臆せず人と出逢いゆく〜溢れた思いやりはそのままかってに歩き出してくれる〜
時間も命も流れている。
からだの中ではいつも心臓さんが働いて、私たちの眠る間もお仕事をして
身体中の血を流してくれています。酸素を運んでくれます。いらないものを退治すべくせっせと気を利かせて働いてくれています。頼んだ覚えはなかったのにです。
私にはとてもそんな働きはできないし、頑張れもしない。
本体のためにあらゆる器官が頑張ってくれるけれど、無償の貢献先は自分のこのからだ。
そんなに価値があるとも思えぬ、こんな自分のためにです。涙が出ますね!
子供の頃は自分の所有物のような、自分の意識に支配権があるような
まるで王さまみたいな感覚が、自分の体に対して暗黙にあった。
たくさん怪我をしたり、病気になったり、ICUに入ったり、そのために働けなくなったり生活に困ったりもしましたが、何よりその度に感動したのは「体さん偉いなあ」という気持ち。
学童期も学生時代も、徹夜で無理をするたびに、テスト前であったり、友人との長電話のためであっても、もっとからだよ!私のために頑張ってよ、持ちこたえてよ、疲れないでよ、眠くならなかったら便利なのになぁ。と、言語化こそしないものの心の深部にはあったと思う『傲慢』。
体が弱ると心も弱る。
心が弱ると体に出てくる。
以前は平気だった人との輪の中でも、
なぜか少しづつ気疲れしていたことに気付かされる。
些細な言葉も意識にとまり、心に取り込んでしまうのです。
遊びに行こうと誘われても一緒に行けない。
小学校をよく欠席していると、不登校の噂が広がる。単純に虚弱だからなのに心の弱そうな噂が広まっていたことに、病気明けの久々の登校でびっくりする。
仲良しだった子がなぜか、よそよそしい。愕然とする。
熱を出して寝ていただけなのに、そんなに長期間の日数を要するわけがない、風邪なら3日で治るはず。なんて、根拠もなければ持病という概念がまだ薄い、低年齢同士の関わり。
大人になれば思い出して、またその時には理解もあろうかと受け流していたけれど、その感覚や概念の個人差は、大人になってもある程度、持続するのだと分かった。
人の思い込みはなかなか激しく、なかなか覆せない。
その子の家庭ではそう教えられ、またその親もそう育っただけ。その程度のことがずっとずっと信念のように貫かれて来たのだ。自分がそうなれば意識を向けて考えるきっかけも得るのだけれど、縁がないものは考えることもないのでそのまま大人になっていく。
年代差も多い。
人疲れして、だんだん人を避けたくもなり、そのうち最初から「どうせ話しても無理だもの」という絶望感と諦めを、今度は自分が自ら生み出してしまうようになる。だから近づかない。行動を共にしないようになる。
しかしこれでは、相互にただただ「もったいない」と思ったのです。
どちらも些細な、ちっぽけで思いつき程度でしかなかった発想ですから、誰もどことも仲違いもなく、本当はうまく調和し、仲良く日々を楽しんだり助けあったり、泣いて笑って共存できたはず。そんなことができるはずの「お互い」です。
現代社会は特に、今や言葉に敏感なので、深くその心を確認もせずに突っぱねて閉じこもることが当たり前になった。
でもそれでは「もったいない」
素晴らしいひと、優しい人、穏やかに繰り返し教えてくれる人。
一度は機嫌を損ねさせてしまったことがもしあっても、それはお互いにほとんど全員があることと知るには、どうしたら良いのでしょう?
双方に他意がないのに、双方が傷つき殻に籠る。
老人の孤独も、子育て中の親も、子供がわも、1人1人が孤立しているのです。
間に入って取り持つ勇気が、このような社会で一体、どこの誰にあるのでしょうか?
どんな人にもできることの一つは、表面にあらわさなくとも良いので、そっと、自分の城壁を薄く削ってみたりすること。
1日に10分だけはその門を開けてみようかな、と試してみること。
時々中から、外の世界を眺めてみること。
それだけで十分だと思います。
下手に動けば撮影されてショート動画に出されてしまう。そんなことから始まって恐怖なんて終わりがありません。
でも、1人では絶対に生きて行けません。
今は生きられていても、生き抜くことは非常にリスキーです。
だから仲間がいたらいい。
その仲間に全てをかけたり望んだり期待しないで、自分の助けてあげられる相手としての
仲間を持てばいい。
病院のエレベータで車椅子の方の代わりに、ボタンを押してあげることも、その瞬間は仲間です。出会った素敵な友人です。次回また会うかもしれない。でもその時は無視された格好になるかもしれない。お互い常にさまざまな境遇で闘い生きているのが人間です。でもまた1年後に同じ待合室で遭遇したら、会釈されるかもしれない。でもこちら側がすでに覚えていないかもしれない。こちらに不都合があって相手を無視した形を取らざるを得ない、そんなことになるのかもしれない。
想像力を働かせよう。
どこの誰とも接触せずとも、家から出ずとも、心の中でどこかの誰かの幸福や、より良い安全を描いて考えてみることは、立派で、大きな貢献になります。
臆することは、ないのです。
みんな怯えて生きています。
臆することはないのです。
「そう見えない」だけなのですから。
これからの子どもたちは、一層生きにくくなることが予想されています。
他人のために心を砕くことが、自分の健康や生命を酷くは害さないならば、いくらでもやってあげたいと
日々そう思うのです。
難病を抱えていても、できること、いっぱいあります。
自分が笑顔になれる日が、たった一日でもあること。
それだけでも、そばにいる誰かはほっと束の間、疲れも取れようというものです。
病児、障害児を抱えたお母さんたちのことを、個人的に応援しつつ。