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紫式部と越の白雪

まっすぐに立って、顔を上げて遠くを見ている紫式部。しかも金色。

福井県越前市(前・武生市)の紫式部公園に立つこの像は、平安時代の女性としては初めての立像だという。絵巻物などで見る平安時代の女性は、十二単に身を包み、顔を隠すようにして座っている。そういう常識的なイメージからすると、この紫式部像は、はなはだ特異なものといえるだろう。
台座には2枚のレリーフがある。向かって右には父に付いて武生に向かうときの様子、左には藤原道長に歌を所望される全盛期の姿が描かれている。つまりこの像は、紫式部の人生を大きくイメージして作られたものだ。世界最古の大長編小説『源氏物語』を書いた女性には、なるほど自らの足で立つ姿がふさわしい。

紫式部公園に立つ紫式部像。台座のレリーフも意味深い。


紫式部は西暦973年頃に生まれ、1020年頃に亡くなったといわれる。早くに母を失ったが、当時5本の指に入るほどの漢学者だった父に愛されて育ったようだ。『紫式部集』を見ると、娘時代の式部は女友達との交流を大切にしている。平安文学の研究者である清水好子さんによるとそれは「平安女流の稀有な青春の記録」であり、式部の人生の中で娘時代は「他とは明らかに区切らるべき一時期として意識されていた」。
そんな結婚前の時代に経験したとびきり印象的な出来事、それが武生行きであったろう。父が越前の国守として赴任するのに同行した式部は24歳くらい。当時の結婚適齢期はとっくに過ぎている。武生に滞在したのは1年半で、父を残して都へ帰ったのは、ようやく結婚する気になったからだといわれている。

式部は武生での生活を好まなかった、とこれまでは考えられていた。それは、『紫式部集』に残る越前での歌が、雪を嫌うものばかりと解釈されていたからだ。式部集にある武生での歌は次の3首。
「ここにかく 日野の杉むら 埋む雪 小塩の松に 今日やまがへる」
「ふるさとに かへる山路の それならば 心やゆくと ゆきも見てまし」
「春なれど しらねのみ雪 いやつもり 解くべきほどの いつとなきかな」
 このうち特に二番目の歌の詞書に「降り積みて、いとむつかしき雪」とあることや、歌の内容が「都へ帰る山路の雪なら見もしましょうが、ここの雪は見たくない」といった調子なので、式部は越前の雪が嫌で都へ帰りたがっていたと考えられたのである。

しかし最近の研究では、この武生時代の経験こそが『源氏物語』に文学的生命を吹き込んだといわれている。武生町の隣にある今立町和紙の里会館の加藤良夫館長(記事作成当時)は、3首の歌を新たなる視点で読み解く。まず、式部が『紫式部集』にわずか120数首の歌しか載せていないのは、どうしてもこれだけは残しておかなければ、という歌だけを厳選したからだと見る。越前国府でも式部は様々な歌を詠んだに違いない。その中から選んで、雪の歌3首を残したのだ。武生での雪の経験は、それほど貴重なものだったといえるだろう。
最初の歌は山に降る初雪。次の歌は里に積もる大雪。最後は嶺の残雪。そして、国府を中心として東の日野山、南の帰(かえる)山、北の白山を、それぞれに詠んでいる。場所の高低、雪の三態、三つの方角、そして越前の代表的な三山を、式部は見事に表現しているのである。

紫式部公園は、越前富士とも呼ばれる日野山(ひのさん)を借景とした神殿造庭園。式部像の視線は日野山に向けられている。


帰京のときにはまた、こんな歌を詠んだ。
「名に高き 越の白山 ゆきなれて 伊吹の嶽を 何とこそ見ね」
~白山に慣れた私にとって、伊吹山の雪など何でもないわ~

『源氏物語』には雪の場面が随所で効果的に使われているが、特に宇治十帖では、背景に常に雪が感じられる。「浮舟」では「武生の国府」という言葉も使われ、「手習」では「たけふちちりちちり」という楽の音も聞こえる。雪に埋もれる里で、手習いをしながら生涯をふりかえる浮舟……愛の本質を描こうとする紫式部の脳裏には、いつも武生の雪の風景があったのではないだろうか。

紫式部が滞在した「越前国府」跡を示す石碑。
総社大神宮の境内にある。


この記事は2005年頃に作成。一部修正してここに掲載しています。
画像は、2024年3月30日の撮影です。


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