箔一創業者浅野邦子との思い出。「加賀藩御用菓子司森八」女将中宮紀伊子様
金沢を代表する老舗の和菓子店である森八様(※1)。その女将の中宮紀伊子様に故浅野邦子(箔一創業者で会長)の思い出を聞かせていただきました。お2人は無二の親友で、浅野邦子の生前には一緒に旅行をしたり、悩みを打ち明けあうこともある関係でした。対談記事にまとめましたので、ご覧ください。
邦子さんと一緒にいるときは、ずっと笑っていられました。
箔一代表取締役社長 浅野達也(以下、浅野)
母の生前、中宮さんには本当に良くしていただきました。女将がいたからこそ、いろんな場所に旅行もできました。家族として、本当に感謝をしています。
株式会社 森八 取締役女将 中宮 紀伊子(以下、中宮)
邦子さんとは、本当にいろんなところに行きました。
二人でいるときは、いつも笑っていました。すべてが楽しかった。
浅野
母にとって、中宮さんは特別な存在だったと思います。
母も広い交遊関係がありましたが、本当に心を許せる親友のような関係だったのは、中宮さんだったように思います。
中宮
私にとっても、邦子さんは特別な人でした。
存在感があって、華やかで、尊敬できるのはもちろんですが、お互いの境遇が似ているところが多く、分かり合える部分がたくさんありました。彼女は京都から金沢へ、私は東京から金沢へ越してきました。よそから来た人間が、この町の伝統的な業界の中で仕事をしていると、孤独を感じることも少なくありません。そうした想いを分かち合って、励ましあえる貴重な存在でした。
浅野
お二人とも、結婚を機に金沢に来られ、保守的な業界で経営者として活躍されています。大きな成功を収められていますが、決して平坦な道のりではありませんでした。
中宮
会社がなくなりかけたこともありますし、陰口をささやかれることもありました。いまでこそ、邦子さんは成功者ですが、順風満帆などという言葉とは程遠い道のりをたどってきています。その苦労は、筆舌に尽くしがたいものがあります。
浅野
だからこそわかり合える部分があるのでしょう。本当の苦労を知っているお二人だから。
中宮
私たちは、ずっと仕事に追われるばかりで、自由に使えるお金も時間ありませんでした。それが、ある程度の年齢になって、ようやく少しだけ余裕が出てきた。それも本当に最近のことなんです。だから、「このくらい良いよね、一生懸命働いてきたんだから」とお互い言い訳しながら、旅行に出ていました。
仕事の事、子供のことなど、話題は尽きませんでした。
浅野
女将も母も、社会的にも一定のポジションを築かれていますが、実際の暮らしぶりは本当に質素です。
中宮
無駄遣いをしないのは、邦子さんも私も一緒でした。旅行にいっても外食は1日に1回まで。あとは、地元のスーパーで買い物をして、自分たちで料理を作ることが多かったですね。よく二人でそうめんをゆでて食べていました。でも、そういう時間が本当に楽しかった。
浅野
母も仕事人間でしたから、女将と出かける時間が、数少ない息抜きだったのだと思います。私は、会社に入ってからは、母とはビジネスパートナーとして接するようになり、話すことも仕事のことばかりになりました。リラックスして過ごすことも、ずいぶん少なくなってしまった。ですから、女将に、いろんなところに連れて行っていただき、本当に感謝しているのです。
中宮
邦子さんは、よく達也さんの話もしていました。
晩年、「私は病気になってよかった」とおっしゃるので、どうして、と聞くと「息子が優しくなったから」と。本当にうれしそうでした。
浅野
経営には、重い責任が伴います。ですから、箔一の会長と社長という立場がある以上、いつも真剣勝負で話していましたし、緊張感をもって接していました。お互いが望んだことではありますが、親孝行を十分にできなかったという思いもあります。母は、中宮さんと旅行しているときが、一番、心が安らいでいたのではないでしょうか。
中宮
旅行に行くと、長い時間ずっと一緒にいます。その間、ずっと話をしていました。仕事の話や、これからのこと、子供たちのことも。お互い同じような悩みを抱えていましたから、話題はいつまでも尽きませんでした。
浅野
決して順風満帆ではなかったからこそ、同志のように分かり合えたのですね。
邦子さんは、夢をたくさん持っていました
中宮
邦子さんには、まだまだ叶えたい夢がありました。
軽井沢に別荘を購入する計画がありました。そこに女性を保護する施設を創りたいと。何らかの理由があって、家を出なければいけない女性、子供を連れて避難する必要がある女性が世の中にはいらっしゃいます。そうした人を一時的にでも保護する施設を作りたいと考えておられた。行政だけでは、どうしてもケアしきれないこともあります。そういうこともわかりましたから、だったら私財でやろうよ、と。
浅野
母は、ずっと仕事一筋で生きてきた人でしたが、経団連(※2)に入ってからは変わったようにも思います。社会を動かしている仕組みのようなものに、関心が向いていった。
中宮
もし、もう少し時間があれば、政治などの面でもリーダーシップをとれる方だったと思います。自分のためではなく、世の中を良くしたいと願って動いている方でしたから。
浅野
そうしたなか、母が特に力を注いできたのが女性の教育でした。なかでも金澤レディース経政会(※3)については、特別な思い入れがあったようです。
中宮
金澤レディース経政会は、邦子さんが創設された女性のための勉強会です。経済人の集まりは、多くは親睦を深めたり、人脈を作ることが目的となっていますが、邦子さんはそうではありませんでした。あくまで、女性の自立を目指して、学びと実践のための活動を行ってきました。
浅野
母は、女性の地位向上のために世の中を変えていくことにも関心をもっていましたが、女性自身もまた変わらないといけないと考えていました。座学だけでなく、社会のなかで実践していける知識を身に着けようとしていたのが、金澤レディースでした。
中宮
邦子さん自身が本当に勉強家でした。本当は大学に進学したかったけど、時代がまだ早かったこともあって、叶わなかった。そのせいか、大人になっても学ぶことに熱心でした。
浅野
母の遺品からは、ノートがたくさんでてきます。
中宮
邦子さんは、いつもノートを2冊もっていました。セミナーや会議では一冊目にしっかりとメモをとり、それをもう一冊に清書しなおすのです。私には、なかなかまねできない。邦子さんの姿勢には、いつも感心させられていました。
浅野
やりたいことがたくさんあったから、新しい知識や情報を吸収することにも貪欲でした。
中宮
邦子さんは、夢をたくさん持っていました。
例えば、老人の施設と子供たちの保育園を隣接させた施設を作りたいという話もしていました。お年寄りの方は、孫のような子供たちと触れて生きがいを感じられるし、子供たちはいろんな話を聞けて勉強になる。そんな夢を語っていました。子供たちのために、できることがしたいと話していました。
浅野
母は、人の心配ばかりしていました。
創業者で、大きなものと戦ってきた人だから、強く厳しい人という印象もありますが、立場の弱い人たちには、いつも優しかった。
中宮
邦子さんは、自分が子育てをしているときには、仕事が忙しくて、家を空けることも多かった。子供たちに寂しい思いをさせたことを、ずっと悔やんでいました。そうしたことが心に残っていたのだと思います。
浅野
私自身は、それが当たり前のように感じていました。むしろ、母親がいつも忙しそうにしているので、子供心にも力になりたいと思っていました。
中宮
創業のころは本当に大変だったと思います。それまで日陰の存在だった金沢箔を、一気に主役にして、テーブルウエアやインテリア、アクセサリーなどを作っていった。それがやがて、ほかの箔屋さんの刺激にもなって、切磋琢磨しながら業界全体が伸びていった。その結果、金沢箔は大きな産業となっています。すべて邦子さんが始めたことです。
浅野
母の仕事に、そのような意義があることは、少し成長してからわかるようになりました。それも本人から聞くわけではなく、むしろ周りの人から教えられることが多かったですね。
中宮
邦子さんが箔一の会長になられて、経営を社長に譲られてからも、会社のことが心配でしょうがないようでした。大事に育ててきた会社ですから。
浅野
私からすると、責任ある立場から解放されて、少しのんびりしてほしいという思いもありました。ですが、いつも動いていないと気が済まないようで、とにかくスケジュールはびっしり埋まっていました。それは、本当に体が動かなくなる直前まで変わりませんでした。
つらい治療にも、弱音を吐くことはありませんでした
中宮
病気に対しても冷静に、治すための努力を惜しまずしていました。つらい治療が続いて、本当は痛いところもたくさんあるはずなのですが、弱い姿は見せませんでした。立派だったと思います。
浅野
本人は、なんとしても病気を克服したかったのだと思います。まだまだ、やりたいことがたくさんありましたから。
中宮
邦子さんの病気が、大変に難しいものだということは聞いていました。
でも本人が頑張って病気を治すとおっしゃられていたから、簡単ではないとわかっていても、浅野邦子なら何とかしてしまうんじゃないかと信じていました。
浅野
私も同感です。彼女が治すと言っているのだから、治るのだろうと。どこか楽観的に見てしまう部分がありました。
中宮
これまで、たった一人で事業を始めて、常識では考えられないほどの困難をすべて乗り越えてこられた方です。病気なんかに負けるわけがないと、みんなそう思っていましたよ。
浅野
不可能を可能にしてきた人だから、今回も大丈夫だと思わせるようなところがありました。
中宮
ただ、治療はつらかったと思います。一緒に温泉に行ったとき、体に大きな痣ができているのも見ました。でも、弱音は一切口にしませんでした。本当に強い人でした。
浅野
あと5年あったら、とも思います。まだまだかなえたい夢もあったと思いますし、孫と一緒にお酒を飲むこともできた。
中宮
元気になったら、また旅行に行こうと約束していました。実は、北海道の宿もとっていました。自分のお母ちゃんと同じ年までは生きたいともおっしゃっていましたから、やっぱり早いお別れでした。
浅野
母が公の場に出た最後が、2023年1月の金澤レディースの例会でした。その時には、それが最後になるだろうとは、わかっていました。本当は私も出席すべきだったのかもしれませんが、行ってしまうと、なにか特別な意味を付け加えてしまう気がして、行けなかった。
中宮
あの日、会合の場所が邦子さんのご自宅近くのホテルでした。
私が迎えに行くと、もう足がむくんでしまっていて靴が入らない。どうしようかとなって、メンバーから足の大きな人を探して、その人の靴をはかせて連れていきました。そのくらい体調は厳しかった。だから、挨拶が済んだら「もう帰るよ」とメモを渡すのですが、頑として帰ろうとしない。結局、最後まで例会を見届けられました。
浅野
あの時の例会で、金澤レディースの代表を浅野邦子から中宮さんに引き継ぐことになっていました。そうした大事な例会でしたから、最後まできちっとやりたいと考えていたのでしょう。
中宮
昨年の年末に、邦子さんのお見舞いに行きました。
本当は人と会えるような状況ではありませんでしたが、特別に許可をいただきました。それが、何を意味するかも分かっていました。あのとき、「ごめん、きいちゃん」というので、「なんで?」と返したら、「もう、だめかもしれない」と言われました。
浅野
年を越せるかどうか、というのが医者の見立てでした。
年末に退院して、自宅で家族に囲まれて幸せな正月を過ごし、1月の金澤レディースの引継ぎも見届け、2月に静かに旅立たれた。年末年始のあわただしい時期を避け、最後まで人に迷惑をかけないように気を使っていたようにも思えます。自分の母親ながら、経営者として、見事な最期でした。治療に全力を費やしながらも、いなくなった後のこともしっかりと考え、様々なことを本当にきれいに整理されていかれた。
中宮
私たち年長者が、先に命を終えるのは当然のことです。
誰もが、次の世代に思いを託していかないといけません。邦子さんは、世間から反発されたりバッシングされても決して折れなかった。信念があって、何事にも動じることはありませんでした。私は邦子さんといるときは、ずっと笑っていられました。本当に楽しかった。心から感謝しています。
※1
加賀藩御用菓子司森八
寛永2年の創業以来390年もの歴史を持つ老舗和菓子店。加賀藩の御用菓子司を務めた。なかでも長生殿は三代藩主前田利常の創意によって生まれ、茶人小堀遠州が命名・揮毫した銘菓。日本三名菓の筆頭。
※2
経団連
一般社団法人日本経済団体連合会。日本を代表する大手企業およそ1500社で構成される経済団体。浅野邦子は2016年に経団連審議員会の副議長に就任。経団連の女性理事は史上2人目。中小企業の経営者としては初めて。
※3
一般社団法人金澤レディース経政会
故浅野邦子が創設。現在、中宮紀伊子氏が理事長を務める。政治、経済、経営、社会、文化などに関する諸問題を研究し会員相互の資質の向上を図り、事業と活動を通じて社会に貢献することを柱に女性起業家の相談、支援、育成することを目的とする。