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世界は自分が望んだ分だけ見せてくれるのだということ

ブログにしろ、noteにしろ、カメラ/写真にしろ、とりあえず興味は持つものの、長続きしないのか我が人生だ。

飽きて放り出すのではなく、取り扱いたいネタ、対象物がなくなり、自然消滅していく。でも、またしばらくすると一旦夢中になるが、上っ面だけなぞって、また意欲が失せていくの繰り返しである。

例えば、カメラ/写真。

毎回、SNSやYouTubeで目にする他人の写真に触発され、スマホでは満足できなくなり、購入に踏み切る。

写したいものがフォーカスされ、背景がボケた写真は、自分の腕前が上がった気がして気持ちいい。スマホと比べ、加工感が少なく、たしかにカメラで撮る価値をそこに感じる。

購入後は頻繁に使うのだが、やがて、「写したい」と思う対象が見つからなくなり、持ち出さなくなる。

そんなサイクルが、ここ15年ほど続いており、最近またカメラを売却した。

今年売却したRICOH GR III

なぜ、こういう展開を繰り返してしまうのだろうか。

正反対である人気ユーチューバーを観察してみると、とにかく毎日、毎日、主軸となる同じテーマをあらゆる角度からひたすら深ぼっている。

そういう人たちの周辺にはネタが尽きない何か特別な環境が常にあるのか?もちろん、継続的な発信がさらなる情報や人脈を引き寄せる相乗効果も多分にあるに違いない。

ただ、どんな人であれ、最初からそのような状態であることはない。

推測するに、人気ユーチューバーになれる人は好奇心、探究心が旺盛で、常に「なにかないか?きっとなにかあるはず!」と対象物に対する欲望と、観察眼が一般人と異なるのだと思う。

お笑いのプロがわかりやすい。誰もが見ている風景、日常で遭遇する出来事を、その人らしい着眼点で、面白おかしく伝えることができる。

普通の人にとっては当たり前過ぎる出来事、風景であっても「何かお笑いになるネタはないか?ぜったいなにかある。ここにはなんらかの語るべき事象があるはず!」という希望をもって物事を観察しているから、ネタに出会えるのだとおもう。

冒頭の悩みに戻ると、ぼくにはそこまでの探究心や希望がないことが、継続しない原因なんだろうな。

そもそも、自分が望んでいないから、対象が見えてこないのだ。

最近愛読している、この本の一節でさらに確信した次第である。

ある時、水滴を撮影した写真を拡大してみると、その小さな水滴の中に周りの景色が写り込んでいることを発見したのです。

「こんな小さなところに、私の知らない世界があったなんて
!」

それ以来、水滴の写真を撮ることが趣味のひとつに加わりました。すると、アスファルトの隙間から草花の上の朝露まで、あちこちの水滴がどんどん目に飛び込んでくるようになりました。どれだけ撮っても、水滴というモチーフは尽きることがありません。撮影を続けるうちにもうひとつ発見したことがあります。

それは、世界は自分が望んだ分だけ見せてくれるのだということ。

つまり、楽しく生きようと決心した人の世界には、楽しみがどんどんあふれ出すということです。

「もし、私が人生をやり直せたら」キム・へナム著

「水滴」なんて、今まで一度も撮影したことなかったなあと思い、早速iPhoneで撮ってみた。

たしかに、見たことのない小さな世界が見えてきた。

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