11/19刊行『意識と時間と脳の波』試し読み
神経科学者でもあり、哲学者でもあり、精神科医でもあるという著者が、なぜ意識には主観的な経験が伴うのかという長年の問題に、新たなアプローチを提案する『意識と時間と脳の波』から「はじめに」の冒頭部分を公開します。
はじめに 心のサーフィンと脳
時間とは何だろうか? 私たちは、閉店間近のスーパーに駆け込まなければならなくなると、「時間がない」とこぼす。あるいは退屈なミーティングに耐えてじっと座っているときには、時間は伸びて、際限がないように感じる。また日常生活には昼の時間と夜の時間があり、二十四時間のリズムがある。一〇〇年、あるいは一〇〇〇年の単位でものごとを考える歴史家は、はるか遠くを見つめている。生物学者、とりわけ進化生物学者は、一〇〇万年単位ではないとしても、数千年の単位でものごとを語る。時間は至るところに存在し、私たちの世界や心や行動を形作っている。だがそれ自体としてとらえた場合、時間とはいったい何だろうか? これこそまさに、何世代にもわたる学者たち、とりわけ古代や現代の哲学者、あるいは物理学者が問うてきた、もっとも根本的な問いの一つなのだ。
古代ギリシアの時間——クロノスとカイロス
古代ギリシア人は、時間の神をクロノスとカイロスに区別していた。クロノスの時間は、過去、現在、未来からなる連続体によって特徴づけられる、年代順の、つまり経時的な時間を表わす。それに対してカイロスの時間は、行動の機が熟した瞬間を示す、特定の時点に言及する。経時的に変化するクロノスの時間とは異なり、カイロスの時間は変化を受けつけず、より恒久的である。
古代の神話では、クロノスとカイロスは兄弟であるか、もしくは父と息子である。この設定は、二つの時間感覚の関係をめぐって次のような問いを投げかける。クロノスによって示される、過去-現在-未来という時間の連続体は、カイロスによって示される固有の瞬間にいかに関係づけられるのか? 古代の著名な人物の一人に医師のヒポクラテスがいるが、彼は「あらゆるカイロスはクロノスであるが、すべてのクロノスがカイロスであるわけではない」と述べている。つまり行動の機が熟した瞬間、すなわちカイロスの時間は、時間の連続体の特定の現れにすぎないということだ——一瞬は、時間の連続体上の一時点にすぎない。しかしその逆は真ではなく、時間の連続体としてのクロノスは、カイロスには依存しない。
古代ギリシアにおけるクロノスとカイロスの区別は、とりわけ西洋世界において近現代的な時間観を形作ってきた。そこでは、瞬間は延長されないが、時間の連続体は延長される——延長されないものは延長されるものとは対極をなす——と考えられている。かくして連続体と瞬間は、時間の相反する二つの特徴と見なされているのである。これは、たとえば物理学における時間の見方に如実に見て取ることができる。
古典物理学における時間——コンテナ的時間観
(ニュートン、ケプラー、ガリレオらの)古典物理学は、できごとや脳のような物体が含まれ、特定の箇所に配置される「|容器≪コンテナ≫」あるいは「|劇場≪シアター≫」として時間をとらえる(「できごとは時間の内部で起こる」「脳は時間の内部に存在する」)。哲学者のバリー・デイントンは、このような見方を「コンテナ的時間観」と呼ぶ(Dainton 2010, 2–3)。それによれば、時間は、個別のできごとや脳などの物体が生じる「機が熟した瞬間」を連続体に供与するコンテナなのである。
ここでゴミ箱とゴミを思い浮かべてみよう。ゴミ箱とゴミは互いに独立しており、まったく別のものである。ゴミ箱はゴミ以外のものを入れることができるし、ゴミはゴミ箱の外にも散らかっている。さて、クロノスによって体現される時間の連続体をゴミ箱に、カイロスによって体現される機が熟した瞬間をゴミにたとえてみよう。するとゴミ箱とゴミは別々に存在することができることからして、古代の二つの時間形態(ならびに対応する神々)も、互いに独立し個別的なものであることがわかる。それゆえ私は、そのような見方をコンテナ的時間観として特徴づけたい。
現代物理学における時間——構築的時間観
現代物理学は、古典物理学の時間の見方を継承していない。リー・スモーリンのような現代の物理学者は、時間の連続体と瞬間を厳密に区別したりはしない(Smolin 2015; Weinert 2013;Rovelli 2018)。現代物理学においては、時間はさまざまな物体やできごとのあいだの、時空間的な関係の連続的な構築物から構成される。したがって時間は本質的に力動的であり、内容物(瞬間)を包含するコンテナ(時間の連続体)のような静的なものではなく、時間の経過につれ連続的に変化するものとされているのだ。
時間が時空間的な関係の連続的な構築物である点を強調するこの見方は、「構築的時間観」を生む。ライプニッツ、ベルクソン、フッサール、ハイデッガー、ホワイトヘッドら西洋の古今の哲学者たちが支持したこの見方は、「関係説」と呼ばれている。この関係説は、クロノスがカイロスの父、あるいは兄とされているのと多かれ少なかれ同様なあり方で、時間の連続体を機が熟した瞬間へと結びつける。
では関係説とは、いったい何だろうか? 関係説は、さまざまな時間のスケールから構成されできることからして、古代の二つの時間形態(ならびに対応する神々)も、互いに独立し個別的なものであることがわかる。それゆえ私は、そのような見方をコンテナ的時間観として特徴づける連続的な構築物として時間を理解する。それには変化する短い瞬間と長い連続的な期間の両方が含まれ、すべての時間のスケールを横断して同一性が保たれる。短い時間のスケールと長い時間のスケールは互いに統合され関係し合う——そしてそれによって変化と連続性が同時に生じる。時間は所与のものではなく構築されるものと考えるこの見方は、構築的時間観と呼べる。
古代中国の教訓——脳の力動から心の力動へ
構築的時間観は、西洋では無視、あるいは誤解されることが多いが、東洋でははるかに広く流布している。荘子のような道教を奉じる古代中国の哲学者は、現代物理学を予見したかのように、時間の力動性や、連続体と瞬間の関係について明確に述べている。そしてそこでは、クロノスとカイロスは二つの異なる時間の神ではなく、同一の波、すなわち絶えざる力動性によって特徴づけられる時間の波として描かれている。
時間の力動性は、海洋の波のようなものとして思い浮かべる必要がある。海洋の波が完全に静まることはなく、海面ではつねに何かが起こっている。大きなうねりをなして押し寄せてくる強大で遅い波もあれば——これはクロノスによって表わされる時間の連続体に相当する——、あまり強力ではない幅の小さな速い波もある——こちらはカイロスによって表わされる瞬間に相当する。
遅い波も速い波も、海洋がたたえる水の力動という同一の基盤から生じる。ここで時間から脳へと話題を一歩進めると、海洋の水の力動が波として顕現するのなら、脳の内的な力動は心として顕現する。心的機能それ自体、世界の外的時間に関わる脳内時間の構築に依拠しており、力動的に構築される。このように脳内時間は、独自の力動性によって心を生み出すのであり、かくして心は本質的に時間的で力動的なものなのだ。まさにそれが、本書の主題である。
心的機能——「世界-脳」関係
時間に関する議論が、なぜそれほど重要なのか? 以上の議論はすべて、理論的、哲学的なものだ。日常生活を送るにあたって、時間に関するその種の議論に耳を傾けるべき理由がいったいどこにあるのか? 本書はその理由を説明する。時間は、私たちの心や心的生活の基盤をなす。時間がなければ、自己の感覚はおろか意識さえ失われるだろう。最新の科学的知見について十分に知れば、自己や意識のような心的機能は、脳に依拠していることがわかるはずだ。時間や心に関する古来の謎のいくつかを解明し、今や世の注目を集めている神経科学は、心が脳であること、また過去の哲学者たちのように心を想定する必要などもはやないことを教えてくれる。
心を説明するためには、脳に言及しさえすれば十分である。しかし、脳と心のあいだにはギャップがある。脳とその神経活動は、いかにして脳それ自体とは異なって見える、心のような現象を生み出せるのか? 私たちは、いかなる神経活動も意識的に経験していない。また、自己を神経活動としてではなく心的なものとして感じている。つまり自己を脳として経験することなどない。心的機能が脳に依拠していると言うのなら、いかにして脳の神経活動が心の活動に変換されるのかを示す必要があろう。だが、私が「神経-心」変換と呼ぶこのプロセスは、今のところ謎のまま残されている。
ここでこの状況を水にたとえてみよう。カナダの冬は厳しい。冬になると気温がおよそ摂氏マイナス四〇度まで下がり、水は凍結する。春にはそれが融け、暑い夏には蒸発する。なぜ同一の化学物質が、かくも多様な状態を取れるのか? そこでは文脈的な要因、すなわち環境要因をなす気温が鍵になる。同様なことは、脳にも当てはまる。脳がその文脈、つまり身体や世界とうまく結びついているのなら、脳の神経の状態は心の状態へと変換される。私たちは、脳を単独で存在するものとして考えるのではなく、世界との関係、すなわち「世界-脳」関係を考慮に入れる必要がある(Northoff 2016, 2018)。季節ごとに変化する天候がカナダにおける水の状態を決定する文脈を提供するのと同様、世界は、脳が心的機能を生む際の文脈をなしているのだ。