【即興短編】No1 刹那の戯言
「人間はね、一人じゃ生きられないんだ」
ぽつり、と運転手以外誰もいないバスの中、彼は呟いた。はあ、そうですか。と、いつも通り素っ気ない言葉を返す。何が言いたいのかわからないほど付き合いは短くない。彼はいつだって愛とか、恋とか、友情とか――そういう不確かなものが好きだった。
雨が窓を穿つ。流れる景色を眺めながら早く目的地に着かないかなと考える。窓に映った自分の顔は酷くつまらなさそうな顔をしていた。実際、つまらないのだけれど。
「だから人は協力するように出来ているんだと思う」
「つまらない話ですね」
「うん、君が嫌いな話だと思う」
嫌がらせか。そうか、嫌がらせか。彼のこんな話を目的地に着くまで聞かなければならないのは苦痛だ。目的地に着くまで永遠と話し続けるのだろう、辟易するほどに呆れ返る。スマートフォンをブレザーのポケットから取り出して時間を確認する。時刻は午後一〇時二二分、目的の停留所まではあと一五分ほどもあった。
太陽の明かりのように照らされる電灯に、何処かへ帰宅する途中のカップル、仕事帰りのくたびれたサラリーマン、信号待ちの若者。今の自分にとっては何もかもが羨ましかった。つまらない彼の話を聞くよりも、外で歩いた方がいい。それほどに彼の話は酷くつまらないものであるし、既に何度もしつこいくらいに聞かされたものだった。
「僕は思うんだ。足りないものを補うために人は助け合うように出来ているんだって」
「その他人に足を引っ張られた事をお忘れで?」
「それも仕方ないと思う。その人はそうするしか術がなかったから。だから恨んだりしないよ。恨むより、他人のいいところを探す方がよっぽど楽しい」
「私は他人を蹴落として屈辱を味合わせて社会から抹殺する方が好きです。楽しいですし、何より私を侮り嗤っていた奴らに仕返しが出来る。こんな最高な事はないですよ」
「相変わらずだねえ」と窓に映った彼が眉を下げて困ったように笑う。こういう性分なのだから仕方がない、今更改めるつもりもない。
それに彼のような聖人君子にも、神様のような慈悲深き心も、他者を憐れむ優しさも、何も持ち合わせていない。一円の価値にもならない事は無駄な事だ。世の中所詮金である。金があれば生きていける。愛だの友情だの、無価値以下の存在に一喜一憂する他人は哀れで、愚かしくて、浅ましい。
「でも、君だってそうさ。他人がいなくちゃ生きられない。私がいなくちゃ生きられない。人は何処かで補い生きているものなんだ」
「……自惚れですね。説教でもしたいのなら一人でどうぞ」
ああ、だめだ。彼のペースに巻き込まれている。これだから話すのは嫌なのだ。早く着いてくれないかとスマートフォンに再び視線を落とすが、先ほどから五分も経っていない。嫌な時の時間は酷く緩やかになるものだ。
「君の考えも間違っていないと思う。人は十人十色だからね」
けれど、僕は君の隣で歩いて生きたいよ。そう呟いた彼の声は何処か柔らかくて、真綿のように優しくて、腕(かいな)に抱かれるような心地だった。窓に映し出される彼の表情は、優しげな笑みを浮かべていた。
強くなる雨足。バスは赤信号で一時停車する。彼と自分の間に流れる沈黙。まるで時間が停止したように酷く静まり返っていた。まるで心のようだと馬鹿みたいに思う。
こんな時間を何度と過ごしただろう。何度の季節が通り過ぎたのだろう。無意味で、無価値な時間。純真無垢な彼と、酸いも甘いも知っている自分。相反した存在は相容れるはずがないのに、いつも自分の隣には彼がいた。
「だからこそ、僕は君と生きたいと思うんだ。お金も、仕事も、何もなくなっても、ただのちっぽけな人間になって、何のしがらみもなくなったら……君のために歌えるから」
雨音と共に吐き出された言葉は、静かに混ざり合う。動き出したバスは目的地へと進んで行く。バスに揺られながら落とした視線は自らの足を見つめていた。
彼が発した言葉の意味を理解していないわけじゃない。だが煩わしかった。言葉も、声も、存在も――何もかもが煩わしい。足りないものを持っている彼が、全てを持ち全てを与える彼が憎らしくてたまらない。包まれる優しさが胸を穿つ。棘の生えたような心にも触れてしまう彼が、腹立たしくて仕様が無い。
そんなやるせない気持ちを胸に唇を噛み締めた。
大海のような優しさを胸に秘めて。
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