【試し読み】『カルトのことば』――人はなぜカルトに引きつけられるのか?
10月18日発売の『カルトのことば:なぜ人は魅了され、狂信してしまうのか』の試し読みをお届けします。
著者はニューヨーク大学で言語学の学位を取得した作家、アマンダ・モンテル。
「なぜ人はカルト的な集団に引きつけられ、そこに居続けてしまうのか?」という疑問を抱いた著者は、調査を続けるなかで、人を虜にする究極のツールは「言語」なのだと気づきます。
そして彼らの言葉遣いやレトリックがどのような働きをし、どのようなカラクリで人々を支配していくのかを明らかにしていくのです。
カルト的集団と言葉の問題に正面から取り組んだ意欲作。「カルト」の定義について考察する、第1部の抜粋をお楽しみください。
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何年か前、私が大学で言語学に専念するために、負けず嫌いばかりが集まった(そして、とてもカルト的な)演劇プログラムの履修をやめることにしたと話したとき、母親は少しも驚かなかった。いつも私のことを、まったくカルト的ではない」と思っていたからだという。私はそれを褒め言葉と受け取った。その反対とは見られたくなかったせいだが、それと同時に、全面的な賛辞とも思えなかった。カルトには暗い要素と並んである種の魅力もあるからだ――型にはまらず、神秘的で、共同体の親密さを感じさせる面をもっている。さて、この言葉についてまた一から考え直してみる必要がありそうだ。
「カルト」は、つねに悪い意味を帯びてきたわけではない。この語がはじめて登場したのは17世紀の書物で、そのころの「カルト」は今よりずっと無害なものだった。当時のカルトは、ただ「神に対する敬意」や、神々を説得するための捧げものという意味でしかなかった。「カルチャー(文化)」や「カルティベーション(栽培)」という語も同じラテン語のcultus を語源とし、形態論的には「カルト」の親戚になる。
この語が進化を遂げたのは、19世紀はじめのことだ。それはちょうどアメリカで実験的な宗教が世間を騒がせた時期にあたる。アメリカの植民地は新しい宗教の教えを実践する自由のもとで建設されており、風変わりな信者が好きなだけ奇矯な行動をとれる安全な楽園として名を馳せていた。こうした精神的自由により、アメリカには伝統にとらわれない社会・政治集団も大量に押し寄せており、1800年代半ばには100をはるかに越える小規模な思想グループが形成と崩壊を繰り返していた。1830年代にフランスの政治社会思想家アレクシ・ド・トクヴィルがアメリカを訪れたとき、「あらゆる年齢、あらゆる身分、あらゆる気質のアメリカ人たちが、絶えず団体を結成している」様子に驚いている。当時の「カルト」には、ニューヨーク州北部でポリアモリー(複合婚)の共産主義的共同体を形成した「オナイダ・コミュニティ」(なんだか楽しそう)、インディアナ州で科学愛好者が平等主義の共同体を作った「ハーモニー・ソサエティ」(すてきだ)、マサチューセッツ州に短期間だけ存在した菜食主義農業カルトの「フルートランズ」(私の好み)といった団体が含まれていた。フルートランズを設立した哲学者のエイモス・ブロンソン・オルコットは奴隷制度廃止論者で、女性権利拡大の活動家でもあり、また『若草物語』の著者ルイーザ・メイ・オルコットの父親でもある。当時の「カルト」は単に「宗派」や「学派」と同様の、教会に関連する分類の一種にすぎなかった。その語は何か新しい団体や正統ではない団体を意味するもので、必ずしも無法な団体を指すわけではなかったのだ。
「カルト」の語に悪評が生じはじめたのは、第四次大覚醒が始まる少し前のことだった。その時期、社会規範にとらわれないスピリチュアルな団体があまりにも多く出現して、昔ながらの保守派やキリスト教徒を怯えさせ、まもなく「カルト」は、いかさま師、ニセ者、異端の変人と結びつけられてしまう。それでもまだ、それほど大きな社会的脅威や犯罪行為に及ぶ集団とはみなされていなかったのだが……1969年のマンソン・ファミリーによる殺人事件、1978年のジョーンズタウンでの集団自殺(第2部で詳しく見ていく)で大きく状況が変わった。それ以降、「カルト」という語は恐怖の象徴になる。
ジョーンズタウンで900人を超える人々が陰惨な死を遂げた事件は、9・11以前のアメリカでは最も多くの民間人が犠牲になった出来事で、国中がカルトに対する狂乱状態に陥った。なかにはそれに続く「悪魔崇拝パニック」を思い出す読者もいるかもしれない――1980年代の一時期、悪魔崇拝者が子どもを儀式に供し、健全なアメリカの人々を脅かしているという被害妄想が広まったのだ。社会学者のロナルド・エンロートは1979年に、著書『カルトの魅力』で次のように書いている。「ジョーンズタウンの事件が前例のないほどメディアで取り上げられたことによって……アメリカの人々は、慈悲深く見える宗教団体であっても地獄のような堕落を隠蔽している可能性があると警戒するようになった」
その後、こうした出来事ではありがちだが、カルトが恐ろしい存在になるとすぐ、「かっこいい」とみなされるようにもなった。ほどなくして、70年代のポップカルチャーでは「カルト・ムービー」や「カルト・クラシック」といった語が生まれている。それは『ロッキー・ホラー・ショー』などの、新進気鋭のアングラ系インディーズ映画のジャンルを指す。フィッシュやグレイトフル・デッドのようなバンドは、公演先についてまわる熱狂的な「カルト・ファン」がいることで知られた。
第四次大覚醒から一世代か二世代あとになると、カルトに興味を抱く若者たちにとっては、その時代がノスタルジックでクールに見えはじめた。70年代の過激派グループは、意外なことに今ではレトロでおしゃれだと思われるようになっている。現在のところ、「マンソン・ファミリーに夢中」なのは、「ヒッピー時代のレコードやバンドのTシャツを山ほどコレクションしている」のと同じようなものだ。最近、ロサンゼルスの美容院で客の女性が担当のスタイリストに、「マンソン・ガール」のヘアスタイルにしてほしいと話している声を耳にした。伸びすぎに見えるほど長い髪を、栗色に染めてセンターで左右に分けるというスタイルだ。また20代の知人は、ニューヨークのハドソンバレーでカルトをテーマにした誕生日パーティーを主催したという。ハドソンバレーは昔から数多くの「カルト集団」(ザ・ファミリー、ネクセウム、さらに無数の魔女)の本拠地として知られ、ウッドストック・フェスティバルの開催地でもある。誕生日パーティーのドレスコードは、「全身白づくめ」だった。白っぽいスリップを身につけ、とろんとした目で「なんだか、とりつかれちゃったみたい」といった表情をした参加者たちのフィルターのかかった写真が、私のインスタグラムのフィードにあふれかえった。
ここ数十年にわたり、「カルト」という言葉は極端にセンセーショナルなものになり、同時にひどく美化されたため、私が話を聞いた専門家の大半はもうこの言葉をまったく使っていない。彼らによると、「カルト」という語の意味があまりにも広く主観的になっているために、少なくとも学術的な文献では使えないのだという。つい最近の1990年代まで、学者たちは何の問題もなく、「社会から逸脱していると多くの人々がみなしている」集団を説明するのにこの語を使っていた。だが、社会学者ではなくてもそのカテゴリーの分け方に歪みが生じたことがわかる。
一部の学者たちは、「カルト」という語をもっと正確にしようと試み、カルトに分類する具体的な基準を明らかにしようとしてきた。たとえば、カリスマ性のある指導者、精神状態を変化させる行動、性的および金銭的な搾取、メンバー以外の人々を区別して「私たちと他の人たち」を対立させる考え方、目的のために手段を選ばないという価値観などだ。アルバータ大学の社会学教授スティーヴン・ケントは、一般的に「カルト」という語は超自然的な信条をある程度掲げる団体に用いられてきたが、必ずしもそうとは限らないと付け加えている(普通なら、たとえば化粧品のマルチ商法に天使や悪魔は登場しない。一部の場合を除いては……詳しくは第4部で取り上げる)。だが、これらの団体の結末はすべて同じだとケントは言う。つまり、メンバーの献身、英雄崇拝、絶対的信頼が揃うと力関係に不均衡が生じ、多くの場合は説明責任のないリーダー側が権力を乱用するようになる。この信頼関係を維持する接着剤の役割を果たすのは、「リーダーは超越した叡智を手に入れた類まれな存在」というメンバーの信念だ。リーダーはそのような叡智によって、この世でもあの世でも賞罰体系を支配し、褒美と罰を自在に与えられるのだと、メンバーは信じ込んでしまう。私が話をしたところでは、「本物のカルト」や「カルトの学問的定義」と聞いて一般の人たちの大半が思い浮かべるのは、こうした特性のように思う。
だが結局のところ、「カルト」に正式な学問的定義は存在していない。「それは本質的に非難の意味を含む語だからです」と、サンディエゴ州立大学の宗教学教授レベッカ・ムーアは電話インタビューで語った。「単に、自分が好きではない集団を説明するのに使われてきただけなのです」。ムーアは独特の立場から、カルトという研究テーマに取り組んでいる。彼女の姉と妹がジョーンズタウンの集団自殺で命を落としており、実際にはジム・ジョーンズに指示されて集団自殺遂行の手伝いをしていた。ムーアは、「カルト」という言葉を本気で使うことはないと私に話した。その解釈は、明らかにそれぞれの判断に任されるからだという。そして、「誰かがその言葉を使えばすぐ、私たちは読者や聞き手として、あるいは個人として、その特定の集団についてどう考えるべきかがわかります」と語った。
同様に、「洗脳」もメディアで絶えず話題にされている言葉だが、この本のために私が助言を求めた専門家のほとんどは、これを使うのを敬遠または拒絶していた。「兵士が人を殺すよう洗脳されるとは言いません。それは基本的な訓練によるものです」とムーアは言う。「友愛会のメンバーが[新入会員を]からかうよう洗脳されるとも言いません。それは仲間の圧力によるものです」。ほとんどの人は「洗脳」という言葉を文字どおりに受け取り、カルト集団の教えを叩きこまれているあいだに、脳の神経回路が何か変わってしまうのだろうと考える。だが、洗脳というのは単なるメタファーで、実証できる何かがあるわけではない。
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