われてたんだ。だから、覚悟はしてたし、もしかしたら明日殺されるかもしれない、ってずっと考えてた」
 僕は何も言えなかった。ロアンは全て知っていた。そのことを、僕は知らなかった。「でも」と、ロアンは続ける。
「俺は、ロゼのことが好き」
「は」と、しか言えない自分に嫌気がさした。それはそうだ。ロアンからしたら、僕は飼い主に過ぎない。飼い主を好きになって何が悪い。でも、その言葉に、眩暈がしたのは確かだった。
「俺、ロゼになら殺されても良い」
 ぐらぐらと脳が揺さぶられる。ダメだ、と何かが警鐘を鳴らしている。僕は、いつまでここにいるかもわからない。それにもし、魔族と性交したら子孫が生まれてしまう。その結果、僕の魂は消えてしまう。だから、怖かった。愛されること、愛することが怖かった。何も見ないフリをするのが一番気楽だった。気の置けない友人と処女の血を飲んで喚いて、それで、それで。
 だけど、僕は出会った。たかがペットだ。そう、何の意味もない。五年で終わるペット。それが、僕をどれだけ――。
「ロゼ、俺のことを見て」
 ハッとすると、ロアンは立ち上がって僕の目の前にいた。そして、僕の手に触れる。暖かい。人間の温度だ。僕の手は冷え切って、もう死んでしまったかのように思う。いや、死んでいるのだ。ロアンからしたら、僕は死んでいる。命が何だ、愛が何だ、何が何だ。何一つもわからないまま、僕はただロアンの手に触れている。目が合って、ロアンはまっすぐな瞳で口を開いた。
「俺一筋になって」
 と、ロアンは言った。ああ、前に聞いたことのある台詞だ。でも、その頃よりもよっぽどロアンは大きくなってしまった。それは、僕のエゴだ。本当なら、ロアンはもっと小さい筈だった。僕が、ロアンの成長を早めてしまった。僕は、触れられた手を握り返す。すると、ロアンは目を丸くした。
「ねぇ、この……」
 そこまで言って、僕は何も言えなくなる。僕のこの瞬間を覚えていてね、とは言えなかった。思わず俯いた顔を上げる。ロアンと目が合う。黒いざらざらの髪に濁った瞳。でも、顔立ちは悪くない。むしろ、時が経つに連れて、どんどん良い顔になっている。
「かっこよくなったね、ロアン」
 そう言うと、ロアンはくしゃりと顔を歪めた。変な笑顔だった。相変わらず、表情を作るのは下手らしい。それすら愛らしいと思うのは、僕のペットだからなのか、それとも。
「ロアン」と、名前を呼ぶのが精いっぱいだった。僕はロアンの手を離して、ロアンを抱きしめる。そして、ロアンの肩に顔を埋めた。暖かい。ぞっとするぐらいの温度だ。
「明日、君を殺してあげる」
 そう言うと、ロアンが首筋で笑ったのを感じた。
「ロゼ、愛してる」
 その言葉に、僕は騙された。それで良い。顔を上げて、視線が合うがとロアンは心底嬉しそうな笑顔を浮かべていた。そのままに、僕とロアンははじめてのキスをした。その瞬間に、おわりの鐘が遠くで聞こえた。楽しむのなら、鐘の間に。その後のことは、僕とロアンだけが知っていれば良いのだ。


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