直太朗20周年に寄せて①さくらの時代のこと(柏でのこと)
出会って20年以上が過ぎた。
始めは、イノッチのお友達っていう位置付けだった。
直太朗の生唄を初めて聴いたのは、桜前線北上ツアーという、
世に森山直太朗の名が知れ渡る少し前のことだった。
レコード店の小さなスペースで指揮台の上にギターケースを置いた直太朗。
その前に椅子が3つだけ置かれ、そこに私は座った。
今日も雨だと言う直太朗と、以前に参加した時も猛烈な雨だったとの会話を交わした。リハーサルでの出来事だった。
雨に降られて~♪と歌う当時まだ発売されていない季節の窓での一節を歌ってくれた。
最初から唄のファンであった。
友人が送ってくれた、トニセンのネクストジェネレーションというラジオで聴いたポロシャツが初めてだった。
オフィシャルサイトで公開させている音源には、様々な楽曲があった。
今、世に出ている初期の曲が大半を占めている。
その音源を当時MDに録音し、それを最近データ化し、大切に今も保存している。
CDで初めてソフィを聴いたときは、感動より喜びを感じた。
当時はまだ若く、曲の内容にまで踏み込んでいなかった気がする。
時を経て、さくらがシングルカットされ、ウルルン滞在記のエンディングで流れ始め、これはきっと売れていくんだろうなと感じた私は、
納得するように生唄を聴きに行くことにした。
それが,前記の桜前線北上ツアーだった。
平行するように2003年4月のこと。
毎週のラジオの公開生放送火曜レギュラーに直太朗がなった。
それに私は毎週最終回まで半年間通った。
そこで直太朗が売れる前と後の変化を目の当たりにした。
当時、気志團の綾小路翔さんのオールナイトニッポンに度々登場していた直太朗は、どう考えてもいじられキャラだった。
そのような楽しい様子を生で感じられるのを楽しみにしていた。
最初のうちは手探りで、DJさんとのやり取りもLFRの吉田アナのようには行かずぎこちなかったが、緩く楽しい公開生放送だった。
放送後に、さくらの合唱団をやろうとの話になり、会場にいた数人と直太朗とDJさんのいる壇上に上り、さくらの合唱をしたこともあった。
そこで見事に歌詞を間違え、突っ込まれたのは、紛れもない私だった。
そんな中、段々と世の中への認知が広がり、当時のオリコンチャートも上がっていく。
(そんな様をきちんと目に焼き付けようと、オリコン誌を毎週購入。
今もその上がっていくチャートを保存している。)
観客も曲の認知と共に増えて行き、友達ができるようにもなった。
その状況とは裏肌に直太朗が構えるようにもなっていった。
そんな本来のいじられキャラの直太朗を生かそうと、カンペを出し、盛り上げたりもした。登場の様子を伺い、今日の心の状態を観察し、黒と見た日は盛り上げに徹し、白と見た日は突っ込みに徹した。
その様子をスタッフと勘違いする人もいれば、快く思っていない人もいたようだったが、何よりその場を盛り上げて楽しい場にしたいという思いは、みんな一緒だった気がする。
いつしか直太朗は、ミニアルバムのプロモーションに徹し、さくらを封印するようになった。
その時期の弾き語りの夏の終わりは、子守歌のように何度もそこで聴き、
今も夏の終わりを聴くとその光景がよみがえる。
後に何故さくらを封印していたのかをスタッフさんを通じて知り、
今も大切な思い出としてしまっている。
この公開放送で出会った方たちとは、今もライブ会場などで見かけると声を掛け合う。
頻繁に連絡を取ったり、プライベートな付き合いはなくても
あの光景を共にした仲間であることに変わりはない。
もちろん、離れていった人もいる。
でも、あの日のさくらがみんなを繋いでくれている。
そんな想いで今もいる。
追記
書いていいのか迷ったが、書くことにした。
公開生放送の最終回が決まり、友人たちと「さくらで直太朗を送り出したい」とファンのみんなの署名を集めラジオ局のスタッフさんに嘆願書のように渡した。当時で170名。
迎えた最終回、さくらを歌いたいと言い出したのは、直太朗自身だった。
その後、ファンからの署名が直太朗に手渡された。
直太朗の想いとファンの想いが一致した貴重な経験となった。
あの日のさくらとは、この日のさくらである。
あの日、あの場にいて、一緒にさくらを歌った人がここを見てくれているとは思わないが、署名に賛同してくださったことに感謝しています。
どういう形で伝えたらいいかわからなかったので、報告がこんなにも遅れてごめんなさい。
署名だけしてくれて、当日一緒に歌えなかった方々、
みんなの想いもあの日の直太朗に届いていました。
20周年を期に書きました。
当時、協力してくれた皆さん、賛同しなくても一緒にさくらを歌ってくれた皆さん、今もその思い出は大切にしています。