0925 祖父のところへ行った。祖父はたしか、前・天皇と学年が同じか数え年が同じか、という年齢なのでもう九十歳を超えていることになる。母、弟、祖父と連れだって、祖母が納骨されている寺に行った。祖母の骨はその寺院内にあるかもしれないし、あるいは別の場所にある集合墓地にあるかもしれないという。祖父母の家は大規模な運動公園の近くにあって、そこでは今、数年後の開催が決定したスポーツイベントのための新たな競技場が建設中だった。団地の一番上の階まで登って光景を見る。私と弟は息を切らしてい
1006 日付を跨ぎつつ、アリ・アスター監督『ヘレディタリー/継承』を観た。 序盤から中盤にかけてがおそろしく怖い映画だった。何が起こっているのかがわからない。何が現実で何が妄想なのか。映画のなかで何が起こっているのか、ということは重要なことだ。映画のなかでは何かが起こっていて、物語のなかで誰かがそれを見て、観客の私たちがそれを観る。 まず祖母が死んでいる。いいだろう。映画の始まりには葬式が似合う。それに、死んだばかりで幻覚を見ることもあるかもしれない。鳩が死ぬ。どうだろう
日記。思い出しながら書く。 0501 講読の授業の教室に行ったら、百人くらい入るはずの教室に十人と少しくらいしかいなかった。連休の間だしな、と思って待っていたが一向に学生も先生も来ず、どうやら休講だった様子。前週の授業に行ってなかったので知らなかった。こういうとき、休講であることを教室のみんなに共有できるような人間にはまだなれる気がしないな、と思う。人に尋ねたりお願いすることには幾分抵抗が少なくなってきたけど、反対に、人にものを教える、という立場に自分から巻き込まれにいくの
映画館が好きだ。予告編が終わり、照明がその明るさを落としてゆくあの一瞬、空間から熱が引いてゆくのと同時にわたしのからだから魂が抜けてゆくのを感じる。映画を観るとき、わたしはひとつのスクリーンとなって明滅するひかりを全身で受け止めている。隣に座る誰かの顔が白く光っているのを、見る。 * 冬が好きだ。まるでわたしのからだを貫通してゆくかのように吹き荒ぶ風に、こころを弄ばれるのが好きだ。寒さに文字通り歯を震わせているあいだ、わたしはもはやわたしのからだをコントロールすることがで
タイトルを書いてみて、なんとなく見たことがある文字列だと思ったら『現代短歌』アンソロジーの号数だと気がついた。雑誌の発行日と号数はいつも違っていてわかりにくい。次号の発行までの間に、最新号の号名が過去のものとなってしまう(たとえば、3月15日の発行分に「3月号」と名付けると、4月1日から14日までの期間には最新号のものが既刊に見えてしまう)という理屈は理解しうるけれど。 ☄️ みんなが未来のことについて語り出している。先日、学科の友人が主催する「院試対策会」の第一回があっ
昨年末に公開したネットプリントを、相方の許可を得てこちらに再掲します。どうぞお読みください。 短歌連作 指南 榊隆太 よく見える気がする星のよさばかり頭のなかで境界に行く 映画の銃がわたしを殺してくれたからわたしのあとに起こる恫喝 一昨年の冬で途絶えたツイートの、勉強垢の、タイムラプスの、 空爆は手塩にかけて育たない夜に通電する鷹の群れ 雨がみぞれにみぞれがシールに慣れてゆく 中国の換気扇は強か 雪山のように煙草は燃えながら煙に変わる いいんだけどね あなたの言葉で橋
もういちど生まれなくてもいいように梨にうっすら透ける静脈/丸山るい「真鍮」 よく見てみると、たしかに梨には静脈がある。ネットで画像を検索しただけでも黄緑色、あるいは黄土色の皮の下に、何やら青みがかった水脈のような模様が透けているのがわかる。提出歌では発見されたその模様が「静脈」と呼ばれることとなり、梨はグロテスクさを伴って現れてくる。 そもそも果実、というのは植物にとって手段ではあっても目的ではない。植物にとって重要なのはおそらく種子の方であり、果実はあくまでもその働きを
お姫様抱っこ柄杓の水涼し 花桐や賽銭箱の夢に鷹 丘だろうシェイクスピアの野外劇 沼の秋聞こえなくても沼の秋 日没の鶯谷や火の恋し プラットフォームで煙草を吸うことはできる 芋虫の這ってあなたの轢死体 神無月帰り道ならあっちだと 火も水も死者のためなり紅葉散る 風船に被選挙権のなかりけり (上智大学詩歌会『夕星』vol.5 (2023年11月2日発行) に掲載。)
丸山るいの短歌にはからだに関する語彙が多く登場するが、今回まず注目するのは、「歯」に関する対照的な二首である。 一首目、主体は窓を開け放って歯を磨いている。切り花がふるえるのはそこから吹き込む風のせいだろうか。状況だけ見れば開放的な、爽やかですらある一首だが、そこに吹いている風は冷ややかで読者は不安を掻き立てられる。この不安は二首目がわかりやすい。抜けてゆく風は歯の確かさを揺らがす。一首目でかすかにふるえていた(かもしれない)主体の歯は、いまや抜け落ちてしまいそうなほど悲観
あなたと私はすごく近い場所にいて、それと同時にすごく遠い場所にいる。上京してきたとき、新宿や渋谷の街を見て感じたのはそのことだった。あなたが行ったことのある街は、あなたが通ったかもしれない改札、あなたが見たかもしれない広告、あなたが触れたかもしれないもので溢れている。 しかしあなたがいるのはあくまでも「バーチャル東京」なのであって、直接私の世界と交錯することは、きっと、ない。それは単にVtuberとしての設定だとか、言葉遊びだとかいうことを超えて、はっきりとした確信を伴う事
命日が冬至の年にあたたかい紅茶はレモンを浮かばせている 火傷した舌で感じる渋みごと記憶は記憶のままでいさせて 恋という語は林檎よりかたくあり頭を殴れば人も殺せる ビル風のように雑踏を抜ける杖なしで歩けることがかなしい 午後からは雨の予報で冬至とは夏へ伸びゆく一本の茎 今日が冬至だったらしいので作りました。人生にも底があればきっと生きやすいんじゃないでしょうか。死がその役割を担えるのかどうかは別問題ですが。