何かを与えることではなく、何かを奪ってはいけない。人によってはその視点の方が大切になる。特に子どもを見ていてそう思うことがある。
今、相当苦労しているとしても、端からみれば、「苦労人」だと思われるかも知れないが、当の本人は、それが当たり前だと感じている。不幸にも思っていない。何かを目的として懸命になっているだけ。当事者でしか分からない心境がある。
そういえば「所得倍増計画」ってこの政権が言ったことですよね。円安が進み、所得の目減り感は大勢の人が感じているところ。やはり、有限実行でないと、信頼はついていかない。
自分の言葉で傷つくのなら、それを文字にしたり、口に出して話さないことです。文字や言葉は自分に跳ね返ってくる。思考は流れるから、そのまま流れていくのを待っていればいい。そうしたら、ささくれた心も癒えてゆく。
ボーっとして何もしない時間を作る。手足をなるべく動かさず、自分を100%休ませる。静かな呼吸の音しか聞こえない宇宙。そこは何かが生まれくる芽が育つ土壌として人を支えるのだろう。
疲れたなぁ。そう思う時、人間関係のことは一切考えるのをよそう。そもそもが人間関係のことで疲れたのだから。無機質なもの(心をあまり動かさないもの)や、心だけで感じ取れる何かに柔らかく触れていよう。そうしたら、疲れはいずれ取れる。
空虚感でいっぱいな時も、充実感で満たされる時も、空を見上げると、僕らの全てを包摂してくれる。その懐の深い大空の下にいることで、全てが肯定されてゆく流れを空が、風を使って作ってくれる。だから僕らはいつも安心してぶつかってゆけばいいんだね。
何かやり遂げた後とか、やり尽くしたというステージにまで上がったら、そこから先は、「そのままでいい」という心境に達するのではないか。「そのままで」と言い切れる中に「今が安定的である」というニュアンスが感じ取れるからだ。ある程度、上昇気流に乗った、そう感じていればいいように思う。
いくら豪華な家を建てたとしても、そこに住む人が自分独りしかいないなら、その家としてのパフォーマンスが発揮されず、いつの日か壊されるだろう。愛する人さえいれば、6畳一間のアパートでも、素晴らしいお城になるというのに。
怒って吐き出した自分の言葉に驚くことがある。自分の別の本性が垣間みえる瞬間がある。穏やかな時の自分は、自分の一部でしかない。色んな感情と共に表れてくるものたち、その全てが自分なんだと俯瞰でみて、そこに立ち合った後、腹に据えられればと思う。
小さい時は単に好きと思うオモチャを買ってもらっていた。いつの間にか、流行っているから、あの子が持っているからという買う基準に変化していった。大人になった今、世間の常識が、社会の価値観、今のトレンドに沿ったものを探してしまっている。自分の"好き"に素直でありたいと改めて。
二人には物語があり 言葉で彩りを加えてゆく それが記憶の何処かに埋もり いつか忘れかけた頃に 壊れかけたベンチに腰掛け 黄昏れた夕陽を見ながら キラキラ輝いていた 楽しかった日々を 時を忘れゆっくり思いだす