一昨日の夜に、息子と2人だけで夕飯を食べながら、先週録画しておいたNHK大河ドラマ『光る君へ 君を置きて』を見ていました。冒頭で、中宮(皇后)が「いつもなぜ薄着なんですか?」と一条帝に問うと、「できるだけ民の苦しみに寄り添いたい」というようなことをおっしゃられていました。
この時に「あぁ……亡くなってしまうんだな……」とつぶやきました。息子は「なんで?」と聞いてきたので、「ドラマとか映画って、良い人になったり良いことを言うと亡くなるもんなんだよ」と言い終わるか終わらないかのタイミングで、一条帝が胸を押さえて……。
そうして感動しながら見終わってから、「実際はどういう状況だったんだろう?」と。
それで藤原道長の『御堂関白記』と、藤原行成の『権記』と、藤原実資の『小右記』の、この頃の記述を調べてみました。紫式部日記も調べましたが、一条帝が亡くなる頃は書いていなかったのか、単に残っていないだけなのか、少なくとも現存しないようです。また、調べると言っても、とても簡単なことです。「摂関期古記録データベース」というサイトがあり、そこに日付……期間を入力すると、バババァ〜っと日付と日記の原文が表示されるからです。
ということで、以下が一条帝の容体が思わしくなくなった頃から崩御までの3週間の記録です。この期間については、それぞれChatGPTによる現代語訳をつけました。それ以降についても原文を記しておきましたが、現代語訳は、また興味が湧いたら必要に応じて付していきたいと思います。
■寛弘八年(1011年) 六月一日 一条天皇と東宮の対面
■寛弘八年(1011年) 六月十三日 一条天皇が譲位し出家
■寛弘八年(1011年) 六月十九日 一条天皇が危篤に
■寛弘八年(1011年) 六月二十一日 一条天皇の辞世の歌……『君を置きて』
法皇(一条天皇)の辞世の句は、藤原道長と藤原行成がそれぞれ書き取っていますが、若干の違いがあります。ただし、法皇のそばで寄り添っていた皇后へのやさしさが感じられる歌だったことは確かなようです。
藤原行成「露の身の 風の宿りに 君を置きて 塵を出でぬる ことぞ悲しき」
藤原道長「露の身の 草の宿りに 君をおきて 塵を出でぬる ことをこそ思へ」
■寛弘八年(1011年) 六月二十五日 一条天皇の葬儀の準備
■寛弘八年(1011年) 七月八日 一条天皇(法皇)の葬送の儀
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