梅田ラテラルからはじまる三都物語
大阪着~イベント開始まで
7月2日の日曜日、午前11時半ちょうどに大阪へ着いた。
梅田ラテラルという、名前のとおり梅田にあるトークライブハウスが「『台所をひらく』の発売記念イベントをやりませんか」と声がけしてくださったのだ。
『台所をひらく』というのは私の8冊目の本で(うち1冊は共著)、大和書房さんが版元の料理エッセイ&レシピ集。料理は好きだけど、毎日の家事としての料理はつらくなる日も面倒な日もある、そんな気持ちと自分がどう折り合いをつけているか……ということを正直に書いた本だ。
大阪でイベントをやれるということがとても嬉しく(人生初)、お客さんが集まるだろうかという不安はかなりあったけれども、引き受けてしまった。
決め手は、ライターのスズキナオさんが聞き手をつとめてくださるということ。彼の著作である『酒ともやしと横になる私』(シカク出版)、『関西酒場のろのろ日記』(エレキングブックス)が私は大好きで、折々で手に取っている。酒場やそこに集まる人々を書かせたらピカイチの存在なのだ。個人的にも何度かお目にかかっていて、そのやさしく飄逸なお人柄のファンでもあった。ナオさんとなら安心だ、と妙な自信もついて……ああ、ホイホイ来てしまった、大阪まで。
まあ、暑い日だった。日差しが残忍な感じ。
だけど最近はひどい雨のことも多かったから、晴れてくれただけでもありがたい。梅田駅(と一言でいっても広大すぎるが)から扇町公園のほうに歩いて10分ぐらいのところにラテラルはあった。早く着いちゃったけど、すぐ近くに神社がある! これはお参りしとなかきゃだね。
イベントがどうかうまくいきますように。
ちょっとでも多くの人が来て(配信を見て)くれますように。
知らんがな、と言われてるかもと思いつつ、二礼二拍一礼。ちなみに嵯峨天皇に由来する神社だそう。よろしくお願いいたします。
久々に再会したナオさんは、伊勢うどんをモチーフにしたTシャツを着ていた。私は「お客さんが数名だったらどうしよう」なんて不安と焦りに似た気持ちに実は支配されかけていたんだが、会ってナオさんの顔とTシャツを見た瞬間「そうだよね、緊張してもしゃーーない」という和やかに達観した気持ちになれてしまった。こういうのもナオさんの人徳だな、と感じる。
ありがたい。
雑談するうちトークイベントは始まって、ゆるゆると喋りつつ2時間があっという間に過ぎた。話ながらふたりとも(出演者はタダをいいことに)よく飲んだ。お客さんもそりゃ多くはなかったが、みなさんとても温かい方ばかりで、全員が本を買ってくれて、私はそれらにサインをした。
ホッとしたこともあり、サインしてる途中でちょっと涙が出た。みなさん、ありがとうございました。声がけくださったラテラルの松本さん、本当にありがとうございます。
本のこと、家での毎日の料理のこと、ナオさんがやってる家庭での料理や、大阪に関すること、酒と酒場のことなど、多岐にわたってのんびり喋っています。お客さんの食に関する悩みごとを聞く時間もあり。今月16日まで配信されていますので、もしよかったら。
大阪・野田阪神『千喜千輝』で打ち上げ
打ち上げの場所は決めていた。
大阪で通っている店のひとつ、野田阪神駅近くにある日本酒居酒屋『千喜千輝』(ちきちき)さんをナオさんに紹介したかったんだ。ナオさんの友人、ライターのはしおさん、今野ぽたさんも一緒に行くことに。おふたりも酒好きで、とても気持ちのいい、面白い方だった。
お店の名物、女将の美由紀さん特製のお惣菜を今回も堪能する。あっさりしてるんだけども、きちんと酒のアテになる味つけがいつもながらに見事で。とうもろこしのゼリー寄せに、桃入りの白和え、万願寺とじゃこの炊いたん等々、ゆっくりとちびちび味わう。
お酒は基本的におまかせで。
この日は半夏生(はんげしょう)ということでタコを使ったアテあり、大阪は泉州名物の水なすもあり。今季初の水なすを『千喜千輝』さんで味わえて嬉しかった。
日本酒の蔵人をやっている女将の息子さんや、以前にカウンターで隣り合って話が盛り上がった梅田生まれの常連さんとも会えて、たっぷりと話した野田の夜。大阪弁のシャワー、浴びたなあ。
女将、ごちそうさまでした。シメに出してくれたハモ出汁のにゅうめん、最高すぎましたよ。
ナオさんたちも気に入ってくれたようで、よかった。
そうそう、ご一緒したライターのはしおさんがnoteに当日の思い出を付けてくれたのでした。
今野ぽたさんも。おふたりとも最高の飲み助だったな、また大阪で一緒に飲めますように。
店を後にしたら、ナオさんが「近くにいいとこあるんですよ」と連れて行ってくれた『お多福』なる居酒屋さん。看板に大衆酒場とあって、いわゆる赤ちょうちん系かと思いきや、入って黒板を見るとレバーパテやらマグロのブルスケッタなんて文字が並ぶ。いいねえ、そそられるじゃないの。
二代目の息子さんが洋風のおつまみもいろいろ用意してるんだそうな。この方もあたりのやさしい方で、初客の私もすぐ居心地よくなっちゃってね。また飲み始めちゃうわけですわ。
今野さんも本業は別にありつつ、文章を寄稿する活動をされてる方で、「みんなでZINE作れたらいいね」なんて話が盛り上がる(正直べろべろになりあまり記憶は定かではないが)。
いろいろ語りあった楽しい記憶がぼんやりと海馬「2023-07-02」には詰まっていて、今書いていて嬉しい気持ちがまたよみがえってくる。みなさん本当にありがとうございました。
ホテルにチェックインして部屋で落ち着いたのに、やっぱりもう1杯だけ飲みたくなって、近くの『なか卯』で飲んでいた私。おとなしく寝てりゃいいのに、バカだねえ。
おしんこをつまみにしてたんだけど、量がかなり少なくて(あくまで私の主観だが)、お代わりを頼んだら何も言っていないのに山盛りにして出してくれた。こういうとこにも大阪を感じる。
ありがとう大阪、おやすみなさい。
兵庫・武庫之荘を44年ぶりに歩く
関西2日目、梅田駅から阪急電車に乗って武庫之荘(むこのそう)駅を目指した。
私、昔ここに住んでいたんである。それも44年前(!)、幼稚園生だった。
父親が転勤族で、東京で生まれたと思ったら4か月ですぐ兵庫県へ。私が人生で2番目に暮らしたのがここ、兵庫県尼崎市の武庫之荘。ゼロ歳から4歳までを過ごした。ゆえに記憶はおぼろげで断片的、当時住んでいた社宅もとうに取り壊されているようだったが、私はどうしても再訪してみたい気持ちがあった。そんな思いが年々膨らんでいた。今回大阪イベントのお話をいただいたとき、瞬間的に「武庫之荘も訪ねよう」と思ったのだった。
手がかりは幼稚園の名前だけ。「みこころ幼稚園」という名前は忘れていない。グーグルマップで検索したらすぐ出てきてホッとする、まだ続いていてくれた……。
駅から10分ほど歩く。このへんも通っていたはずだけど、懐かしさなどは感じない。ただ古い建物や家屋がよく残っている。他の地域なら暗渠になっていそうな小川が現役で、筋と並走して家々の間を流れていた。
なにせ44年だもの、すっかり変っちゃっているだろうなと思いつつ、幼稚園の前に来たそのとき何かが「ひらいた」感じがあった。それはもう突然に。
ああ、私はこの道を通ったことがある。
たしかな感覚。通ったのではなく「通っていた」、日常的に。まっすぐ行って二つ目を曲がって家に帰っていた。足が自然と動き出す。雨の日に長靴の中に水が入って溜まって、ぐちゃっぽ、ぐちゃっぽ、なんて音を出すのが楽しくて、笑った日の気持ちもよみがえってきた。
二つ目を曲がって進むと行き止まりで、ここからどう行ったのか思い出せなくなる。だけど勘で進んでみる。うーん、分からない。
たまたま通りかかった方に道を尋ねてみた。
「すみません、昔ここらに〇〇という会社の社宅があったと思うんですが、ご存じないでしょうか」
「ああ、そこの尼宝線を越えてすぐのところにありましたよ。でも、もうないけどねえ」
運良くご存じの方と一発で出会うことができた。空に向かって感謝する。お礼を述べて別れ、尼宝線という大きな車道を越えてしばしうろつくと、多分ここじゃないかなあ……と思える場所にたどり着いた。
現在は大きなマンションになっている。隣接するお宅の方がちょうど表にいらしたので伺うと「ああ、ここでした。随分前に建て替わったけどねえ」と。
そのお隣の家に目が留まる。ふと表札を見ると「南」さんとある。
「おかあさん、これなんて読むの?」
「みなみ、って読むのよ」
4歳の自分が、当時の若かった母に訊いてやり取りした記憶が瞬間的によみがえってきて、いきなりこらえきれなくなって道陰で少し泣いた。
私は、ここにいた。ここでやっぱり暮らしていたんだな。
私には故郷というものが無い。
父の転勤が数年ごとにあるので、ひとつ家で、ひとつの地域でずっと暮らした経験がないのだ。思い出のある地域もそれだけ多いけれども、どこどこ出身、どこ育ちときっぱり言える場所がない。それは少なからずコンプレックスでもあり、ちょっとした欠乏感を覚えるときもある。自分を形成してきたものがあやふやな感じがして、不安や妙なさびしさを時に覚える。各地を広く知っているとも言えなくもないが、ひとつを深く知っているわけではない。簡単に言えばデラシネだ。
だからこそ、各地で生きたその場所を自分の心に少しでもしっかりと縫い付けておきたい。
武庫之荘は今まで私にとっては「育った地のひとつ」としての、データ上の存在だった。それをリアルなものとして再体感出来たのは大きな収穫だった。当たり前なんだが、やっぱり私はここで数年育ったのだ……! 写真はたくさん残っている。おぼろげな記憶もそれなりにある。だけどやっぱり自分の中で確証がほしい。実感がほしい。私はここで生きていたのだという――。
近所を歩いてみたら、さらにあれこれよみがえってきた。
ある道を父と歩いて急にお腹が痛くなって困らせたこと。もっと当時は田んぼが残っていてレンゲがよく咲いていたこと。ゆかちゃんという子が花輪を編んでいた。夾竹桃の咲く公園があって誰かが「毒がある花なのよ」と教えてくれたこと。何かの商店の天井に蠅取り紙がぶらさがっていて、大きな蠅がよくくっ付いており、それを見るのがちょっと好きだったこと。
昭和54年の話である。
たっぷりとまち歩きを楽しみ、武庫之荘を後にした。かつて縁のあったまち。私が暮らした住みかのひとつよ、さようなら。
ありがとうございました。
神戸市灘区水道筋商店街で松本創さんと飲む
武庫之荘を歩き回ったら汗びっしょりになってしまった。
ひとっ風呂浴びるべく、また阪急に乗って王子公園駅で降りて、水道筋エリアにある灘温泉へ。「いい銭湯だよー」といろんな人からすすめられていたのだった。
うーん、本当によかったな!
温度低めの炭酸泉が、夏の日を浴びた体と肌にやさしい……。横たわって湯に体をあずけていたら、ちょっとウトウトしそうになった。
もちろん熱めの風呂あり、ジェットバスあり。露天も広いねえ、水風呂にも入れて最高に気持ちよく、体がクールダウン出来ましたよ。何より気に入ったのが勢い強烈、「プチ華厳か」ぐらいの打たせ湯。頭、肩、腰、脚をじっくりほぐす。これでタオル付き600円は大満足だ。
水道筋を訪ねたのは温泉に入るためではなく、ノンフィクションライターの松本創(まつもと・はじむ)さんを訪ねるためだった。
Twitterで私のことを知ってくださったらしく、以前にこのあたりを訪ねてSNSに写真を上げたら「今度来ることがあれば案内しますよ」なんて、光栄すぎるお声がけをくださっていたのだった。
松本さんは『地方メディアの逆襲』(ちくま新書)、『軌道――福知山線脱線事故 JR西日本を変えた闘い』(新潮文庫)などで知られる社会派のライターで、講談社ノンフィクション賞も受賞されている高名な文筆家。
お会いできるのは嬉しかったが、正直、緊張する気持ちもあった。
しかしお会いした瞬間に分かったけれど、松本さんは先輩ぶるとか、数々の業績を鼻にかけるようなところの一切ない方で、人をホッとさせるような温かみのある方だった。
「あっ、白央さん? どうも松本ですー、きょうは水道筋を連れたおしますわ。じゃあ行きましょうか」
挨拶もそこそこに、すたすた笑顔で歩み出す。
まず連れていってくれたのが吉田酒店、松本さんの御用達だそう。『仙介』『大黒政宗』『越乃寒梅』などがずらり並ぶ。
「ここはめっちゃ試飲させてくれるんですよ」の言葉どおり、かけつけ三杯的な勢いで試飲をさせていただいた(松本さんのご紹介あればこそ、だとも思う)。
ご一家みなさん気さくな方で、お酒のこと、地元のことをあれこれ伺えて楽しかった。また、震災のときのこともお話ししてくださった。ありがたいことです。
店の前の道が森山未來主演のドラマ『その街の子ども』に出てくることも松本さんに教わる。
水道筋のあたりを歩くのは2回目。
店前のおそうざいが実にうまそうな魚屋さん、肉屋さんもまだまだ現役だ。あちこちでご近所同士が立ち話をしている。誰が置いたか、椅子が道端にあって、疲れた方がひと休みする光景も見られた。もしひとりだったら、私はきっと先の魚屋さんでハモフライを買って、缶ビールと一緒に椅子に座って楽しんでいただろう。
北側には山が見える(摩耶山というらしい)。エリア全体がゆったりと坂道になっており、空気の抜け感も気持ちいい。周辺には学校も多く、いつも子どもの声がどこかで響いていたような気もする。
松本創さんはこのあたりを「神戸の山手と浜手の中間を絶妙に貫く位置にあって、双方の人と文化が出会い交わり、中和されている」場所とし、「汽水的豊かさ」があると表現されていた(『商店街と市場のある暮らし 水道筋読本』より)。
水道筋には10の商店街と市場があるという。
松本さんはエリア全体を案内してくれた。入り組んだ市場の造りに驚く。
「水道筋に住み始めたのは30歳のときだから……23年になるのか、ここで暮らして。まあそれはともかく、そろそろ飲みましょう」
ここは絶対に、と選んでくれた畑原東市場にある『寿し豊』さん。寿司と聞いてちょっと身構えていたのだけれど、まちに根差した気の張らないお寿司屋さんという雰囲気に、入るなり安らいだ。
うちの親世代よりちょっと下ぐらいだろうか、なんとも品のいい、おだやかなご夫婦が迎えてくださる。そして何より松本さんが「大好きなんだよー、ここ!」という感じにあふれていて、なんだか私まで嬉しくなり、寛いで飲み始めることができた。
鯛のお刺身、鯵の棒寿司(松前、という名で呼ばれていた)、酢じめの鰯に煮穴子とみんなおいしかったんだが、煮だこの酢のもの仕立てが実によかった……まさに佳肴。
ご主人の仕事を眺めつつ、飲んで、つまんで。まだ時間は16時ぐらい、お店はなんと9時からやられているのだそう(閉店は18時)。
松本さんも転勤族育ちとのこと、お互いの転校歴を披露しあったり、松本さんの忘れられない少年時代の恋物語を聞いたりして(笑)、酒が進む進む。松本さんもかなりの酒好きと見えて、クイクイいかれる。水道筋のいろんな酔っぱらい伝なんかも教えてくださって、実に面白かった。
シメに出てきた漬物寿司、うまかったなあ。寿し豊さん、必ずまた来ます。
2軒目に連れていってくれたのが『串天と創作家庭料理 あらたや』さん。写真があまりよく撮れてなくて申し訳ないが、大きななすのステーキが実にうまい。今度またじっくり伺って、名物の串天を楽しみます。ごちそうさまでした。
「水道筋で飲むならここも絶対に」と松本さんの熱い推し3軒目、スタンドバー『モンク』。ジャズピアニストのセロニアス・モンクから取られているようだった。
まず印象的なのが内装、照明やインテリアが凝られていてね。すべてご主人のセンスで調えられており、この方も雰囲気のある方だった。
モヒートチューハイをお代わりしつつ、ここでもまた松本さんといろいろ話し込む。つまみは肉味噌きゅうり、気取らないアテがあるのもいいなあ。水道筋のいろいろなお店や土地の歴史のこと、たっぷりと伺えて貴重な時間となりました。お互いダイナ・ワシントンが好きということが分かったのも嬉しく。
松本創さん、本当にありがとうございました! あらためて感謝です。ご迷惑でもまた水道筋来ますんで、ぜひまた飲んでやってください。
3日目、神戸朝飲みからの京都『きみや』へ
今回の旅は「しっかり休んで、楽しもう」と決めていた。
そのために「欲張らず、食べすぎない」を徹底したのが我ながらよかったな、と。せっかくの関西と毎度食べすぎて胃が疲れて、結局翌日をあまり楽しめない……なんてことのないように(これでも)気をつけていたのだ。
さて関西3日目、ひと晩ぐっすり寝て回復! 起きて自分が神戸にいることがなんとも嬉しかった。10時過ぎにホテルを出て、行ってみたかった『皆様食堂』に向かう。
ああ、きょうもよーく晴れている!
入ってみれば、7席ぐらいのUの字カウンターに先客が5名ほど。壁いっぱいに品書きが貼られてなんともいい光景だ。
「お兄ちゃん、どうする?」とご主人。
赤星を頼んで、水なす漬けにハムエッグをオーダーした。向かいでは20代とおぼしき男性3人連れがすでに赤ら顔で楽しく飲(や)っている。これが神戸弁なのかなあ……なんて思いつつ、耳に入ってくる言葉を聞いていた。土地の言葉を感じつつ飲めるとき、私はたまらなく嬉しくなる。
目の前には大きなおでん鍋があった。厚揚げを頼んだらこれがうまいッ。 関東煮系の黒い汁、だけど味はあっさりめ。ウィンナーに大根も追加で頼んで、ビールが進む。店の空気も含めてたっぷり楽しんだ。
店を出て神戸のまちを歩く。ただウロウロしただけで、相変わらず日差しは強烈だったが、楽しかった。神戸は心浮き立たせる力が強いね。
『群愛飯店』で遅めのランチをいただき、14時過ぎぐらいまで神戸をぷらぷら。回鍋肉、うまかったなあ。明石に行こうかと一瞬思ったが、神戸三宮駅で京都行きに思わず乗ってしまう。車中でかなりの距離を寝る。神戸三宮から河原町手前ぐらいまでの睡眠でビール2杯の酔いがすっかりさめる。
京都はその日、最高気温が37度。うだるような暑さとはまさにこのこと、河原町はどんよりとして熱気があちこちでとぐろを巻いているように思えた。17時の開店を待って、いつもながらに『きみや』へ駆け込み、トマト酎ハイでクールダウン。今回もまーくん(お店のご主人)に「おかえり」と言われて地味にうれしい。私が日本で一番好きな居酒屋さんである。この店については泡☆盛子さんと共同で作ったZINE『酒好文集』に詳しく書いたので、よかったら買ってください。
そうそう、京都では『鍵善良房』の「河原撫子」もいただいた。しばし見入る。好きなんですよ、この色、このデザイン。
丁寧で良質な、鮮度のよい和菓子のおいしさよ。
ケーキには数百円を出しても、和菓子にはなかなか出さない、手がのびないという人も多いかもだが、ぜひ一度は良い和菓子を体験してみてほしい。
『きみや』に何時間いたんだろうか。あの店の一部になって、常連さんたちの楽しそうな表情に囲まれて、名物店員のまるさんのトークを聞いて、私はすっかり充たされた。さあ、そろそろ家が恋しい。鱧寿司をみやげに買って帰路へ着き、私の三都物語は終わりとなる。
長々おつきあいいただき、ありがとうございました。
配信は16日まで。よろしくお願いいたします