箔一創業者浅野邦子の思い出。前石川県知事谷本正憲様
石川県知事を7期28年にわたって務められ、地域の発展に多大な貢献をされてきた谷本正憲様(※1)。当社創業者の故浅野邦子とも親しく、様々な機会をとらえて広く情報交換を重ねていました。谷本様から見た浅野邦子の思い出を語っていただきました。
ともに関西出身ということもあって、同志だと感じていました
谷本正憲 前石川県知事、石川県公立大学法人理事長(以下、谷本)
浅野邦子さんとお会いしたのは、私が石川県知事に初当選(※2)したころでした。様々な団体に挨拶にまわっている際にお話しする機会を得ました。
浅野達也 株式会社箔一代表取締役社長(以下、浅野)
谷本さんの初当選が1994年ですから、ちょうど私が米国から帰ってきて、箔一に入った時期にも重なります。母もまだ、伸び盛りの経営者といった時代でしょうか。
谷本
浅野さんは、当時からとても目立っていました。華があるし、どんなこともストレートに発言されるのが気持ちよかった。
浅野
母からも、谷本さんのお話をよく聞かされていました。いつも気にされていたように思います。
谷本
私は、もともとは兵庫県出身。自治省(現総務省)から副知事として石川県に赴任したことがご縁でしたが、思いもよらず知事選に立つことになりました。知事になったときはまだ、こちらで2年しかたっていませんでしたから、地域のことを勉強しなければならない。浅野さんにもいろんなことを教えていただいた。
浅野
当時はまだ、箔一もさほど大きな会社ではありませんでした。
谷本
浅野さんは、立場に関係なく、誰にでも率直に物を言う方でした。いつも激励していただいているように思っていました。それに、彼女は京都のご出身でしょう。お話をしていると、なんとなくイントネーションで分かるわけです。同じ関西出身ということで、理屈抜きで意気投合しました。同志のように思える関係でした。
浅野
地縁も血縁もなく、孤軍奮闘していたという意味で共通点が多かったのかもしれません。
谷本
お会いすると、知事頑張れ、次の選挙も出なさい、応援するからと、はっぱをかけられていましたよ。
浅野
お二人とも、良い意味で金沢らしくない面を持っていました。
谷本
お母さんは、何事においても積極的でした。それは、この地においては貴重な存在だったと思います。遠慮することなく、“適度なあつかましさ”をもって行動的なのが、浅野さんの魅力だと感じていました。
浅野
どうしても地元の人は、上品で礼儀正しい反面、やや引っ込み思案になる傾向があるようにも思います。
谷本
この地域では、目立つことがマイナスに捉えられることもあります。だけど、浅野さんは、目立つことを怖がらなかった。どんどん前に出て、積極的に発言するのが彼女らしさだった。覚悟を決めてやっていたのだと思う。
経団連で講演する機会を、浅野さんに作ってもらった
浅野
自分の想いを、自分の言葉でしっかりと伝えようとするのは、母の生涯一貫した姿勢でした。
谷本
それが、浅野さんの真骨頂ですよ。目配り、気配りもしつつ、好奇心が旺盛で、関心があればどんどん声をかけて飛び込んでいく。そうした良い意味でのあつかましさは、関西人の気質かもしれませんね。
浅野
それは、年を重ね、やがて経団連(※3)に入ってからも変わりませんでした。
谷本
浅野さんは、経団連で地域経済活性化委員長を務められたでしょう。その時も、知事室によくおいでになって、地域活性化とはなんぞやという話を一生懸命質問されていました。
浅野
中小企業の経営者で、経団連の理事になったのは浅野邦子が史上初です。周囲は、売上何千億もあるような企業のトップばかり。そういった中で苦労したようですが、謙虚に勉強する姿勢があったからこそ責任を果たせました。
谷本
勉強熱心でしたよ。知りたいからといって、知事室まで訪ねてくる人はなかなかいない。すごいことですよ。人間はある程度年齢を重ねたら、知らないことを認められなくなるでしょう。ましてや、人に頭を下げて教えを乞うなんてできなくなる。体面もあるし、おっくうになってくるんです。でも、浅野さんは違った。謙虚だし、勉強熱心だった。
浅野
そういった謙虚さと行動力は、生涯変わることがありませんでした。
谷本
私はね、経団連の頃、浅野さんには、あなたらしくやればいいとお伝えしました。経団連は、大企業のトップが集まって、偉い学者さんを呼んだりして議論するような場所でしょう。そんなところで、同じ目線ではりあったってしょうがない。それよりも、石川県で経験してきたことを、率直に伝えることが大事だし、それがまさに地域経済活性化そのものなんですよ。
浅野
その通りですね。母は昔から、議論よりも実践という人でした。ですから、言葉はとてもシンプルでも、本質を突くようなところがあったと思います。
谷本
浅野さんが、経団連で私の講演をセッティングしてくれたことがありました。さらに幹事があつまる昼食会にも出席させていただきました。県知事といえども経団連の方々と接点を持つのは容易ではない。日本経済界のトップの人たちと話ができたのは、私にとっても、石川県政にとっても大きな意味があったと思っています。
浅野
自分が主役にならず、谷本さんに話していただいたのも母らしいです。テーマに応じて、誰に話を聞けばいいかかぎ分ける嗅覚のようなものもありました。
谷本
経団連に集うのは、大企業のトップばかり。みな忙しいから、一目会うことだって難しい人たち。そうした人たちが勢ぞろいする前で、石川県の話ができたのは実に意義深いことでした。当時はね、財政規律を問題視する人もいて、新幹線などは無駄な公共投資だという論調もありました。それを、北陸新幹線(※4)ができて石川県がどれだけ変わったか。こうしたインフラがいかに貴重で費用対効果の高い投資なのか、数字で示しながら、しっかりお話しできました。ほとんどの人が私の話に賛同してくれましたよ。
浅野
母は経団連に入っても、そこで名を売ろうとか、商売に結び付けようとか、そういう下心を一切出さない人でした。純粋に地域のためを思って動いたからこそ、そうした企画も実現できたのでしょう。
谷本
浅野さんには、我田引水というところがまったくなかった。私の講演に関しても、仲介の労は大変だったと思います。浅野さんは黒子に徹して、実にきめ細かく動いていただきました。
浅野
経団連のような組織を動かすのは、大変だったと思います。ただ、当時の榊原会長(※5)をはじめ応援してくれる人も多かったと聞いています。
谷本
私利私欲ではなく純粋に地域経済のために動いていたから、誰からも信頼されたのでしょう。
浅野
みなさん出張で北陸にこられると、よく一緒に食事などもしていたようでした。
浅野さんの果たした功績に、異を唱える人はいない
谷本
浅野さんは何事にも積極的だし、率直で人の心を開かせる力がありました。相手が大企業のトップであっても、まさに適度なあつかましさで、何事もはっきりと発言していた。それでいて、決して相手を嫌な気持ちにさせなかった。
浅野
純粋な思いをもって動いていくことで、少しずつ仲間を増やしていく。最初は小さな動きでも、それを広げていって、やがて世の中に大きな影響を与えていく。そうした動き方は、生涯一貫していたように思います。
谷本
浅野さんは京都から嫁いで来られて、それまで素材の一つでしかなかった金沢箔をブランドに育てあげられた。それもたった一人で始めて、やがては日用品から化粧品、食品、建築の世界にまで広げられた。これは、浅野邦子の功績ですよ。異を唱える人は誰もいないんじゃないか。
浅野
かつての箔業界は、とにかく注文が来たものを作って納めるという発想しかありませんでした。
谷本
それを変えたのは浅野さんの力です。日本全国を見渡しても、女性がたった一人で起業してここまでの産業に育て上げたというのは実に稀なケースなのではないか。ましてや、製造業においては聞いたことがない。
浅野
それでも、最初は本当に苦労をしました。
金沢箔工芸品といっても、まず地元では全く相手にされず、東京など都会のデパートに売り込みに行きました。もちろん都会の方が、新しいものには敏感なのですが、アポイントもなく都会のデパートに押しかけていっても、まず会ってももらえない。そこをこじ開けてきたのは、執念としか言いようがありません。
谷本
ものすごい苦労を乗り越えてきたことが、彼女の自信になっていったのでしょう。ふつうは、あつかましいというと、あまり誉め言葉には聞こえない。でも浅野さんのあの適度なあつかましさというのは、美徳だったと思います。
浅野
金沢はとかく上品で奥ゆかしいことが尊ばれる地域です。でもそれだけでは、新しいものは生まれません。
谷本
私は伝統工芸という名前も良くないと思っています。どこか古臭くて、文化として保護されるものといったイメージもある。浅野さんは、伝統を換骨奪胎して、現代のニーズに合うものに作り替えられた。仏壇仏具に使われてきた金箔を、テーブルウエアにし、建築にし、化粧品や食品にも広げていった。言葉にするのは簡単だけど、想像を絶する苦労を重ねてやり抜かれた。それは、本当に立派なこと。浅野さんの功績は誰もが認めています。
浅野
そうした功績を受け継いでいくのが、私たちの役割です。
個性あふれる中小企業が、地域経済活性化の主役になる
谷本
これからは、付加価値が高いものとは何かが問われる時代になります。
高度成長期からバブル期までは、地方は都会に追いつけ追い越せという考えでした。それがバブル崩壊で、先行きが不透明になった。そこから地方は、自分の個性をどうやって磨いていくかが課題に変りました。政治的にも、地方分権を進めようという流れができた。
浅野
量よりも、質を重視する流れは、ますます強まっているように思います。
谷本
特に地方経済では、オールラウンダーの大企業は少ない。反面、個性豊かな中小企業が多くあります。石川県の経済を担っているのも、ほとんどが中小企業。こうしたところが、どうやって技術を生かし、個性を磨いていくのかが課題になってくる。そういった意味では、浅野さんがされてきたことは一つのお手本になると思う。
浅野
ある面では、地方経済活性化のさきがけをやっていたのかもしれません。
谷本
中小企業がどうあるべきかという、大きな希望を示したと言えるでしょう。そういう面でも果たした功績は大きかった。いま、ほかの業界でも、ずっと下請けでやっていたところが、自分たちのブランドを築いていこうと挑戦を始めるケースが増えています。浅野さんはその先駆けですよ。そうした考え方の経営者が増えれば、地方は活性化します。
浅野
母は、現代的な感性にあわせながらも、アナログの手づくりも大事にしてきました。そうしたこともいま価値を生んでいるようにも思います。
谷本
私が知事になった際、特に石川県にゆかりのある人たちに多くのアドバイスをいただきました。その時にみな口を揃えて言うのが、石川県の特筆すべき点は文化の集積であるということです。これは他の追随を許さない。だから、この文化に磨きをかけることが知事としての仕事だと。
浅野
母もまた文化を磨き、これを産業として独り立ちさせることにこだわっていました。伝統文化として保護されるような弱々しい存在ではなく、力強く自分の足で立てる産業にしたいと。
谷本
まさにその通りで、元気な産業は、みな伝統を守るだけではなく新しいチャレンジをしています。中身を見れば、かつてとは全く違うものに入れ替わっている。
浅野
守ることと変えることのバランスが大事です。日本独自の価値観や、美意識、歴史、文化、そうしたものを形として見せられるのが伝統産業の強みです。そのためには、アナログな手作りの部分も大切にしていかなければなりません。
谷本
石川県は、文化の集積がある一方で、これまで交通の便が悪かった。三大都市圏から見たら、遠隔の地というイメージがありました。だから新幹線をはじめ、港や空港を整備することで、もっとそのポテンシャルを発揮できる。それはずっと取り組んできたことです。
浅野
谷本さんが知事をされていた28年間に、能登空港(※6)ができ、金沢港(※7)が整備され、北陸新幹線も開業しました。その期間に、金箔は石川県を代表する産業に育っていった。谷本さんと母は、それぞれの立場で石川県を盛り上げる仕事をされてきたと言えるかもしれません。
谷本
浅野さんとは、年齢が一つ違いです。ただね、同世代というと浅野さんに叱られましたよ。私のほうが1年若いと。あなたは酉年、私は戌年だと。そんな話もしながら、一緒に元気で長生きしようと話していたのに、残念です。
浅野
母は、人前に出るときは常に元気にしていましたが、ここ数年、体調は決して良くはありませんでした。闘病も長く続いていました。抗がん剤を服用していましたが、これも副作用がひどく、外見も大きく変わります。結局最後は、自らの意思で抗がん剤をやめました。
谷本
自分の生き方を、自分で選んだ。その潔さも浅野さんらしい。
浅野
いつも明るく元気で華やかな人でしたから。最後まで自分らしくいたかったのだと思います。
先代の想いをしっかりと継いで、止まることなく挑戦してほしい
谷本
2023年の初めに、テレビ番組に出演されているのを拝見しました。とても良くできた番組(※8)で、いい親孝行をされたと思います。
浅野
あれは2022年の末の撮影でした。そのころは、医者の見立てでは年を越せるかどうかというところでした。そういったなかでも、ああやって元気な姿を残せたことはとてもよかったと思います。そのあと、身の回りのことをきれいに片づけて、2月に旅立っていきました。みなが忙しい年末年始をあえて避けたようにも思います。
谷本
浅野さんらしいですね。人に迷惑かけちゃいかんと。ただ大事なのはこれからのこと。浅野社長としての新生箔一のスタートとしなければならない。
浅野
生前、母にはよく叱られましたし、はっぱもかけられてきました。自分としては、認めさせたいという反骨心もあり、それがモチベーションになっていた面もありました。
谷本
ただもう、叱ってくれる人もいなくなるわけですね。社長が決めたら、あとはもうだれも訂正できない。そう思うと、背負うものの大きさも変わってくる。
浅野
すでに15年間社長を務めていますので、覚悟はできています。ですが、会長がいなくなることで、感覚的なものは大きく変わりました。
谷本
先代の意思をしっかり継いでいってほしいと思います。それは、技術開発、商品開発を続けることです。新しい価値を提案しながら、金沢箔の良いところも守っていかなければならない。箔一のような会社は、決して止まってはいけません。浅野さんは、片時も止まることがない人だった。だから、箔一も止まってしまったら絶対にだめです。
浅野
2025年は節目の年で、箔一は創業50周年を迎えます。そこに向けて、会社をもう一度創業するくらいの気持ちで、挑戦していかなければなりません。
谷本
箔一という社名の意味は、何事も一番にやるということでしょう。また、オンリーワンの「一」でもあるかもしれない。浅野さんの想いをしっかり守って、“適度なあつかましさ”を受け継いで頑張っていってください。
浅野
ありがとうございます。50周年に向けて、新しい箔一をお見せできるように頑張ります。
※1
谷本正憲
1945年生まれ。京都大学法学部卒業。前石川県知事(公選第13~19代)。7期28年にわたって石川県知事を務める。2022年3月任期満了後勇退を表明。退任後は石川県公立大学法人理事長に就任。2023年旭日大綬章を受章。
※2
初当選
自治省職員時代の1991年に石川県に出向し副知事に就任したが、1994年当時の県知事であった中西陽一氏が急逝。同年の知事選に立候補し初当選。
※3
経団連
一般社団法人日本経済団体連合会。日本を代表する大手企業およそ1500社で構成される経済団体。浅野邦子は2016年に経団連審議員会の副議長に就任。経団連の女性理事は史上2人目。中小企業の経営者としては初めて。
※4
北陸新幹線
2015年3月14日に長野駅-金沢駅間が開業。金沢駅-東京駅が最短2時間27分で結ばれたことで、石川県の交流人口が大幅に増加した。
※5
榊原経団連会長
榊原定征氏。2014年から2017年まで経団連の会長を務める。浅野邦子を経団連の役員に抜擢した。榊原氏との対談は下記より。
https://note.com/hakuichi/n/n8cb4412331d5
※6
能登空港
石川県輪島市、穴水町、能都町にまたがるエリアに位置する。2003年7月7日に開港。開港15年目には16万人以上が利用した。
※7
金沢港
石川県金沢市。当初は木材港として計画されたが、その後改修を重ね、日本海側における貿易の重要拠点となった。いまでは、豪華客船の停泊港としても広く活用されている。
※8
テレビ番組
NHKの人気番組「探検ファクトリー」(初回放送日: 2023年1月14日)に「箔一」が取り上げられた。浅野邦子の最後のテレビ出演となった。
https://www.nhk.jp/p/ts/Y5G7RL6WX3/episode/te/L88MXZP4N9/