直太朗20周年に寄せて。(みんなとSEICHIくんのこと)
どうしても言葉に出来なかったことがある。
それは感じてきた悲しみの中身について。
現実に起きた悲しみを書いても、ただの情報の垂れ流しになってしまわないか。
個人の生傷に触れてしまうことには、なりはしないか。
でも、彼らが、ここ数年自分たちの言葉で語るようになり、
少しファンサイドの言葉を出してもいいのではないか、とも思うようにもなった。
自分の中での心の傷を整理するためにも少し書いていってみようと思う。
本当に個人的なことなので、心を優しくして読んでほしい。
あと、興味本位に読み始めた方は、ここでやめておいた方がいいと思います。
御徒町が組んでいたユニットMADE IN POP の相方SEICHIくんについて、触れずに20年を終わらせることはできないんだ。
彼が亡くなってもうすぐ17年が経つ。
あの日私は、直太朗のライブ「君は五番目の季節」大阪公演2日目に向かっていた。
その日の朝、御徒町のブログで彼らにとても悲しいことが起きたことだけは、わかった。でも、それが何なのか心情を察するに、とても寄り添えるようなことではなかった。
新幹線に乗り、大阪に向かう途中、午後12時当時のイノッチの日記が更新され、ここにも悲しみが綴られていた。
状況と文章から、誰かの身に何かが起き、それがきっと彼のことだと
推測は出来たのだが、認めたくない自分がいた。
だから、「事実はファンにはわからない」
そう気持ちを抑え、そして大阪公演2日目の幕が上がった。
イノッチと御徒町は一緒にいるのがわかっていたので、どこかで安心していた。
このステージの直太朗は、きっと一人で悲しみを背負っている。
そう思って、だったら支えるのは、きっとこの悲しみを一緒に感じてるファンしかいないのではと思った。
ステージ上では、弾き語りコーナーで「トニーマイフレンド」。
が歌われ、「生きとし生けるものへ」の弾き語り。
そこで何があったのか、少しわかった気がした。。
あの日のステージでの涙の意味。
そこに立ち会ったものとして、直太朗はきちんとステージを立っていて、成し遂げたことは伝えたい。御徒町も観ていないステージだから・・・。
数日後、悲しみをどこか自分のことに出来ずにいたまま、
御徒町が当時の夏参加していた演劇のワークショップの発表を観劇するために、ベニサンピットに行った。
そこには、イノッチも来ていて、見守ってくれていた。
最後に作演出として、挨拶に立った御徒町から聞いた事実。
一緒に号泣した私は、身動きが取れず、一人で客席で泣き続けた。
足早にステージを後にした御徒町。
私の後ろ客席の中央から、みんなを送り出すイノッチ。
その日に限って、この一連の事実を共有する友人が一人いただけで、
心のおける人たちがみんなあの場には居なかった。
神様がみんなをこの悲しみから守ってくれている。
そんな想いを感じたのは、しばらく経ってからだった。
私は、事実を受け止めてこいと、送り出されたのだと。
御徒町の書いた戯曲のタイトルは「虹」だった。
事実は、みんなが知っていることなので、ここには私は書きません。
あの日を境に、生きることを綴り、歌い続けている彼ら。
作品の中でも命を失うことを決してしなくなった。
私自身はというと、この悲しみの中、心を病み、
身近な人しか知らないが、立ち直るのに何年もかかった。
でも、今の自分がいるのは、失った存在がみんなを見守ってくれているということ。
そう感じずには居られないことだらけだから。
ありがとうの言葉しか、今も出てこない。
御徒町、、、いや径ちゃんの悲しみは、私には計り知れない。
自分自身のことを語ることをなかなかしない径ちゃん。
でも、個人的に最近は、心を閉じる瞬間がなくなったのを感じている。
あくまでも詩や作品での繋がりが大切。
それも事実だし、やっぱり原点も今もそこには変わりない。
ここ数年、彼らが、SEICHIくんのことを話してくれるようになった。
ようやく、ようやく
聞く方にも、それなりの覚悟が必要だけれど、
知らない人たちも置いてけぼりにしないようにしている気がする。
生きた証が作品にもみんなの心にもきちんと刻まれている。
一生忘れない。
死んでも忘れない。
来世でも会おうとは、このことで。
きっとみんなでお茶する日がくるんだろう。
今を生きること。生きていること。生きていくこと。
それ以外に何を望むのか。
何も望まない。
みんなが命を大事にして、困難な時代も共に生きていく。
当たり前のようだが、すごく難しいこと。
でも、祈る。願う。信じる。
個人的な想いです。読んでくださり、ありがとうございました。
どうか、忘れないでください。
生きることの大切さを。