見出し画像

箔一創業者浅野邦子との思い出。Nシステムデザイン株式会社 奥村宣明様

2023年8月Nシステムデザイン株式会社  代表取締役 奥村宣明様と対談させていただきました。奥村様は、故浅野邦子(箔一創業者で会長)と35年にも及ぶ交流があり、箔一のITシステムの構築をお手伝いいただいてきました。浅野邦子との思い出について語っていただきました。

ずっと変わらないお付き合いをしていただいた

箔一浅野達也(以下、浅野)
本日は、お忙しいなかありがとうございます。早いもので、母が他界して半年が過ぎようとしています。

Nシステムデザイン株式会社奥村宣明様(以下、奥村)
存在感のある方でしたから、いまだに、いらっしゃらないことが信じられません。

浅野
奥村さんには、本当に長く助けてきていただいてきました。

奥村
初めてお会いしてから35年近くが経ちます。当時は私もまだ若く、地元のシステム会社の営業社員でした。ちょうど安原の工場ができたばかりの頃でしたね。

浅野
安原工場は1989年から稼働しました。まだWindowsも普及していない時代ですが、そのころから、すでに母はIT化を考えていました。当時、オフコン(オフィスコンピューター)などはものすごく高価で、地方の中小企業、ましてや伝統産業が導入するなどなかなか考えられない時代でした。それでも母は、最先端のシステムに積極的に投資をしていましたね。

奥村
あの頃、箔一さんはすごい勢いで成長しておられましたから、管理システムの必要性を感じていたのではないでしょうか。当時、私は営業でありエンジニアでもあるという立場でしたが、どちらかというとエンジニアという感覚が強くありました。会長の依頼は、技術者としては大変やりがいのある仕事で、かなり当時のSEと熱中して改善していたのを覚えています。

浅野
会長は、システムの事は詳しいわけではありません。だからこそ、そうした奥村さんの熱心さ、誠実さを見ていたのだと思います。それからずっと奥村さんを頼りにしてきた。

奥村
私は、その後独立して会社を起こすことになるのですが、会長にはずっとお世話になっております。起業してここまでやってこられたのは、浅野会長のおかげだと思っています。


本質をつかむのが、ものすごく早い方でした

浅野
私がいつも不思議に思うのは、会長はITについては専門外です。むしろ苦手なほうでした。それでも最先端のものを臆せず取り入れていった。そして、今から振り返ってみても、それらは的を射た投資だったと思うのです。なぜ、そんなことができたのでしょうか。

奥村
本質をつかむのが早い方でした。目指すところへのイメージが明確にありますから、それを達成するために必要なこともすぐわかったのでしょう。必要だと判断すれば取り入れるのは早かったですよね。それに勉強熱心な方でしたから、ご自分でも積極的に吸収しておられました。


浅野
苦手だからとか、年だからとか、そういったことは一切言わない人でした。

奥村
会長へのずっと変わらない印象は、とにかく強く真っ直ぐな人だということです。芯をしっかり持っていて、絶対にぶれない。いろんな方と会ってきましたが、これほど強い方はなかなかおられませんでした。

浅野
強かったですよね。良いときでも、悪いときでもいつも変わりませんでした。

奥村
そうした強さは、プレッシャーでもありました。少しでも気を抜くと、すぐに見抜かれて指摘されます。妥協もありません。会長の前では少しも油断してはいけないのだな、といつも感じていました。

浅野
社員に対してもそうです。ただ一方で、改善されていれば本当に嬉しそうに褒めていました。そういう点は、誰にでも態度を変えない人でした。取引先の方でも、箔一の社員でも気にかけて愛情を注いでいましたし、言うべきことは、はっきりと口にしていました。

奥村
優しくもあり、厳しい方でもありましたから、近くで仕事をしてきた人は大変だったのではないかと思います。ただ、会長が亡くなられたとき、たくさんの昔の社員の方が葬儀に来られていたのが印象的でした。皆が会長のことを話しておられました。悲しい場ではあるのですが、会長の思い出話をするとつい表情が緩んでしまうこともある。これも会長の人徳なのだろうなと思いました。

浅野
それぞれに、想いがありますから。誰に対しても、愛情を注いできた方でもありました。


奥村
相手が心配だし、良くなってほしいと思うからこそ、厳しく言うこともありました。ですが、そのあとずっと気にかけていたし、フォローもしっかりされていましたね。

浅野
奥村さんは、忘年会や研修旅行なども一緒に来ていただいていましたから、箔一の社内の事情も良くお分かりです。会長は、奥村さんは大切な仲間の一人だと思っていました。


会長の温かさが、箔一の良い社風になっています

奥村
そうした会長の人柄も、箔一の社風になっていますよね。私の父が亡くなったときにも、会長、社長をはじめ箔一からたくさんの方々に葬儀に来ていただきました。そのことを、とても感謝しています。単なる取引先としてのお付き合いではない、とても温かい心遣いを感じました。普通の企業では、こうしたお付き合いの仕方はなかなかできません。

浅野
会長は、たった一人で誰も頼れないところから事業を始めました。だから、手伝ってくれる人、助けてくれる人には、感謝の気持ちが強かったのだと思います。ある程度会社が大きくなると、仕入先なども増えていきますが、そうした考えは全く変わりませんでした。

奥村
相手を信頼するから、会長自身も信頼される。そうして絆を深めるから、仲間意識を育てていける。周囲を盛り上げていくのも上手でした。箔一がまだ小さかった時にも、会長を中心にものすごいエネルギーがありました。


浅野
厳しい状況でも、全員が一丸になって頑張って、やり遂げたら美味しいものを食べに行って盛り上がるといった、本当に濃密な仲間意識がありました。50年近く前の時代の話で、更に会社がまだ少人数だからできたことでもあります。現在の箔一は企業ですから、仕組みやルールに則って運営しなければならない。それは、進化をしてきたことの結果なのですが、まだ会社の規模が小さかった頃の、あの雰囲気は印象に残っています。

奥村
ここ数年でコンプライアンスなども厳しくなりました。働く人の意識も、プライベートをより大切にするようになっています。経営者は、成果に直接結びつかないようなことにも大きな労力を費やさないといけない時代ですから、皆大変です。

浅野
時代の流れとしては、むしろ良くはなっているのでしょう。箔一としても、働きやすい企業であるために、率先して環境を整えています。ただ、創業のころのあのエネルギーというものも大切にしたいと思っています。

奥村
昔は、ある意味で「野武士集団」でした。個性的な社員が揃い、それぞれが強いエネルギーをもってどんどん前に進んでいくイメージです。社長の代になって、それが組織に変わっていきました。仕事の仕方もずいぶん仕組み化され、効率的になったように思っております。

浅野
箔一が成長を続けていくなかで、東京営業所ができ、食材や建材などの事業も大きく伸びていきました。取引先も大企業や世界的なブランドが増えていき、仕事に要求される水準も上がっていきました。業務範囲の拡大と、要求水準の高度化が同時に進んだわけですから、箔一も進化しなければ対応できません。マネジメントの考え方を取り入れ、仕組み化していくのは必然だったと思います。


奥村
私はそれも、会長の想いを形にしていくために必要なプロセスだったのだと思います。会長は、目標に邁進していくエネルギーはすごいものがありますが、組織を整えていくのは社長のほうが上手でした。

浅野
それも行き過ぎてはいけないとも思っています。
ここ数年はパンデミックの中で、テレワークも当たり前のことになっています。それが進めば、組織と個人の関係性もドライなものになるでしょう。個人主義が浸透していくと、転職やレイオフなども当たり前のことになっていきます。私は、そこまで割り切れない。皆が箔一の仲間としての意識を持って、団結して一つの目標に向かっていくという組織でありたいと思っています。創業期のような、強いエネルギーを失わずに持っていたい。


本当に強く、曲がらない方でした

奥村
箔一の個性を守りながら、いまの時代に合わせていくというのは、簡単なことではありません。ただ私は社長がされてきた組織化・仕組み化というのは、箔一らしさを受け継ぎ、会長の想いを実現するために必要なことだと思っています。

浅野
コロナで大変に厳しかった時期に、会長から手紙をもらっていました。
当時は必死でしたから、いただいたことも忘れていたのですが、会長が亡くなられてから気づいて、開けてみました。そこには「自分の信じた道でやってください」「想いをわかってくれる人と仕事をしなさい」と書かれていました。それが、いま心に響きました。

奥村
いま社長が必要としているからこそ、目に入ったのだと思います。
会長はむしろ、「コロナになって良かった」とおっしゃっていました。これを乗り越えれば、必ずもっと強くなる。社長はこんなことには絶対に負けないから、と。

浅野
私が社長になってから、会社はずっと成長を続けていました。近年、さらに成長するためにはプロフェッショナル人材が必要だと考えて、ヘッドハンティングを試みました。ただ、高い報酬を求めて会社を渡り歩くような価値観の人たちは、私たちの会社には合わなかった。そうしたことの読み違いも感じていましたから、会長のメッセージは重たかった。

奥村
会長は、自分の想いを何より大切にして、絶対に曲がらない人でした。だからこそ価値観のあう人を大切にしたのだと思います。

浅野
会長にとっては、キャリアやスキルなどよりも、想いを分かってくれる人が大切でした。理解者など誰もいないところから始めたのですから。


奥村
浅野会長は本当に強く曲がらない方でした。私は、会長がずっと京都言葉を直さないことにも驚いていました。伝統産業という保守的な世界で、京都の言葉を話す女性が変革を推し進めるということは、考えられないほど大変なこと。でも、自分を曲げませんでした。一人で始めて、想いをわかってくれる人を少しずつ増やし、最後には世の中を大きく変えてしまうところまでやり抜いた。信念がなければできないことです。

浅野
会社が大きく成長して、浅野邦子が最初に考えていたものよりも大きくなった。そうすると、いろんな人の思惑が絡むようにもなってきました。創業期の頃とはまた違った問題が生まれ始めたときに、新型コロナウィルスが流行したことで予想できなかった事態になりました。私が苦しんでいる姿を見て、会長は原点に戻れというメッセージをくれました。自分の信念を曲げるな、思いを分かちあえる仲間を大切にしろ、と。

奥村
会長は売上を伸ばせばよいという考えではありませんでした。むしろ箔一の想いを広げていくことにこだわっていました。だからお客様は、箔一でモノを買うことに誇りや満足を感じている。そういう箔一の価値というものを、作り上げてこられた。

浅野
会長のお客様は、お金を払っていても会長にお礼を言います。それが不思議でした。一般的に販売職というのは、お客様に頭を下げるものですよね。ですが、会長は逆に、お客様からいつもお礼を言われていた。それがすごいことだと思っていました。

奥村
それは、会長が価値を作った人で、それが認められたという証拠ですよね。

浅野
自分の想いを広げるという目標をもって、まっすぐ向かっていく。障害や摩擦などは、まったく気にもしない。そうした姿勢は、見習っていかなければならない。

奥村
会長は、みなさんに想いを託していかれたのだと思います。バトンを受け取る人は大変だと思いますが、会長の夢を受け継いでいってほしいと思います。

浅野
ありがとうございます。また奥村社長も引き続き、私たちの良きパートナーとして箔一を見守ってください。



いいなと思ったら応援しよう!