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創業者浅野邦子の思い出。経団連名誉会長榊原定征様

経団連名誉会長の榊原定征様に、東京都内にてお話を聞かせていただきました。榊原様は経団連会長を務めていた2015年に、故浅野邦子(箔一会長)を役員に抜擢されました。女性が経団連役員を務めるのは史上2人目、中小企業経営者としては初めてという異例の人事でした。経団連の活動を通じて浅野邦子との交流について、お聞かせいただきました。(※1~3)


初めてお会いした時から、浅野さんはキラキラと輝いていた

経団連名誉会長 榊原定征(以下、榊原)
浅野さんの訃報を聞いたときは、驚きました。

箔一代表取締役社長 浅野達也(以下、浅野)
実は3年近くも闘病生活を送っていたのですが、最期まで人前で弱いところを見せたくないと、病気のこともできるだけ伏せていました。亡くなる半年前には、抗がん剤もやめました。抗がん剤を打てば、どうしても副作用があります。顔色も悪くなるし、髪も抜ける。そうした姿が自分らしくないと感じていたようです。

榊原
そうだったのかもしれませんね。私の知る限りでは、お元気な印象しかありません。メールでやり取りして「また東京にも行きますから、お会いしましょう」なんて話もしていましたから。

浅野
元気でしたし、本人も病気を治すつもりでした。
それでも人に会ったあとなどは、ぐったりして寝込んでいることもしばしばでした。

榊原
浅野さんは、いい加減なことができない人でしたから。つい無理をしてしまうことも多かったのでしょう。

浅野
榊原さんは、母と初めて会われたのが2014年の事でした。

榊原
そうです。経団連の会長になった2014年に、地域の経済人と懇談のため各地へ訪問していました。その時、北陸で浅野さんとお会いしました(※4)。会合では北陸経済界の重鎮が並び、みなさん風格というか大物然とした印象がある。その中で、浅野さんだけはキラキラと輝いて見えました。よく発言もされたし、意見も斬新でした。「北陸に素晴らしい人がいるな」と強い印象を持ったのを覚えています。

第14回北陸地方経済懇談会(2014年、金沢市にて)

浅野
2014年のころは、地方経済はまだよくない時期でしたね。

榊原
当時の安倍政権が、地方創生に取り組み始める時期でした。あの頃は、本当に厳しい地域もありましたね。

浅野
北陸は新幹線開業直前で、厳しいなかにも期待感がありました。ですが、母には問題意識もあったようです。他力本願ではなく、自分たち自身が良くなるための努力をしなければならないと。当時、ちょうど安倍政権でも、地方創生や女性活躍をテーマに日本を再興しようとしているところでした。


浅野さんしかいない、と思って役員をお願いしました

榊原
2015年になって、経団連会長として初めての人事に着手しました。女性に入っていただこうと、まずブリッティッシュテレコムの日本法人代表だった吉田春乃さん(※5)に役員になっていただきました。彼女が経団連の女性役員第1号です。グローバルに活躍された素晴らしい人でした。もう一方で、地域経済活性化の核となる人が必要だという思いから、2016年に浅野さんをお迎えしました。地方創生や女性活躍というキーワードを聞いて、すぐに思い浮かんだのが浅野さんでした。

浅野
母には「本当に自分で良いのか」という思いもあったそうです。

榊原
もちろん経団連として異例な人事だったのは、間違いありません。ですが、私はどうしても浅野さんがいい、と思っていました。

浅野
私たちは地方の中小企業です。会社の規模も知名度も、ほかの経団連加盟企業に遠く及びません。

榊原
そんなことは気にもしませんでしたよ。浅野さんの構想力、発信力、パワーといったものに、とにかく期待をしていた。

浅野
榊原さんは、母の人間性そのものを見ておられたようにも思います。

榊原
まさに、その通りです。浅野さんという人物そのものに魅了されていたのです。2015年の暮れに事務局を通じて打診をし、前向きな感触だったという報告を聞いて、すぐに電話をかけました。
「本当に私でいいのですか?」とおっしゃられるので、
「もちろんです、浅野さんじゃなきゃだめなんですよ」と返事しました。
「榊原さんがそこまでおっしゃられるなら」と承諾をいただきました。


浅野
母はそれでも不安だったようです。
経団連の役員が大役だということは理解していましたが、実際にどのようなものかもわかっていなかった。

榊原
経団連は1500もの大企業の会長や社長が集まる場所ですから、「うちのような小さい会社でいいのか」と、聞かれたこともありますよ。でも、心配ないですよと。これからの日本は、地方創生が欠かせない。起業家を育てなければならない。女性が活躍しなければならない。中小企業が元気でないといけない。じゃないと、日本が元気にならないんです。浅野さんは、そのすべてをやり遂げたチャンピオンじゃないですかと。自信をもってやってもらいたいんですと、想いを伝えました。

浅野
地方経済というのは、とかく保守的になりがちです。目立つとたたかれる面もあります。母は、箔業界でも新参者でしたから、あちこちで肩身の狭い思いをしてきました。日本財界のトップである経団連会長からチャンピオンだと言われるのは、うれしかったでしょうね。

榊原
保守的なものを、変えてほしかった。
経団連の役員になることで、ついてくる「格」というものもあるし、役員だからできることもあります。それはね、浅野さんが自分の力で手に入れたものなんですよ。だから、堂々とやってほしいと伝えました。たった一人で事業を立ち上げた、やり遂げたんだと。自信を持ってほしいと。

浅野
それでも、実際には苦労も多かったようです。

榊原
2016年の秋ごろでしたかね。時間をとってほしいと言われました。
何事かと思うと「やっぱり私、自信がない」とのことでした。「私では無理だ」とおっしゃられるのです。その時も、何を言っているんですかと。あなたはチャンピオンなんだから。地方創生、女性活躍、起業、中小企業活性化のすべてを一人でやってのけたすごい人なんだから、自分らしさを出して、自信を持ってやってくださいよ、とお話しました。

浅野
その頃はまだ勝手がわからないということも多かったようです。会議なども負担が大きいように見えました。

榊原
夏季フォーラム(※6)で幹事役をお願いして、グループディスカッションの委員長もやっていただきました。大変だったのはわかりますよ。経団連のメンバーは、みな大企業の社長や会長です。周囲には支えてくれるスタッフが大勢いて、原稿などもみんな作ってくれます。ですが浅野さんは、ほとんど自分でされておられました。

浅野
あの頃は、本当に勉強をしていました。
もともと真面目で勉強熱心でしたが、余計に自分を追い込んでしまったのかもしれません。

経団連夏季フォーラム(2016年、軽井沢にて)

榊原
よく発表の資料を事前に持ってこられていました。これで良いか見てほしいと。内容を確認すると、とても良く考えられています。だから、もちろんいいですよ、これでやりましょうよ。といつも言っていました。浅野さんは、すごい人ですよ。大会社だと、スタッフが原稿を作って、レクを受けて話をします。人材と時間を費やして練ったものだから、良いものになります。でも浅野さんは違いました。自分の想いや考えを、自分の言葉で堂々と発表されていた。だから、説得力が抜群でした。

浅野
私もそれが、彼女らしいスタイルだと思います。


アイデアと実行力が、経団連を活性化させました

榊原
浅野さんには、役員2年目に地域経済活性化委員会の委員長になってもらいました。野村ホールディングスの古賀会長(※7)との共同委員長でした。その時も浅野さんは、素晴らしいアイデアをたくさん提案されて、委員会は大変に盛り上がりました。「地方経済の中でも、特に遅れているのは北海道と四国、北陸だ」と。「だから、この地域を対象に中央と地方を連携させる地域経済活性化連携というのをやろうよ」と提言されました。
それはいい、ということで、地域の活性化のために連携協定を結びました。もちろん古賀さんの力も大きかったですが、浅野さんのアイデアと実行力は頼りになりましたね。

浅野
彼女は、だれにも頼れないというところから事業を立ち上げました。自分で考え、自分で動くというのが骨身に染みついているのでしょう。

榊原
実務で生きてきた人ですから、提言して終わりではないですよね。言ったからには実行したい。実行するからには成果を上げたい、と考えられていた。その姿勢は立派でしたよ。

浅野
会社でもそうですから。周りもついていくのが大変でした。

榊原
そうでしょうね、よくわかりますよ。
それと浅野さんは人柄も素晴らしかった。率直だし人によって態度を変えない。だから誰とでも仲良くなる。地域経済との連携でも、みな短い時間で胸襟を開いて信頼関係を作り上げていました。

浅野
地域経済については、経営の苦労もわかるでしょうから。本人も楽しんでいたのではないかと思います。よく、良い刺激をもらってきたようです。


榊原
最初のころは、ほんとに大変だったと思いますよ。私もお会いするたびに、声をかけていました。それでも会議には必ず来られ、出席したら積極的に発言もしていました。

浅野
母の残したものの整理をしていると、ノートがたくさんでてくるんです。見るとぎっしりとメモが書いてある。本当に真面目でした。会議も必ず出席し、出たらきちんとメモを取って、夜に清書する。ある程度の年齢になって社会的なポジションを得ても、謙虚に勉強する姿勢は変わりませんでした。


華やかなファッションで、会議の雰囲気も変わりました

榊原
経団連役員の会議は、男ばっかりなんですよ。大企業の社長会長がずらっとならぶ。壮観ですが、反面堅苦しくてちょっとした冗談も言いにくい。それが、浅野さんがいらっしゃったことで、雰囲気が大きく変わりました。浅野さんは、ファッションセンスも素晴らしかった。華やかな色彩の服を好まれて、それが実によく似合っていました。しっかりと発言もされるし、会議の雰囲気ががらっと変わりましたよ。

浅野
経団連の役員になったのは、吉田春乃さんが史上初で、母は2番目でした。いずれも榊原さんが断行された、前例のない人事です。相当な勇気が必要だったのではないですか。

榊原
まだまだ日本の大企業には女性のトップが少ない。吉田さんは、ブリティッシュテレコムの日本法人の社長でした。グローバル企業で、イギリス本社の社長とも経団連の世界会議での面識があり、吉田さんを経団連の役員に起用することの事前了解をいただきました。浅野さんの場合は、私の完全な1本釣りです。本人さえOKならやってもらおうと。

浅野
母からは、榊原さんの話をよく聞かされていました。いつも勇気づけられていたと。というのも、母は一人で事業を立ち上げ、常に背伸びをして無理をしてきました。榊原さんに「自然体で、そのままでいい」と言われたのが、とても嬉しかったのだと思います。

榊原
いろいろ大変なのは、当然ですよ。でもね、浅野さんは本当に人気がありました。大企業のトップが、みんな浅野さんのことが大好きでした。用事があって金沢に行くときには、誰もが浅野さんに会えるのが楽しみだと言っていました。浅野さんが企画して、10人くらいで風の盆(※8)に招待いただいたこともありました。とても、気持ちの良いもてなしを受けました。そういう心配りもしっかりされる方だった。

浅野
経団連の皆さんとの交流は、母もずいぶん楽しみにしていました。

榊原
いまの経団連会長の十倉雅和さん(※9)も、金沢に行くたびに浅野さんに会っていたと。すごい人脈ですよね。誰に対しても、人を警戒させない。気さくでフランクな方でした。

浅野
母は、駆け引きや損得勘定で人と付き合うことはありませんでした。そうした性格が、心地が良いのかもしれません。

榊原
私も箔一に会社訪問をさせていただいたし、いろんな話もしました。若い時代の事から、京都から金沢に嫁入りされた話。達也さんの話も、ずいぶん聞きました。いろいろご苦労もされて、そのうえで成功された。立派ですよ。


ものづくり、という点で通じ合うものがあった

浅野
いまでこそ、金沢と言えば金箔というイメージが確立されましたが、母が事業を始めるまでは全くそんなことはありませんでした。金箔のことなど、誰も気にしていなかった。輪島塗や加賀友禅、九谷焼などは知られていても、金箔の知名度はほとんどありませんでした。


榊原
その業界を一新されたのだから、大変な功績だと思います。

浅野
当時の箔職人たちは、箔を仏壇屋などに納めるのが仕事だと考えていました。それでは業界がどんどん縮小していきます。そこで母が、お皿やお箸など、日常使うものに箔を使うようにしていった。当時、高級な金箔を日用品に使うことで、バッシングも受けたようです。でも母は、京都から来た新参者。固定概念がなかったから、新しい発想ができました。

榊原
それが女性の力ですよ。日常生活の中にこういった美しいものがあると嬉しいというのは、男性社会からは出てこない。

浅野
職人には、箔を作って終わりという発想しかありません。それを一歩も二歩もすすめて、自分たちが欲しいものを作っていこうというのが、母のやったことです。ただ、当時は作ってくれる人がいなかったので、結局自分で作るしかありませんでした。それが、いまとなっては箔一の技術力として強みになっています。

榊原
よくわかります。私たちも同じですから。
私のいた東レ(※10)では、工場で大量の繊維という素材を作っています。素材には技術力が詰まっているし、それは差別化、競争力になる。だけれども付加価値はまた別のものです。素材だけ売っていても付加価値をつけにくい。

浅野
まさに母の感じていた課題と同じですね。榊原さんと母とは、ものづくりや改革者という意味で、通じ合うものがあったのかもしれません。

榊原
考え方が近かったし、共感できることがとても多くありました。

浅野
母も、経団連にいるときのほうが本音で話せることが多かったのかもしれません。

榊原
伝統的な業界は、どうしても保守的になりますよね。浅野さんはそれを完全に飛び越えておられた。いまや誰もが認めていると思いますが、本当に理解されるにはまだ時間がかかるでしょう。それは、先駆者の宿命ですよ。

浅野
世界で活躍している経営者に、自分の考えを聞いてもらうことが良かったのだと思います。母の発想は、周りが理解できないことも多いですから。

榊原
浅野さんは、本当にいろんなアイデアを持っていました。
会議のあとでも、「よろしいですか」と呼び止められて、「もっとこうしたい」「ああやったらどうだろうか」とおっしゃられる。「いいじゃない、ぜひやってくださいよ」といつも話していました。

浅野
経団連には、そうしたものを受け止めてもらえる器の大きさがありました。母にとっても、心地良い居場所だったのでしょう。

榊原
そう思いますよ。初めの1年は慣れないこともあって大変だったと思いますが、2年目以降からは、まさに水を得た魚のようでした。初めは違和感を持っていた人もいましたが、そんな声は全くなくなり、誰もが浅野さんを受け入れて、敬意を払っていました。私は、浅野さんの叙勲(※11)もすごくうれしかった。彼女の頑張っている姿を、政府も見ていてくれたのだと思います。


浅野
母は、北陸の経済界のなかでは、ある程度の地位はありましたが、それでも地元ではなじめない部分もずっとあったと思います。

榊原
先駆者ですから。理解されにくいですよ。ですが、地域が良くなっていくには浅野さんのような人が必要です。

浅野
地方が保守的と言いながら、何を守ろうとしているのかも気になるところです。箔の業界のなかにも、昔ながらの慣習と言って、若い職人を安く使おうとする人もいます。母はそうではなく、職人をはじめから正社員として雇用し、暮らしを安定させるなかで技術を身に着けていけるように変えていきました。

榊原
さすが、浅野さんですね。素晴らしいことです。

浅野
業界の常識と母の常識は、違っていましたから。
業界では、職人に安く仕事をさせていたり、納品した商品が返品されてくることも当然と思われていましたが、母はよく怒っていましたね。


とても心配りをされる、優しい方でした

榊原
箔一さんの工場見学にも行きましたが、家族的でいい雰囲気だったことも印象的でした。

浅野
母が自宅で事業をスタートしたときから、スタッフは従業員というよりも、家族や仲間といった関係でした。女性活躍の点でも、創業時から当たり前のことで、柔らかな感性や手先の器用さといった、女性の強みをビジネスにつなげていました。

榊原
それが女性経営者の優れたところですよね。男性だと気付かないものがあります。経団連のスタッフにも、浅野さんはすごく評判が良かった。スタッフの一人ひとりにも、丁寧にあいさつして「どう、元気にやってる」と声をかけていましたから。それは、浅野さんの人徳でしたね。

浅野
会社でもそこは、ずっと変わらないですね。みんなで一緒にものを作ってきたという想いがあるのでしょう。母は、発想力に長けた人でしたが、スタッフの意見もよく取り入れる方でした。

榊原
浅野さんは、優しい人でした。もちろんズバッとものを言う人ではあるんだけど、心配りもすごくされた。工場見学に行った時も、上から目線で命令するのではなく、一人ひとりに考えさせ、また自分も一緒に考えるという感じでしたね。

浅野
決まりを作って、それを守らせるという考えではなかったですね。よく「箔は魚と一緒。捨てるところはない」と言っていました。その言葉を聞いて現場でどうするかは、みなが考えなければなりません。魚だったら、骨からだって出汁が取れます。箔の場合はどうなのか。大きな工芸品を作る際にでた端切れを、別の小さな工芸品に使うなど、ずっと一人ひとりが工夫を積み重ねています。

榊原
素晴らしいことですよね。そうした積み重ねこそが大事です。それが競争力や利益の源泉なのですから。

浅野
榊原さんとは、ものづくりが好きだというという点で似た者同士だったのかもしれません。

榊原
そうですよ。私もものづくりが好きですから、気持ちが良くわかりました。箔一さんの工場は2度ほど見学に行きましたが、やっぱり楽しいですよね。それに、しっかりした後継者がいらっしゃって、浅野さんも安心していることでしょう。


偉大な創業者の思いを、継いでいってください

浅野
母とは、比較的年の近い親子です。21歳の時の子供ですから。私が40歳になったときに、社長を変わってほしいと直談判したことがあるのですが、大げんかになりました。

榊原
当時は、浅野さんもまだ61歳ですか。まだバリバリにやれる年ですね。ですが、それこそが親孝行だと思いますよ。

浅野
伝統工芸の世界では、60歳でも若手といわれますから。それでも、会社をもっと前にすすめたいと思って、半ば無理やりに会長に上がっていただきました。

榊原
浅野さんは、経団連に参加してから、東京に住居を移されましたね。私は、良いことだと思いました。そのほうが、息子さんも自分の仕事に集中できるでしょうから。

浅野
物理的な距離が生まれたのは、良かったと思います。ですが、いまのように本当にいなくなってしまうと、まったく違う感覚があります。

榊原
浅野さんは、偉大な創業者ですから。それはそうでしょう。

浅野
私が社長になるべきだと考えたのは、決定権を握って仕事を進めるスピードを速めたかったからです。ですがいまは、決断が必要な時、母だったらどうしただろう、と考えるようになりました。日々、もう相談もできないことを実感します。

榊原
それが大事なことです。お母さんなら、どう考えただろうかと。その通りやるかどうかは別として、先人のやってきたことに思いをはせるのは大切なことです。私はね、浅野さんとお付き合いをしてきて、彼女は大企業のトップでも十分務まる器の持ち主だと思いました。それだけの人間の大きさ、幅の広さを持っていました。考え方もしっかりしていたし、なにより広い視野を持って判断できる人でした。まだまだ、活躍できるご年齢だったのに、残念です。

浅野
文字通りの、生涯現役を貫いた人生でした。

榊原
現役で美しいまま、老いた姿を人に見られることなく旅立たれた。もっと頑張ってほしかったという想いもあります。

浅野
これからも志を継いで、頑張っていきたいと思います。
本日は本当に、ありがとうございました。



注釈

※1経団連
一般社団法人日本経済団体連合会。日本の大手企業を中心に構成される経済団体。経済政策にも大きな影響力を持つ。企業会員1,494社、団体会員155、特別会員33(2022年4月1日)より構成される。

※2榊原定征(さかきばらさだゆき)
1943年生まれ。第13代経団連会長(2014年6月3日~2018年5月31日)。2018年より同名誉会長。2020年旭日大綬章受章。

※3経団連役員に抜擢
浅野邦子は2016年に経団連会長の諮問機関である審議員会の副議長に就任。経団連役員に女性が就くのは歴代で二人目、地方に本社を置く中小企業経営者では初めてとなった。

※4北陸で浅野さんにお会いしました
2014年の北陸地方経済懇談会にて。懇談会は経団連と富山県・石川県・福井県の企業で構成する北陸経済連合会(北経連)との間で意見が交わされた。

※5吉田春乃(よしだはるの)
1964年~2019年。イギリス大手電気通信事業者ブリティッシュテレコムの元日本法人代表取締役社長。2015年より経団連審議員会副議長。経団連史上初の女性役員となった。

※6夏季フォーラム
例年7月に軽井沢にて行われる経団連の夏季フォーラム。2016年は榊原会長のもと「GDP600兆円経済の実現に向けて~経団連ビジョン実行の加速」の統一テーマについて2日間にわたって討議が行われた。

※7古賀信行(こがのぶゆき)
1950年生まれ。経団連審議員会議長(2018年5月31日~2022年6月1日)。2023年旭日大綬章を受章。

※8風の盆
越中八尾おわら風の盆。富山県八尾市にて300年近く受け継がれるお祭り。哀愁を帯び幻想的な風情が独特で、会期3日間に20万人もの人が訪れる。

※9十倉雅和(とくらまさかず)
1950年生まれ。第15代経団連会長(2021年6月1日~)。

※10東レ
本社/東京都中央区日本橋室町、大阪本社/大阪府大阪市北区中島。大手化学企業。1926年東洋レーヨンとして創業。1970年より東レに社名変更。

※11叙勲
2018年浅野邦子は顕著な功績を挙げた人物に授けられる旭日単光章を受章した。


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