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大河ドラマ『光る君へ』…一条天皇の病状悪化から崩御までの藤原道長・行成・実資の日記を読む

一昨日の夜に、息子と2人だけで夕飯を食べながら、先週録画しておいたNHK大河ドラマ『光る君へ 君を置きて』を見ていました。冒頭で、中宮(皇后)が「いつもなぜ薄着なんですか?」と一条帝に問うと、「できるだけ民の苦しみに寄り添いたい」というようなことをおっしゃられていました。

この時に「あぁ……亡くなってしまうんだな……」とつぶやきました。息子は「なんで?」と聞いてきたので、「ドラマとか映画って、良い人になったり良いことを言うと亡くなるもんなんだよ」と言い終わるか終わらないかのタイミングで、一条帝が胸を押さえて……。

そうして感動しながら見終わってから、「実際はどういう状況だったんだろう?」と。

それで藤原道長の『御堂関白記』と、藤原行成ゆきなりの『権記』と、藤原実資さねすけの『小右記』の、この頃の記述を調べてみました。紫式部日記も調べましたが、一条帝が亡くなる頃は書いていなかったのか、単に残っていないだけなのか、少なくとも現存しないようです。また、調べると言っても、とても簡単なことです。「摂関期古記録データベース」というサイトがあり、そこに日付……期間を入力すると、バババァ〜っと日付と日記の原文が表示されるからです。

ということで、以下が一条帝の容体が思わしくなくなった頃から崩御までの3週間の記録です。この期間については、それぞれChatGPTによる現代語訳をつけました。それ以降についても原文を記しておきましたが、現代語訳は、また興味が湧いたら必要に応じて付していきたいと思います。


■寛弘八年(1011年) 六月一日 一条天皇と東宮の対面

権記(藤原行成) 寛弘八年(1011年) 六月一日
一日、癸卯。内に参る。御悩、昨のごとし。去ぬる夕、左丞相の命に依りて、立太子の雑事を書き出し、之を奉る。亦、雑事を申す。
  ↓
「1日、癸卯。宮中に参上。天皇の御体調は昨日と同じく思わしくない。昨夜、左丞相(さじょうしょう・藤原道長)の指示で、立太子に関する準備事項を記録し、報告する。また、様々な事項を申し上げる。」

権記(藤原行成) 寛弘八年(1011年) 六月二日
二日、甲辰。巳剋、東宮、内裏に参り給ふ。御対面有り。御輦、左兵衛陣より入る。東対の南小戸の下に到り、輦を下る。対の南西の砌を経<筵道を布く。>、暫く休所に御す<南殿の東面に御簾を懸く。是れ弓場殿の御座の間の西なり。>。時に蔵人頭道方朝臣、案内を奏す。召し有る時、東一・二対の西簀子并びに中宮の御廬の前を経て参上す。暫くして退出し給ふ。此の日、第一皇子に千戸の封・年官年爵等を賜ふ。「准三宮の年給の数」と云々<「封戸の事、左大臣、弁に仰す。年官等の事、外記に仰す」と云々。
  ↓ 現代語
2日、甲辰。巳の刻(午前9時から11時)に東宮(皇太子)が内裏に参上され、天皇とご対面があった。輦(れん・天皇や皇族が乗る車)は左兵衛陣から入り、東対の南小戸の下に到着して輦を降りる。対の南西の砌(階段)を通り、しばし休息所に入られる。蔵人頭の(源)道方朝臣が、天皇にご案内を申し上げた。呼ばれると、西の簀子廊(西側の縁側)と中宮の御廬の前を通り参上する。その後しばらくして退出される。この日、第一皇子に千戸の領地と位階などを賜わる。「准三宮(皇族)の年給に準じる規模のものである」とのこと。」

御堂関白記(藤原道長) 寛弘八年(1011年) 六月二日
二日、甲申。
東宮に御対面有り。是れ御譲位の事なり。巳時を以て渡御す。東陣より南殿の東面に御す。左衛門陣より御輦を入れ、東対の南妾戸口より下り給ふ。直廬に御す。主上、昼御座に御す。道方朝臣を以て、参上せしめ給ふ御消息有り。
 二日。東対と同二対、渡殿を経て参上す。暫く有りて、退出し給ふ。御東障子の許に、御茵一枚を敷く。主上、御す。直ちに譲位を聞かせらる。「次には東宮、御すか」と云々。御前に参る。次いで仰せられて云はく、「東宮、聞し了んぬ」と。又、仰せて云はく、「彼の宮、『申せ、申す』と思し給ひつる間、早く立ち給ひつれば、聞せざるなり。敦康親王に給ふ別封、并びに年官爵等、若し申す事有らば、御用意有るべし」てへり。即ち参り、此の由を啓す。御返事に云はく、「暫くも候ずべく侍りつるを、御心地、例に非ざる由を承りて、久しく候ぜんに憚り有りて、早く罷りつるなり。仰せ有る親王の事は、仰せ無くとも奉仕すべき事、恐み申す由を奏すべし」てへり。
  ↓ 現代語
2日、甲辰。東宮と天皇の対面があり、譲位に関することであった。巳の刻(午前9時から11時)に天皇が渡御し、東陣から南殿の東面に入られた。左衛門陣から輦を入れ、東対の南小戸口から下りられて直廬に入られる。天皇は昼の間にてご休息。(蔵人頭である源)道方朝臣に対し、参上を促す指示があった。 その後、東対の渡殿を経て参上し、しばらくして退出された。御東障子のあたりに御茵(敷物)を一枚敷き、主上がその場に出られる。直ちに譲位についての言葉を伝えられ、「次は東宮(皇太子)が座る」とおっしゃる。そしてさらに「東宮もこのことを承知された」と仰せられ、また「敦康親王に別封を与え、年官・爵位等も同様に用意すべき」と仰せられた。私がこの旨を伝えたところ、天皇は「体調が芳しくないとの報告があったので、長く待たせるのもためらわれ、早めに退出した」と返答された。

権記(藤原行成) 寛弘八年(1011年) 六月三日
三日、乙巳。内に参る。此の夕、土御門の南町、失火あり。又、内に参る。
  ↓ 現代語
3日、乙巳。宮中に参上。この夜、土御門南町で火事が発生。また宮中に参上する。

権記(藤原行成) 寛弘八年(1011年) 六月七日
七日、己酉。内に参る。光栄朝臣・吉平等を召し、蔵人所に於いて御譲位の日を勘申せしめ、東宮に申さる<頭弁を御使と為す。>。東宮より大夫を指し、左大臣に仰せらる。「其の日、十三日乙卯」と云々。或る人、云はく、「狼藉、忌むべきか」と。
  ↓ 現代語
7日、己酉。宮中に参上。光栄朝臣・吉平らを召し、蔵人所で譲位の日取りを検討し、東宮に申し入れるために頭弁が使者として出向く。東宮からは大夫が左大臣に指示を仰ぎ、「その日は十三日乙卯である」との意見が出された。

権記(藤原行成) 寛弘八年(1011年) 六月八日
八日、庚戌。内に参る。去ぬる寛弘五年四月十四日に借り賜はる所の宜陽殿の御本六巻<一、張芝草『千字文』。一、同『草香一天』。一、王羲之真書『楽毅論』。一、同真書『黄庭経』。一、同真書『尚想』。一、同真書『河図』。>を、頭中将に付して返上せしむ。「中将、仰せに依りて、之を大床子の御座の御厨子に納む」と云々。「件の厨子、渡さるべし」と云々。件の御本、定輔朝臣、蔵人主殿助たる日、勅に依りて借り下す所なり。
  ↓ 現代語
8日、庚戌。宮中に参上。去る寛弘五年四月十四日に借り受けた宜陽殿の古書六巻(張芝草「千字文」、王羲之「楽毅論」など)を頭中将を通して返却。「中将の指示で、大床子の御座の御厨子に納めるように」とのこと。この古書は、定輔朝臣が蔵人主殿助の際に勅により借り下げたものである。

御堂関白記(藤原道長)寛弘八年(1011年)六月八日
八日、庚戌。蔵人所に陰陽師等を召し、御譲位の日を勘申せしむ。「十三日午時」と。次いで又、東宮に陰陽師を召し、入内し給ふべきを勘申せしむ。申して云はく、「十三日、東三条に渡り給ひ、来月十日、朱雀院に御し、十一日、入内し給ふべし」てへり。是れ御忌方、并びに大将軍・王相等の方忌有るに依るなり。
  ↓ 現代語
8日、庚戌。蔵人所に陰陽師を召し、譲位の日取りを検討。「十三日午時」と定められた。また東宮の入内の日も検討し、「十三日に東三条へ渡り、来月十日朱雀院へ入り、十一日に内裏へ入るべき」と申された。

小記目録(藤原実資) 寛弘八年(1011年) 六月九日
九日。臨時叙位を行なはるる事。
  ↓ 現代語
9日。臨時叙位が行われる。

権記(藤原行成) 寛弘八年(1011年) 六月九日

九日、辛亥。内に参る。御悩を消除せんが為、丈六の五大尊を造り奉るべし。御願の書、前権大僧都院源、啓白す。
此の日、左衛門督を正二位に叙す<「去ぬる年、枇杷殿より此の院に遷御する日、家の子等に賞有り。而るに金吾、彼の時、左丞相と同階を避くるに依りて、加級の列に預からず。時の人、之を称す。今、更に申す所有りて、之を叙す」と云々。>。又、前備後守政職を従四位下に叙す。美作介泰通を正五位下に叙す。并びに米八百石を以て内給所に献じ、御悩の間の雑用に宛つ。並びに左大臣、申し行なはるる所なり。造宮の時、題額の功に、一階を叙すべし。而るに叙位の時、行事の功に依りて二位に叙す間、一度に重ねて申すべきに非ず。仍りて暫く一に申請無し。今、六条左大臣、応和の造宮の時、先づ行事の賞に預かり、後年、修理職の賞に預かる例に因りて、一階を加ふべき由を申さしむ。奏者右宰相中将、勅を伝へて曰はく、「恩許有り」と云々。仍りて加階の事、殊に御用意有り。奏聞せらるべき旨を左大臣に申し、奏達有らんと欲す。其の後、大臣、命せて云はく、「天気、許さず。答無し」と云々。申す所、若しくは理無くんば、其の由を仰せらるべし。而るに都て勅答無き由、竊かに恠しみ鬱する所なり。仍りて重ねて中将をして奏せしむるに、「許さざる気無し。恩容の色有り」と云々。又、「後に指して賞すべき由を仰せらるる有り」てへり。然れども丞相、難渋す。運の及ばざるか。人を咎めず、天を恨まざるのみ。後に聞くに、春宮大夫、云はく、「院の御気色を伝へ聞くこと有るに依りて、案内を左府に申す。左府、命す、『実は恩容の天気有り』」と云々。然れども執権の恩無きに依りて、賞を待つ理有るを失ふ者なり。
  ↓ 現代語
9日、辛亥。内裏に参上。天皇の病を鎮めるため、丈六(仏像の高さ)の五大尊を造って奉納することとなる。天皇の祈願文書を、前権大僧都の院源が天皇に申し上げる。 この日、左衛門督が正二位に叙される。〈「昨年、枇杷殿(道長の邸宅)からこの院へお移りになった際、家の者たちに恩賞があった。しかし金吾(左衛門督)は、当時左丞相と同じ位になるのを避けるために恩賞を受けられなかった。時の人々はこれを称賛したが、今また申請があったため、位を叙す」とのこと〉。また、前備後守政職が従四位下に、美作介泰通が正五位下に叙される。併せて米八百石が内給所に納められ、天皇の病中の雑用に充てられる。これらはすべて左大臣が申し行われたものだ。造宮(宮中の建造工事)の際に貢献のあった者には位を一つ上げることになっていたが、左衛門督が二位に叙される際にはその行事の貢献によるものとしていたため、位の昇進についても再度申請すべきでないとされ、しばらく申請されなかった。しかし、今回、六条左大臣が応和の造宮の際に一度功績を賞され、数年後に修理職としても評価されて例により昇進されるべきであるとして申請があった。奏者右宰相中将が勅(天皇の命)を伝え、「恩賞を許可する」との勅答があった。したがって加階の件について特に用意があるとの旨を左大臣に申し、奏達しようとした。しかしその後、大臣が「天気(勅)が許さず、返答がない」と述べた。申請内容に理がなければその旨を勅で伝えていただきたいところであるが、返答が一切ないため、ひそかに不審と悩みを感じるところである。再度中将に奏させたところ、「許されないというわけではなく、恩情がある」とのこと。また、「後に恩賞を授ける」との勅命があった。しかし丞相はこの事態に難渋し、運が尽きたと感じるのみで、他人を責めたり天を恨んだりしないという姿勢であった。後に春宮大夫が「院の御気色(お考え)を聞いて左府に案内を申しましたが、左府は『実は恩情の天気があった』とのこと」と語った。しかし、執権(院政を行う立場)の恩情がなかったために、恩賞が遅れたことに悔いが残るのだ。

御堂関白記(藤原道長) 寛弘八年(1011年) 六月九日
九日、辛亥。一宮の御位記に捺印す。左衛門督に一階を叙す。是れ枇杷殿行幸の賞、未だ賜はざるなり。内給は二人、備後前守正職・美作守泰通等なり。
  ↓ 現代語
9日、辛亥。一宮の御位記に印を押す。左衛門督に一つの位を授ける。これは枇杷殿行幸の際の恩賞であり、まだ賜られていなかった。内給所には二人、前備後守の政職、美作守の泰通などが奉じられた。

権記(藤原行成) 寛弘八年(1011年) 六月十一日
十一日、癸丑。内に参る。昨の仰せに依りて、大内記為政朝臣を召す。臨時に伊勢太神宮に金銀の御幣并びに神宝を奉らる、告文を作るべき由を仰す。草・清書を奏し了んぬ。右衛門陣に於いて神祇大副輔親朝臣を召し、之を給ふ。即ち亦、月次祭に着す。
  ↓ 現代語
11日、癸丑。内裏に参上。先日の命に従って、大内記の為政朝臣(慶滋為政・よししげのためまさ)を召す。臨時に伊勢太神宮に金銀の御幣と神宝を奉納するための告文を作成するようにとの命があった。草稿と清書を奏上し終えた。右衛門陣にて神祇大副輔親朝臣(大中臣輔親)を召し、それを渡す。同時に、月次祭においても奉納されることになった。

■寛弘八年(1011年) 六月十三日 一条天皇が譲位し出家

小記目録(藤原実資) 寛弘八年(1011年) 六月十三日
十三日。院、御遁世の事。
  ↓ 現代語
13日。院(天皇)、御遁世(出家)のことがあった。

権記(藤原行成) 寛弘八年(1011年) 六月十三日
十三日、乙卯。御譲位なり。昨より所労有り。辰剋、勘解由判官平雅康、来たりて、東宮の令旨を伝ふ。是れ御譲位以後、奉らるべき御表を書き奉るべき旨なり<学士宣義朝臣の作る所なり。>。所労、堪へ難きに依りて、簾中に居ながら相逢ふ。即ち清書して献ずべき由を申さしむ<相加へて白色紙・陸奥紙等を下給さる。檀紙、凡なるに依りて、白色紙に書く。是れ天慶九年の例なり。>。清書、了んぬ。所労、頗る宜し。相扶けて束帯し、持参する間<午剋なり。>、門を開く後、少納言、刀禰を召す間なり。所労、相扶くと雖も、猶ほ未だ快く平癒せず。列立、憚り有り。然れども列を引く間、参会す。障りを称すは便無し。憖ひに就きて、行き立つ。群臣、立ち定む。内弁右大臣、弾正尹藤原朝臣を召す<大臣、南殿の南廂の西第二間の兀子に着す。>。藤原朝臣、称唯し、大臣并びに二位の納言の列の後ろを経、殿の西軒廊の西第二間より入り、西階より昇り、内弁の床下に到り<簀子敷の下なり。>、揖して立つ。時に内弁、左手を以て宣命を給ふ<内弁の大臣、予め宣命を奏す。母屋の簾の下に停まり、之を奏す。下給の時、退きて文刺を以て内記に賜ふ。宣命を以て笏に取り副へ、西階の下に立つ。儲君、参上す。座に着す後、参り登りて兀子に着す。>。藤原卿、笏を搢み、袖を刷り、進み寄りて之を給ふ。退きて本所に立ち、笏を抜き、揖して右に廻る。退下して軒廊の東第二間に立つ<廊北柱と平頭して立つ。>。時に内弁、又、退下し、軒廊の東第二間より出づ<紫宸殿の儀に准へ、須く西第二間より出づべし。而るに東二間より出づ。違失なり。>。納言の前・大臣の後ろを経、標の下に立つ。是に於いて宣命使、西第二間より出で、南行して東に折れ<進退・曲折、必ず揖す。但し廊内は揖さず。>、宣命の版に就く。宣制、一段。群臣、再拝す。又、一段、再拝す<此れ第二段の中間、押し合ふ。時に右大臣・内大臣、拝さんと欲する間、他の人、拝せず。宣命使、又、之を読む。後日、四条納言、云はく、「此の日、宣命使、失に非ず、諸人の失なり。而るに宣命使、又、中間と称して押し合はず。甚だ懦弱なり」と。後日、宣命を見、三段の拝有るべし。其の故、立太子に依りて、其の事を載す。即ち譲位の事を云ひ了りて、「宣る」の字有り。「又、宣る」と云々。「太子の事を宣る」と云々。「宣る」の字を読む毎に拝有るべきなり。然れば則ち、「宣る」の字を読みて押し合ふ、理、然るべし。群官、覚悟せず、拝せず。失なり。両段、拝するは、尋常の宣命の事なり。是に至りては、希有の例なり。又、御即位の宣命、亦、数段の拝有り。>。訖りて宣命使、文を巻き、笏を抜き、揖して右に廻る。大臣の東を経て、本の列に着し訖んぬ。群臣、閣外に退出す。所司、南閤并びに東西廊の小門并びに中門等を閉づ<大臣以下、早く廻りて殿の下に在り。>。太子、南階より退下す。階を去ること一ばかりの丈にて拝舞す<太子、退下の間、典侍[少将。]一人・掌侍一人、并びに御釼・璽筥を執り、母屋の簾中より出づ。西階を下り、軒廊に候ず。拝舞、訖り、御休所に御す時、前後に供奉すること、常のごとし。>。訖りて西軒廊に退き入る<所司、筵道に布の単等を鋪く。>。右近陣の西廊の東簷を経、休廬に至る。時に午二剋。右大臣・傅大納言、御拝の間、釼を脱く<宣命の後、早く脱くべきなり。左大臣、少し先に拝するなり。又、内大臣兼大将、解くべからずして脱く。共に失なり。>。自余の勅授の者、外弁より帰る後、之を脱く。旧主、内侍一人を差し<兵衛。此れ靫負の女なり。>、御笏并びに御衣一襲を遣はし奉る<笏、筥無し。若しくは衣筥の内に入るるか。裹有り。又、御衣・机覆等有り。大和守輔尹・左少弁朝任等、之を舁き、殿上を経て御休所に到る。>。次いで右大臣・内大臣・右大将<弓を置く。>・中宮大夫<以上、靴を着す。>、新帝の御表の案を舁く<件の表の案、宮司等、予め右近陣の公卿の座の壁の後ろに舁き立つ。朴木の函、牙象の花足并びに支佐木の案。>。旧主の御殿の南面の西階の東簀子敷に立てて、退出す。内侍一人<能子。少将。>、御簾の中より出で、表の函を取りて奏覧す。暫くして返し置く。即ち南檻に臨む。右大臣、参り進みて砌の下に立つ。内侍の伝ふ旨を承りて、今上の御所に詣づ<時に余、小板敷の下に立つ。左大臣、問ひて云はく、「『御返事、侍臣をして伝へ申さしむ』と云々。前坊の大夫、伝へ申すは如何」と。即ち便有る由を申す。件の事、先づ案内を申さしむ。大臣、召しに依りて参り進み、自ら奏聞すべきなり。>。右大弁道方朝臣、東宮并びに坊官等の名簿を持ちて、今上に奏す。即ち仰せを奉りて、右近陣に到る。右大臣に仰せ、除目の事有り<此の間、旧主の御悩、危急なり。上下、騒動す。権僧正、参上し、加持し奉る。酉剋に及び、頗る平愈し給ふ。>。清書の後、奏聞す<後に聞く、「此の除目の清書を奏聞する後、未だ所司に給はざる前、紛失す。奇しき事なり。右大臣、密々、披露せず。執筆の人[参議有国。]に仰せ、書き出さしめ、下給す」と云々。>。此の間、左大臣、召しを蒙りて新帝の御所に参り、頭・蔵人等を補す<蔵人頭、右大弁源道方・右馬頭藤原通任。蔵人、河内守大江景理・少納言藤原能信・民部大丞紀致頼・大炊助平忠貞・修理亮高階業敏・右兵衛尉藤朝元。>。次いで大臣、亦、召され、旧主の御所に参り、院別当等を定む<左大臣・大納言道綱・斉信・中納言俊賢・右大弁道方[以上、後院別当。]・左近中将公信、判官代式部丞惟任・成順・主殿助季任、蔵人左兵衛尉義通・文章生章信。>。此の間、先帝の御時、勅授の人、旧のごとく聴すべき由を宣下す。聴さるる者、慶賀を奏す。又、殿下・公卿以下、昇殿の慶賀を奏す。又、院の殿上の公卿以下、又、慶賀を奏す。次いで東宮に参る。左大臣以下、慶びの由を啓す<靴を着す。非なり。>。次いで亦、左大臣以下の殿上の侍臣、殿上の慶びを啓せしむ。即ち殿上の座に着す。三献の後、禄を参議以上に給ふ。
亥剋、今上、左大臣の東三条第に行幸すること有り。御在所を出で、西中門に到りて輿に乗る<所司、筵道を鋪く。>。内侍等、前後に候ずること、常のごとし。御輿、西門を出づ。大宮東路より南行し、二条路に至りて東に折れ<二条堀河院の北にて、雅楽寮、楽を奏す。旧主、御悩有り。音楽を止むべきか。>、洞院西路に至りて南行す。西門より入る。神祇権大副大中臣千枝、御麻を供す。南殿に到りて輿を下る。次いで少納言能信<右兵衛佐を兼ぬるに依りて、弓箭を帯ぶるなり。>、鈴を進る。勅答、常のごとし。次いで右近中将頼宗朝臣、問ふ、「誰そ」と。公卿、次第に名を称す<左大臣、御後に候ず。>。次いで殿上に参上す。次いで右近陣座に着す。頭弁、文を左大臣に申す。奏下す。吉日に依るなり。次いで退出す。
鴨院の児の名簿二通を書く。一、左府に献じて東宮に付けしむる簡、一、頭弁に付して内に付くる簡。亦、吉書なり。敦頼の名簿、滝口に寄す。左府に申し、右衛門督に付す。「右衛門督、之を頭弁に付す」と云々。内裏に名簿を献ずるも、簡を付けず。八月十一日、之を付す。本意無き事なり。
「御竈神の事、中納言、供奉す」と云々。
  ↓ 現代語
十三日、乙卯の日。天皇が譲位された。昨日から体調が優れず、辰の刻に勘解由判官の平雅康がやってきて、東宮からの命令を伝えた。これは譲位後に奉るべき表書きを書き上げるように、というもので、学士である宣義朝臣が作成したものだった。体調が良くなかったため、幕の中から会うことになった。そこで清書をして捧げるように命じた。また、白紙や陸奥紙などが下賜された。普通の檀紙は適していなかったため、白紙に書くこととした。これは天慶九年の例によるものである。清書が終わった。体調がやや良くなり、助けられて礼服を着て持参した。午の刻であった。門が開かれると、少納言が召されて刀禰と共に来た。体調がまだ完全には回復していなかったが、列の中で待機し、恥じらいながらも参列した。
その後、群臣が整列し、左大臣が右大臣、弾正尹の藤原朝臣を召した。大臣は南殿の西側の二つ目の席に座り、藤原朝臣がその後ろを通り、西の軒廊の二間目から入り、内弁の床下に着いた。内弁は左手で宣命を授け、大臣は宣命を内記に渡し、宣命を笏に取り付け、儲君が座に着いた後に登って席に座った。藤原卿が礼を行い退き、元の席に戻った。
次に宣命使が宣命を奉じて退出し、群臣も退出した。所司が南閤および東西廊の小門、中門などを閉じた後、太子が南階から退出し、一丈ばかり離れて拝礼した。
退下後、西廊を通って御休所へ向かった。午後二刻。右大臣や傅大納言が御拝の間に剣を脱ぎ、勅授を受けた者は外弁から退出後に脱いだ。
その後、群臣は新天皇の御所に参り、また東宮に参上し、慶賀の意を奏上した。新天皇が左大臣の東三条邸に行幸され、夜遅く退出された。
天皇が退位された後、群臣が大臣や新しい天皇へのお祝いを奏上した。そして、殿上人たちが再び座に戻り、三献の儀式を行った後、参議以上の位の者に褒美が下された。夜の亥刻、新天皇が左大臣の東三条邸に行幸される際、宮中を出て西中門に到着し、輿に乗られた。内侍が前後に付き従い、輿は西門を出て二条路に向かい、その後、洞院西路を南へ進み、西門から邸内に入った。神祇権大副の大中臣千枝が御麻を捧げ、南殿に到着後に輿を降りた。
少納言の能信が鈴を進呈し、勅答は通常通りの様式であった。その後、右近中将の頼宗朝臣が「誰か」と問いかけ、各公卿が順番に名乗りを上げた。次いで殿上に登り、右近陣の座に着いた。頭弁が左大臣に文を伝え、左大臣はそれを奏上した。儀式は吉日とされたため、退出が続いた。
また、鴨院の子供たちの名簿二通が作成され、一部が左府に献じられ東宮に送られることになった。敦頼の名簿は(宮中の警護を担当する部署)滝口に寄せられ、左府から右衛門督に渡された。
東宮や群臣の間で一連の祝賀が続き、後には旧主である先帝のために供物を供えることが宣下された。

御堂関白記(藤原道長) 寛弘八年(1011年) 六月十三日
十三日、乙卯。午一尅、東宮、渡る。御対面の儀のごとし。但し御在所は西対に在り。蔵人所の御蔵を開き払ふなり。自余は式のごとし。但し久主、南殿に御さず。又、表を御す間、久主、御出無し。仍りて只、右大臣・内大臣・右大将・春宮大夫、表案を舁く。此の日、久主の御悩、極めて重し。仍りて然るべき事、申し行なはず。御前に候ず。戌時ばかり、頗る宜しく御座す。
 十三日。此の間、出でて雑事を申し行なふ。新帝の御方、蔵人頭道方・通任、蔵人能信・景理、六品四人。殿上人、本のごとし。蔵人所の雑色衆等、又、同じ。勅授して余に随身等を加ふる宣旨、下る。又、坊官除目あり。右府、之を承り、陣座にて任ず。其の後、東宮の御方に参る。拝礼有り。靴を着す。見参の上逹部等、殿に昇り着す。三献の後、大褂有り。次いで行幸あり。時に亥。行事を奉仕す。返りて院に参る。御悩、尚ほ重し。院別当・殿上・院司等の宣旨、東宮の雑事、閑かならざる間、然るべき令旨等、未だ下さず。
  ↓ 現代語
十三日、乙卯。午一尅、東宮、渡る。御対面の儀のごとし。但し御在所は西対に在り。蔵人所の御蔵を開き払ふなり。自余は式のごとし。但し久主、南殿に御さず。又、表を御す間、久主、御出無し。仍りて只、右大臣・内大臣・右大将・春宮大夫、表案を舁く。此の日、久主の御悩、極めて重し。仍りて然るべき事、申し行なはず。御前に候ず。戌時ばかり、頗る宜しく御座す。  十三日。此の間、出でて雑事を申し行なふ。新帝の御方、蔵人頭道方・通任、蔵人能信・景理、六品四人。殿上人、本のごとし。蔵人所の雑色衆等、又、同じ。勅授して余に随身等を加ふる宣旨、下る。又、坊官除目あり。右府、之を承り、陣座にて任ず。其の後、東宮の御方に参る。拝礼有り。靴を着す。見参の上逹部等、殿に昇り着す。三献の後、大褂有り。次いで行幸あり。時に亥。行事を奉仕す。返りて院に参る。御悩、尚ほ重し。院別当・殿上・院司等の宣旨、東宮の雑事、閑かならざる間、然るべき令旨等、未だ下さず。

権記(藤原行成) 寛弘八年(1011年) 六月十四日
十四日、丙辰。院に参る。御物忌に依りて、殿上に参らず。午剋ばかり、退出す。内に参らんと欲するも、心神、悩む。仍りて暫く休息する間、前陸奥守朝臣、来たり、院の御悩、危急の由を告ぐ。仍りて酉剋ばかり、又、参る。夜半に及び、退出す。
  ↓ 現代語
六月十四日、丙辰。この日、病により参内されないということで、私は午の刻(正午頃)に退出しました。内裏に行こうと思ったものの、体調が悪く少し休んでいると、前陸奥守が来て、院の病が危篤状態であることを知らされました。酉の刻(午後6時頃)に再び参内し、深夜までその場に居ました。

御堂関白記(藤原道長) 寛弘八年(1011年) 六月十四日
十四日、丙辰。内に参らんが為に、束帯を為す。御前に参る。而る間、御悩、極めて重し。他行を為すは心細く思し御座す。仍りて参るべからざる由を奏す。悦しく思せる気色有り。仍りて参入せず。夕方、出家せしめ給ふべき仰せ有り。先づ御祈りを作る。甚だ感応有り。
  ↓ 現代語
六月十四日、丙辰。内裏に参内するため、正式な服装を整え、御前に参りました。その間、院の病は非常に重い状態であり、他の場所に向かうのは気が進まない様子でした。参内を辞退すると、院は喜んでいらっしゃいました。その夕方、出家されるようにと仰せがあり、まず御祈願を行いました。非常に効果があるように感じられました。

御堂関白記(藤原道長) 寛弘八年(1011年) 六月十五日
十五日、丁巳。御悩、重し。時に太波事(たは言)を仰せらる。
  ↓ 現代語
六月十五日、丁巳。院の病状は重く、この日に意味深いお言葉をおっしゃいました。

■寛弘八年(1011年) 六月十九日 一条天皇が危篤に

権記(藤原行成) 寛弘八年(1011年) 六月十九日
十九日、辛酉。辰剋、浴せんと欲する間、右宰相中将、院より示して云はく、「只今、参るべし」と。即ち馳せ参る。御出家の事有るなり。右大弁、仰せを奉りて吉平朝臣に問ふ。吉平、申して云はく、「午時、吉。辰時、次吉」と云々。辰剋、墓時に入る。尤も忌むべし。御悩、重しと雖も、猶ほ吉時を以て御出家有るべし。而るに吉平の申すを以て、次吉の説を此の時、用ゐるは、甚だ奇しむべし。時に上皇、夜大殿に御す。権僧正慶円を和尚と為し、前権大僧都院源を阿闍梨と為し、権律師懐寿・実誓を唄と為し、権大僧都隆円・前権少僧都尋光、御髪を剃る。権律師尋円、亦、近く候ず。又、権大僧都明救、候ず。左大臣、御髪を沐し奉る。事了りて、禄を僧に賜ふこと、差有り。剃り奉る人、案内を知らず、先づ御髪を剃り奉り、次いで御鬚を剃る。只、髪を除き鬚を遺す相、外道の体に似たり。「仍りて故実、出家の人、先づ鬚を剃るなり」と云々。未剋、雨。
  ↓ 現代語
六月十九日、辛酉。辰の刻(午前8時頃)、入浴しようとしたところ、右宰相中将が院から「急いで参内せよ」との知らせを持って来ました。院の出家が予定されているということでした。右大弁が(安倍晴明の子の)吉平に尋ねると、「午の刻(正午)が吉、辰の刻が次吉」と答えましたが、院の病状は重く、吉時を用いて出家すべきだとされ、次吉の辰の刻を用いることが奇異に思われました。院の出家の際は、関係する僧侶たちが院源を阿闍梨に、権律師の懐寿と実誓が唄を務め、尋光や隆円が御髪を剃りました。儀式が終わり、僧に対する布施が授与され、髪を剃る順序についても議論がありました。

御堂関白記(藤原道長) 寛弘八年(1011年) 六月十九日
十九日、辛酉。辰時、御出家有り。戒師、慶円僧正。阿闍梨、院源僧都。唄、律師懐寿・実誓。御頭を剃り奉るは、尋光・隆円・尋円等なり。未だ調へざるに依りて、奉仕せず。事、忽ちなるに依りて、御法服、候ぜず。仍りて院源の許に新法服、候ずる由を申す。仍りて之を召し、着し給ふ。此に候ずる僧等に皆、布施の絹を給ふこと、各、差有り。御出家の後、御悩、頗る宜し。是れ奇しく見奉る。
  ↓ 現代語
六月十九日、辛酉。辰の刻に院が出家されました。戒師は慶円僧正、阿闍梨は院源僧都が務め、尋光や隆円らが御髪を剃りましたが、急な出家だったため準備が不十分でした。出家後に病状が良くなり、奇異に思われました。

権記(藤原行成) 寛弘八年(1011年) 六月二十日
二十日、壬戌。内に参る。院の御悩、甚だ重き由を告げ来たる。今日、宜しき日に依りて、左大臣以下、御即位の事等を申し行なふ間、左府生信命<内大臣の随身。>、并びに為国<左大臣の随身。>、官人の座の下に於いて、高声に此の由を申す。左大臣、遽かに院に参る。内大臣以下、相従ひて亦、車を馳せて参入す。
  ↓ 現代語
六月二十日、壬戌。内裏に参り、院の病状が悪化しているとの知らせがありました。このため、左大臣以下が急遽参内し、皆、院に駆けつけました。

御堂関白記(藤原道長) 寛弘八年(1011年) 六月二十日
二十日、壬戌。大内に参り、雑事を承る。陣座に着す間、院より人、走り来たり、御悩重き由を告げ来たる。驚きながら馳せ参る。御悩、重く御座す。
  ↓ 現代語
六月二十日、壬戌。大内に参り、院の病状が重いとの知らせを受け、急いで院に向かいました。

■寛弘八年(1011年) 六月二十一日 一条天皇の辞世の歌……『君を置きて』

権記(藤原行成) 寛弘八年(1011年) 六月二十一日
二十一日、癸亥。院に参る。召しに依りて、近く候ず。御漿を供す。仰せて云はく、「最もうれし」と。更に召し寄せ、勅して曰はく、「此れは生くるか」と。其の仰せらるる気色、尋常に御さざるに似る。去ぬる夕、御悩に依り、近習の諸卿・侍臣并びに僧綱・内供等、各三番を結び、護り奉る。御悩、頼り無し。亥剋ばかり、法皇、暫く起き、歌を詠みて曰はく、「露の身の風の宿りに君を置きて塵を出でぬる事そ悲しき」と。其の御志、皇后に寄するに在り。但し指して其の意を知り難し。時に近侍せる公卿・侍臣、男女道俗の之を聞く者、之が為に涙を流さざるは莫し。
  ↓ 現代語
6月21日(癸亥の日)、院に参上した。召しに応じて近くに伺候する。御漿(お飲み物)を差し上げたところ、法皇は「本当にありがたい」とおっしゃった。さらに近くに呼ばれ、勅命として「これは生きるためのものか」とお尋ねになった。そのご様子は、普段とは違い、少し尋常ではないご様子であった。
昨夜、法皇のご容態が思わしくないため、近習の貴族や側近の者、僧綱(高僧)や内供(宮中の僧侶)などが3組に分かれて護持祈願を行った。ご病状は予断を許さないほどであった。
深夜の亥の刻(午後10時ごろ)、法皇は一時的に起き上がり、歌を詠んで次のようにおっしゃった。
「はかない我が身が風の吹く宿(この世)を去り、あなた(皇后)をこの世に残して、塵(あの世)へと旅立つことがなんと悲しいことか」
そのお言葉から、皇后に対する思いがひしひしと感じられたが、はっきりとしたお気持ちを伺い知ることはできなかった。このとき近侍していた貴族や側近、また男女を問わず道俗の関係者など、この言葉を聞いた者の中で涙を流さない者はいなかった。

御堂関白記(藤原道長) 寛弘八年(1011年) 六月二十一日
二十一日、癸亥。此の夜、御悩、甚だ重く興り居給ふ。中宮、御几帳の下より御し給ふ。仰せらる、「つ由のみの久さのやとりに木みをおきてちりをいてぬることをこそおもへ」とおほせられて臥し給ふ後、不覚に御座す。見奉る人々、流泣、雨のごとし。
  ↓ 現代語
6月21日(癸亥の日)の夜、法皇のご容態が非常に悪化し、ひとまず床におつきになった。中宮(皇后)は御几帳のそばでお傍に寄り添っていた。法皇は、「露の身の 草の宿りに 君をおきて 塵を出でぬる ことをこそ思へ(つゆのようにはかない身がこの世の宿に留まり、あなた(皇后)を残して塵の身(あの世)へと去ってしまうことを、なんとつらく思うことか)」とおっしゃったあと、再び横になり、そのまま意識が遠のいてしまわれた。
この様子を見守っていた人々は、こらえきれずにまるで雨が降るように涙を流していた。

法皇(一条天皇)の辞世の句は、藤原道長と藤原行成がそれぞれ書き取っていますが、若干の違いがあります。ただし、法皇のそばで寄り添っていた皇后へのやさしさが感じられる歌だったことは確かなようです。
藤原行成「露の身の 風の宿りに 君を置きて 塵を出でぬる ことぞ悲しき」
藤原道長「露の身の 草の宿りに 君をおきて 塵を出でぬる ことをこそ思へ」

小記目録(藤原実資) 寛弘八年(1011年) 六月二十二日
二十二日。一条院、崩ずる事<最後の御歌有る事。>。
  ↓ 現代語
6月22日。一条天皇が崩御される(最後の御歌があった)。

小右記(藤原実資) 寛弘八年(1011年) 六月二十二日
二十二日。(『中右記』大治四年七月十七日条による)左大臣、軽服を着す。神事有る時、吉服を着せらる。
  ↓ 現代語
6月22日(『中右記』大治4年7月17日条による) 左大臣が喪服を着用。神事の際には吉服を着ることとされた。

権記(藤原行成) 寛弘八年(1011年) 六月二十二日
二十二日、甲子。卯剋、院に参る。近く床下に候ず。御悩、危急に依りて、心中、竊かに弥陀仏、極楽に廻向し奉るを念じ奉る。上皇、時々、又、念仏す。権僧正并びに僧都深覚・明救・隆円・院源・尋光、律師尋円等、又、近く候じ、念仏す。僧正、魔障を追はんが為、只、加持を奉仕するなり。辰剋、臨終の御気有り。仍りて左大臣、右大臣以下に示し、皆、殿を下らしむ。「暫くして、蘇生せしめ給ふ」と云々。即ち諸卿等、参上す。
午剋、上皇の気色、絶ゆ。左丞相の命に依り、下官、初め穢あらず。倩ら思慮を廻らすに、穢あらずして出仕すべき理無し。即ち触穢を案内し申す。
  ↓ 現代語
6月22日、甲子の日。卯刻に院へ参上し、床下に控える。御病が危篤状態であるため、心中でひそかに阿弥陀仏を念じ、極楽往生を祈る。上皇も時々念仏を唱えられる。権僧正や僧都の深覚、明救、隆円、院源、尋光、律師尋円らも側で念仏を唱える。僧正は魔障を除くため加持祈祷を行う。辰刻に臨終の気配が現れる。左大臣、右大臣以下に伝え、皆退出させる。「しばらくすると息を吹き返されるだろう」と言われ、諸卿らが再び参上した。
午刻、上皇の御容態が絶える。左丞相の指示により、私は穢れ(不浄)に触れていない者として扱われた。しかし、よく考えると、穢れがないまま出仕する道理がない。そこで、穢れに触れたことを報告し申し上げた。

御堂関白記(藤原道長) 寛弘八年(1011年) 六月二十二日
二十二日、甲子。巳時、崩じ給ふ。候ずる人々に座を立たしむるを示す。候ずべき人々を相定めて侍らしむ。「候ずべし」と申す者、多しと雖も、行事有り。仍りて候ぜしめず。
  ↓ 現代語
二十二日、甲子の日。巳の刻(午前10時ごろ)、崩御された。見守っていた人々にはその場を離れるよう指示があった。引き続き控えるべき人々が選ばれ、待機させられた。「控えさせてほしい」と希望する者も多かったが、儀式があったため控えさせなかった。

権記(藤原行成) 寛弘八年(1011年) 六月二十三日
二十三日、乙丑。院に参る。
  ↓ 現代語
二十三日、乙丑の日。院に参上する。

権記(藤原行成) 寛弘八年(1011年) 六月二十四日
二十四日、丙寅。院に参る。修理大夫相公、参議・匠作・勘解三官職を辞す状を、右少弁資業朝臣に持たしめ、左丞相に奉る。丞相、報じて云はく、「右大弁に付すべし」と。
  ↓ 現代語
二十四日、丙寅の日。院に参上する。修理大夫の相公(※)が、参議、匠作、勘解由三官の職を辞する旨の文書を右少弁の資業朝臣に託し、左丞相に奉呈した。左丞相からの返答は「右大弁に渡すべし」であった。

■寛弘八年(1011年) 六月二十五日 一条天皇の葬儀の準備

小記目録(藤原実資) 寛弘八年(1011年) 六月二十五日
二十五日。光栄、崩後の雑事の日時を勘申する事。
  ↓ 現代語
二十五日。光栄が、崩御後の雑事の日程について勘案して報告する。

権記(藤原行成) 寛弘八年(1011年) 六月二十五日
二十五日、丁卯。世尊寺より院に参る。亥四剋、御入棺。之を作りて西北小門に在り。此の時剋、主典代并びに後院の人等、共に之を舁き、蔵人町の前并びに花徳門・仙華門等代の戸を経、之を殿の南簀子敷の上に置く。殿上人、之を伝へ舁く。蔵人左兵衛少尉橘義通・文章生藤原章信等、燭を秉りて前行す。伊予介広業朝臣、導引す<白杖を持たず。延長の例と違ふ。>。夜大殿の南戸の内に舁き置く。御床、南頭。権僧正、尋光・隆円両僧都、尋円律師、并びに右宰相中将・内蔵頭等、此の役を奉仕す。源・藤中納言并びに予、二間の御障子より入り、亦、候ず。后宮・儲君、又、他の宮々の御形代、各、縁有る人々、密々に之に入る。例なり。
事了りて、春宮大夫・宰相中将と退出す。
此の日、院司等、大炊頭光栄朝臣を召し遣はし、御葬送の雑事・日時を択び申さしむ。云はく、「御棺を造る日時、今日丁卯、時、巳四点。御沐浴の日時<亥方の水を汲むべし。>、同日、子四点。御入棺の日時、同日、時、子四点。地鎮の日時<乾方。>、来月八日己卯、時、寅四点。初めて山造を行なふ日時、同日、時、巳四点。素服を裁縫する日時、同日、時、巳四点。素服を着する日時、同日、時、巳四点。御出行の日時<乾方に向かひ御すべし。>、同日、時、亥四点」と。此の日、左大臣・春宮大夫・中宮権大夫源中納言、南廂の西第一間に候ず。旧記等に因りて、御葬送并びに御法事の雑事等を定めらる。内蔵頭公信朝臣、同廂の西階の下に候ず。亦、伊予介広業朝臣、同じく候じ、筆を執りて定文を書く。時に予、世尊寺より参り、殿上の南戸の内に候ず。源相公、之より先、此に在り。予、大臣の命に依り、南廂に候ず。予は院司に非ず。此の定を知るべからず。然れども只、近習侍臣たるを以て、籠り候ず。亦、此くのごとく末席に備へ得るのみ。
その定文に云ふ。
 御葬の雑事。
一、御棺を造る事<始むる時、巳四点。>
 行事、広業朝臣、判官代、式部少丞藤原惟任・大膳属犬飼忠時。
 御入棺の人々。
  公信朝臣<内蔵頭、別当、左中将。>・長経朝臣<左京大夫、皇后宮亮。>・広業朝臣<伊予介、前学士。>・朝任<左近少将、元蔵人。>・資業<右少弁、東宮学士。>・成順<判官代、式部大丞。>・惟任<同上。>・季任<判官代、主殿助。>。
 秉燭二人<布燭を儲くべし。>。
  義通<蔵人、左兵衛尉。>・章信<蔵人、文章生。>。
一、御輿を造る事。 行事、広業・惟任・忠時。
 御輿長。
  公信朝臣・景斉朝臣<散位。>・兼貞朝臣<左京権大夫。>・長経朝臣・広業朝臣・輔公<右衛門佐。>・泰通<美作介。>・朝任・資業・成順・惟任・季任。
 駕輿長四十人<庁の寄人を用ゐるべし。>。
  行事、惟任、主典代内蔵属時重・大膳属忠時。
一、焼香の事<高坏四本。瓫を置くべし。>。 行事、義通。
  義通・章信・雑色頼職・範永。
 瓫持。
  助清・孝行・式光・済通<以上、蔵人所。>。
一、行障十六基。行事、章信。
  宣輔<弾正忠、元蔵人所。>・時重・知貞・周望・以康・義忠・明範・国成・通道・経道・実行・頼義・重規・明通・為業・満輔<以上、蔵人所。>。
一、歩障八条<各五幅。>。 行事、章信。
  持つ人。
一、黄幡。
一、炬火十二人。 行事、季任。
  経通朝臣<権左中弁。>・重尹朝臣<右中弁。>・理義・信経・行義・行資・孝標・実房・定佐・頼貞・頼任・隆光<以上、蔵人大夫、非殿上。>。
一、御前僧二十口。
  権大僧都明救・深覚・隆円、前権少僧都尋光、権律師尋円・懐寿・実誓。
  證空・庄命・日歓・定基・尋増・朝晴・仁盛・智算・融碩・祈統・法修・院慶・定暹・弘源・厳因。
一、山作所。
  行事、為義朝臣<左衛門権佐、中宮大進、摂津守。>・国挙<但馬守、元後院別当。但し非殿上。>・高橋国忠<元、所の出納。>。
 御竈所。 公信朝臣・広業朝臣・輔公・泰通・資業。
 迎火十五人。 行事、季任。
  相尹朝臣<左馬頭。>・頼宗朝臣<右中将。>・朝経朝臣<左中弁。>・顕信朝臣<侍従。>・説孝朝臣<左大弁。>・資平朝臣<侍従。>・忠経朝臣<左少将。>・生昌朝臣<播磨介。>・為盛・則光・中尹<左衛門権佐。>・貞光・広政・定輔<以上六人、蔵人大夫。>。
 上物。 行事、惟任。
 素服所。 行事、公信朝臣。
  清通朝臣<中宮亮、後院別当、非殿上。>・多治時政<所の出納。>。
 七々の御法事を定む。
一、御仏の事。
  金色御等身の釈迦像・阿弥陀如来像・弥勒慈尊像、各一体。前机六脚并びに閼伽三具を具ふべし。
   行事、春宮大夫藤原朝臣、判官代藤惟任。
一、名香。
一、御経。
  金泥の法華経一部<開結経を加ふ。>・阿弥陀般若心経。水精の軸・雲母の帙簀・螺鈿の筥<紫檀の地、花足・敷物・掛組覆等を加ふべし。>。
   行事、春宮大夫藤原朝臣・蔵人藤章信。
一、御願文<匡衡朝臣に仰すべし。>。
一、七僧の法服。
  七条の袈裟<横被を加ふ。>・裳の表袴・単重の袙・大口・座具・挿鞋・扇・襪・筥・裹<高坏を加ふ。>。
   行事、中宮権大夫源朝臣、判官代、成順。
 布施。
  呪願<絹十六疋、米三十石。>・講師<絹十四疋、米二十五石。>・三礼・読師<並びに同上。>・唄<絹十二疋、米二十石。>・散花<絹十疋、米十五石。>・堂達<絹八疋、米十二石。>。
   已上、絹八十八疋・米百五十二石。
 粥時。
 左大臣・右大臣・内大臣・大納言藤原朝臣・春宮大夫藤原朝臣・中宮権大夫源朝臣・左衛門督藤原朝臣。
一、請僧。
  呪願権僧正慶円、講師前権大僧都院源、
  三礼大僧都明救、読師大僧都隆円、
  唄師前権少僧都尋光、散花権律師尋円。
一、百僧。
  権少僧都澄心・林懐・如源・清寿。
  権律師文慶・盛筭・明憲・教静・懐寿・朝寿・実誓・永円。
  法橋上人位慶算・扶公・会胤・仁也・経理・智印・義慶・増祐<已上、三会の已講。>。
  朝晴・仁盛・平能・観真・良因・明懐<已上、東大寺。>。
  日歓・康便・明堂・良胤・智算・法修・詮寿・寿慶・融碩・澄円・経救・道讃・永照・真範・基蓮・安潤・長保・陽邦・弘源・兼範・仁統<已上、興福寺。>。
  仁㑺・蓮海・康延・庄命・澄空・日助・明尊・遍救・覚縁・守聖・厳因・明泰・兼捴・念覚・延救・念源・院慶・平救・寿暹・定暹・忠円・円縁・頼命・済仲・助忠・証誉・尋教・朝守・祈統・心誉・戒心・興壔・明暹・政助・賢縁・日円・尋増・貞叙・真円・増空・成秀<已上、延暦寺。>。
  仁海・尋清・相寿・安祐・康静・源挹・安尊・成典・光慶<已上、東大寺。>。
  胤香<大安寺。>・扶邦<元興寺。>・輔静<薬師寺。>。
一、布施。粥時。
  行事、中宮権大夫源朝臣、判官代、源頼国。
一、御誦経の事。
  御装束二襲<昼一襲・夜一襲。>。
  御香炉筥一合。
  三衣筥一合<袋居筥を加ふ。>。
  信濃布五百端。
   行事、公信朝臣・季任・多治時政。
一、堂具。
  散花机二脚<覆・地敷・紐の敷物を加ふ。>。
  行香机一脚<敷物・地敷・輪四口・火蛇一面・馬頭盤一枚・匕八枚を加ふ。>。
  花筥百十枚。
  文挿二枝。
   行事、中宮権大夫源朝臣、判官代、高階成順。
一、堂の荘厳。
  鋪設。
   行事、公信朝臣・季任・多治時政。
一、饗。
  殿上料五十前・蔵人所二十前。行事、朝任。
一、施行の事。
  米二十石。
  行事、為義朝臣・保資<左衛門尉。>・重親<右衛門志。>。
 御正日の雑事を定む。
一、御仏。
  行事、公信朝臣。
一、御経。色紙の法華経一部・開結経・阿弥陀般若心経等。帙簀の筥等を加ふ。
  行事、皇太后宮権大夫。
一、御誦経。
  行事、成順。
一、七僧の法服。
  七条の袈裟七条<横被を加ふ。>。 左大臣。
  檜皮色の表衣七領。 同上。
  同色の裳七腰。 藤大納言。
  鈍色の表袴七腰。 春宮大夫。
  同色の袙七重。 道方朝臣。
  紅染の大口七腰。 中宮権大夫。
  裹・挿鞋・襪・扇、各七具。
   行事は惟任。
一、七僧の粥時。 行事、頼国。
一、題名僧の粥時。 行事、頼国。
一、饗。 行事、義通。
  殿上三十前<為義。>・蔵人所<輔尹。>。
一、請僧。
  七僧。呪願、権大僧都深覚。講師、前大僧都済信。
  三礼、権律師教静。読師、権律師朝寿。
  唄、権律師懐寿。散花、権律師実誓。
  堂達、證空。
  題名僧三十口。
   行事
一、布施。
  七僧、呪願<絹十四疋・米二十五石。>・講師<同上。>・三礼<十疋・十四石。>・読師・唄・散花<同上。>・堂達<八疋・十二石。>。
  已上、絹七十六疋・米百二十二石。
  題名僧三十口<各米二石・信濃布四端。>。已上、米六十石・布百二十端。
   行事、章信。

  ↓ 現代語
25日、丁卯。世尊寺から院に参上する。亥の四刻に御棺に入れる。棺を用意し、西北の小門に置く。この時刻に主典代や後院の人々が共に棺を担い、蔵人町の前や花徳門・仙華門の扉を通り、殿の南簀子敷の上に棺を置く。殿上人が棺を伝い担ぐ。蔵人の左兵衛少尉橘義通・文章生藤原章信が燭台を持って前を進む。伊予介広業朝臣が導くが白杖は持っていない。延長の例とは異なる。その夜、大殿の南戸の内に担いで棺を置き、御床の頭を南に向ける。権僧正、尋光・隆円両僧都、尋円律師、また右宰相中将・内蔵頭などがこの役目を務める。源・藤中納言及び私も二間の御障子から入り、参上する。后宮や儲君、また他の宮殿の御分身ら縁ある人々も密かに棺の前に入る。例に従う。 すべてが終わり、春宮大夫・宰相中将と共に退出する。
その日、院の司たちは大炊頭光栄朝臣を召し、御葬送に関する雑事・日時の選定を申告させた。光栄曰く、「御棺を作る日時は本日丁卯、巳の四点。御沐浴の日時〈亥の方から水を汲むべし〉は同日、子の四点。御入棺の日時も同日、子の四点。地鎮の日時〈乾方〉は来月8日己卯、寅の四点。最初に山作りを行う日時は同日、巳の四点。素服を裁縫する日時も同じく巳の四点。素服を着る日時も同じく巳の四点。御出行の日時〈乾方に向かい進むべし〉は同日、亥の四点」と。この日、左大臣、春宮大夫、中宮権大夫源中納言が南廂の西第一間に参集。旧記などにより、御葬送と御法事に関する雑事などを定める。内蔵頭公信朝臣も同廂の西階の下に参集。伊予介広業朝臣も同様に筆を取って定文を書き、私も世尊寺から参上し、殿上の南戸の内に侍る。源相公が先に到着していた。
広業朝臣が筆を執り、文書を書き終える。私は世尊寺から参上し、殿上の南戸内に侍るが、源相公は既に到着していた。その後、左大臣殿も到着し、主殿寮やその他の役人も参上している。儀式の次第を相談し終えると、各自が退出する。
夜が明けて、灯りを消して供養の念仏を唱える。私も朝方まで殿上にとどまり、今夜のための準備に励む。その後、各役人が再び集まり、儀式の進行と諸準備についてさらに確認する。棺の前での役割を決め、後宮や御分身の人々も参列することとなる。(以下略)

御堂関白記(藤原道長) 寛弘八年(1011年) 六月二十五日
二十五日、丁卯。御入棺の事・山作の事・御法事等の事を定む。御入棺は子時、造初の事は巳時、御沐の事は子時。御棺作所の行事は広業朝臣・惟任等なり。公信朝臣、宿所に来たりて云はく、「陰陽寮より人来たり、子三点の由を申す」と。即ち参上し、催し行なふ。引導は広業朝臣、殿上の六位一両・主典代等、相率ゐて南殿の簀子敷に候ず。御入棺。人々、伝へ舁く。 夜に入りて、殿に於いて、然るべき人々、留むること少々にして退出す。奉仕の人々、蔵人義通・章信等、脂燭を取る。僧正慶円・大僧都隆円・少僧都尋光・律師尋円・右宰相中将<兼隆。>・公信朝臣・明理朝臣・広業朝臣・資業朝臣等なり。此の日、広業朝臣・為義朝臣・光栄朝臣を以て、葬送所を定めしむ。乾方。其の次いでに仰す、「申方、吉き由なり。其の辺りに御陵と為すべき所有りや不や。之を見るべし」と。還り来たりて申す、「御喪所は巌陰の前方に吉き所有り。御陵と為すべき所無し」と。御棺を作り初むる時尅、巳四刻。御葬の雑事、并びに御法事等の雑の行事等を定む。御入棺の御装束を奉る。是れ御家の料、中宮の調へらるるなり。

  ↓ 現代語
この日に御入棺の時刻や山作りの手配、御法事の準備などを決定した。御入棺は子の刻(真夜中)、造り初め(棺の製作開始)は巳の刻(午前10時頃)、御沐浴の儀は子の刻で行う。御棺の制作担当は広業朝臣や惟任らが担当した。公信朝臣が宿所に訪れて言うには「陰陽寮から人が来て、子の刻に三つの星が重なって吉となるとのことです」との報告があった。そこで速やかに参上し、儀式の進行を急いだ。広業朝臣が引導役となり、殿上の六位の者一人、主典代などが南殿の簀子(床板の敷かれた場所)で待機した。
御入棺の儀が執り行われ、人々が棺を運び出す。夜になり、殿内で重要な人物らが少しの間とどまり、その後退出した。奉仕の者たち、蔵人の義通・章信らが蝋燭を持ち、僧侶の慶円僧正、大僧都隆円、少僧都尋光、律師尋円、右宰相中将兼隆、公信朝臣、明理朝臣、広業朝臣、資業朝臣らが従った。
この日、広業朝臣・為義朝臣・光栄朝臣らにより葬送の場所が決められた。乾の方角とされた。その後、御陵について「申の方角が吉であるとのことです。そのあたりに御陵を建てる適した場所があるかどうか確認するように」との指示があり、確認の後「喪所は巌陰の正面に良い場所がありますが、御陵として適した場所はありません」と報告した。
御棺を作り始めたのは巳の刻の四刻目。葬儀に関連する様々な準備や法事などについても全て定められた。御入棺の際の御装束は、御家の備えとして中宮が整えられたものであった。

小記目録(藤原実資) 寛弘八年(1011年) 六月二十八日
二十八日。崩後の固関の事<議有り。>。
  ↓ 現代語
この日、崩後の固関について議論があった。

権記(藤原行成) 寛弘八年(1011年) 六月二十八日
二十八日。早朝、四条大納言、昨日、送らるる所の書状を披く。云はく、「去ぬる二十五日の晩、内の召し有り。参入せんと欲する間、急病の者に依りて、参り候ずること能はず。昨日、忌日。頭弁、示し送りて云はく、『行幸の事、承り行なふべきなり。一昨日、吉日を択び、仰せ下されんと欲するなり』と云々。仍りて今日、凶会にて参入せず。明日、参り侍るべし。抑も上﨟を置きて此の事有り。未だ其の意を得ず。若しくは造宮所の事なども行なひ侍るべきなれば、人替の事、上﨟、便無かるべきか。已に遺る日無し。召物、近日、難、出で来るか。定めて謗難有るべし。之を如何為ん。若しくは聞し食す事や侍りし。密々に示し給へ。又、院の御事に依りて、三日の廃務、七日の御心喪有るべきか。行幸両日、其の内に在るべし。是れ極めて便無き事なり。自ら察する所か、如何」と云々。報じて云はく、「昨日の教命、只今、承る。近日、昼、院に候じ、夜、蓬に帰る。身病、相扶くる間、事に触れ、耐へ難し。抑も上﨟を置きて召し有る、并びに下﨟に替へて事を行なはせ給ふ等、共に意を得ず。然れども指せる宣旨有るに於いては、何ぞ固辞せしめ給ふや。但し事の案内、承る所無し。今日、院に参り、人々の御気色を見、執り申し侍るべし。又、十日は、計ふるに八日より三日の内に在り。十一日は七日の内に在り。共に便宜無かるべし。天暦六年、朱雀院、崩じ給ふ後、太后の御病悩に依りて、主殿寮に行幸する時、御心喪の内に在り。彼の時、相定めらるる所に准拠すべきか。但し此の度、新宮に入御せば、今、便宜無かるべきか。自ら定め行なふ所有るか。『一日、固関等、国に付さるべき由』と云々。『又、先例無きに依りて、付すべからず』と云々。如何なる事か。『御即位以前に固関を行なはるるは、已に先例有り。本国并びに往還の者の煩ひを省かんが為、国に付さる。又、何事か有らんや』とこそ侍れ。『抑も又、院の御葬以前、猶ほ国に付さるること難きか。此の事、延長の例を尋ぬべきなり。冷泉院の例に因り、行なふべし』と云々。何日ばかり、院に参らしめ給ふべきや。然れば其の日を承り、祗候すべきぞ」と。
院に参る。来月十日并びに十一日の行幸、停止す。是れ則ち院の御葬送、来月八日に在るべし。仍りて十日、事を視ざる限りの内に在るべし。十一日、御心喪の内に在るべし。事、便宜無き故に於いて、衆議、許さざる事、天聴に及び、止めらる。八月十一日を以て新宮に御すべきなり。件の日、初め光栄、之を難じ、択び申さず。其の由は、「火曜直日、新所に移徙すべからず」てへり。而るに今、他の日無きに依りて、此の日を以て行幸すべきなり。左府の命を以て之を聞す。「皇太后宮大夫、件の事を行なふ」と云々。
此の日、院に参る。初七日、御諷誦有り。「中宮権大夫・伊予介広業朝臣・大炊頭光栄朝臣等、金輪山に向かひ、御骨を安んずべき処を占ふ」と云々。
  ↓ 現代語
早朝、四条大納言が、昨日送られた書状を読み上げた。その内容はこうである。「去る25日の晩、内からの召しがあった。参加したいと思ったが、急病の者がいて行けなかった。昨日は忌日だった。頭弁からの示しに、『行幸の件について承って行うべきである。一昨日、吉日を選んで仰せ下さるようお願い申し上げます』とあった。したがって今日、凶会のために参加しなかったが、明日には伺うつもりです。しかし、上﨟を置いてこのことがあったのは、未だその意図がわからない。あるいは、造宮に関する事なども行わなければならないのかもしれないが、人替わりの件については、上﨟では不便だろう。もはや残された日数は少ない。召し物も近日中に出るかもしれない。恐らく謗難があるだろう。それにどう対処すべきか。もしかしたら、何かを聞いているのかもしれない。密かにお知らせください。また、院の件に関して、3日の廃務や7日の御心喪があるべきか。行幸はその日を含むべきだ。これは非常に不便なことである。自分が察する限りではどうだろう」と述べた。
その報告に対し、「昨日の教命は今受けた。近日中に昼間は院にいて、夜は蓬(自宅)に帰る。自分が病を抱えている間、いろいろと耐え難い事がある。そもそも上﨟を置いての召しがあること、また下﨟に替えて事を行わせるなどは、共に意に沿わない。しかし、指示された宣旨があるので、固辞する理由はない。ただし、事の案内を受けていない。今日、院に参り、人々の御気色を見て申し上げるべきである。また、10日は、8日から3日以内の計算にある。11日は7日以内にある。どちらも不便である。天暦6年、朱雀院が崩後、太后の病により主殿寮に行幸された時、御心喪の期間内にあった。あの時に決められたことを基準にするべきか。ただし今回は新宮に入る場合、今のところは不便であるかもしれない。自ら決めて行うべきことがあるのか。「1日、固関などは国に付すべきことがある」と言われ、「また、先例がないので、付することはできない」とも言われている。これはどういうことか。「御即位以前に固関を行うことは、すでに先例があり、本国と往還の者の煩わしさを省くために国に付される。また、何事かあるのか」と。さらに、「院の御葬以前には、なお国に付することが難しいか。このことは延長の例を尋ねるべきである。冷泉院の例に基づいて行うべきである」とも言われた。何日くらい院に参るべきか。その日を承り、謹んでお仕えするべきだ」と述べた。
院に参ると、来月の10日および11日の行幸が停止された。これは院の御葬送が来月の8日にあるためである。したがって10日は、事を視る限りのうちにいるべきであり、11日は御心喪のうちにあるべきである。事が便宜がないため、衆議は許さず、天聴に及び、止められた。8月11日をもって新宮においていくことが決まった。この日の初めに光栄がこれを難じて選びを申さなかった。その理由は、「火曜日の直日には新所に移ることができない」とのことである。しかし今は他の日がないため、この日をもって行幸することになった。左府の命によりこのことが知らされた。「皇太后宮大夫がその件を行う」と言われた。この日、院に参ると、初七日のお経の読誦があった。「中宮権大夫・伊予介広業朝臣・大炊頭光栄朝臣らが金輪山に向かい、御骨を安置すべき場所を占う」と述べられた。

御堂関白記(藤原道長) 寛弘八年(1011年) 六月二十八日
二十八日、庚午。
源中納言・広業朝臣・光栄朝臣、金輪寺に上り、御陵所を見る。
還り来たりて云はく、「件の所、上所なり。是れ故殿の大北方の墓所の傍なり」と。未だ一定せずと雖も、只、吉き処を求むるなり。
  ↓ 現代語
この日、庚午の日に、源中納言・広業朝臣・光栄朝臣が金輪寺に上り、御陵所を見て帰ってきた。その報告はこうであった。「件の場所は上所であり、故殿の大北方の墓所のそばである」と。しかし、まだ確定はしていないものの、ただ良い場所を探しているだけである。

小記目録(藤原実資) 寛弘八年(1011年) 六月二十九日
二十九日。行幸日、火曜に当たり忌有るべし。而るに水神日たるに依り、忌まるべからざる事。

御堂関白記(藤原道長) 寛弘八年(1011年) 六月二十九日
二十九日、辛未。
右大弁を以て、内の行幸の事を奏せしむ。
先日、来月十一日の由を申す。而るに院の御葬送は来月八日なり。行幸の日と彼の日、甚だ近し。八月十一日を以て行幸有るが宜しきか。
陰陽師等を召し、又、案内を召さる。一定有るが宜しきか。

小右記(藤原実資) 寛弘八年(1011年) 七月一日
一日、壬申。秋季十斎大般若読経、発願す<盛筭・念賢。>。去ぬる月二十七日、公誠朝臣、云はく、「故華山院の宮達の御元服、八月二十三日なり」てへり。天下大事の間、密々に行なはるべき由、相示し畢んぬ。亦、侍従中納言の指帰に従ふべき由を仰す。今日、重ねて来たりて云はく、「上達部の禄、必ず儲くべきか」てへり。加冠・理髪の人の外、納言二人・参議二人の禄ばかり、儲けしむるに、何事か有らんや。抑も彼の日の状に随ひ、左右すべき由を仰す。殿上人の禄、設くべからず。同じく其の由を仰す。夜に入りて、重ねて来たりて云はく、「案内を拾遺納言に触るるに、答へて云はく、『御元服の事、何事か有らんや。但し院、崩じ給ふ間、如何。前例を尋ねられ、行なはるるが宜しかるべきか。但し密々に行なはるるに、又、何事か有らんや。御元服有らば、御即位の威儀の役を奉仕せらる。其の事に依りて、位品を叙する事を奏せらるるが、便宜有るか』と」てへり。余、云はく、「院、崩じ給ふ間、御四十九日の内、有るべからざるなり。御忌を過ぐす後、密々に行なはるるが、事の難無かるべきか。重喪の人、元服の例、無きに非ず<『葬送の日の元服、其の例、多し』と云々。>。何ぞ況んや、実を論ずるに、服親に坐さざるをや。但し冷泉院の御戸に入り給ふ。仍りて従父兄弟と申すべし。其の服、七箇日か。事の忌み無かるべき者なり」と。抑も拾遺納言、親昵の人なり。又、左相府に洩らし申し、気色に随はるべき由を相示すこと、又、畢んぬ。天下巨細の雑事、只、左府の一言に在り。

御堂関白記(藤原道長) 寛弘八年(1011年) 七月一日
一日、壬申。右大弁、来たりて云はく、「行幸の事、定め申すこと有るべし」と云ふ。内々に吉平に召し問ふに、申して云はく、「八月十一日、先づ光栄朝臣、相共に宜しき日なり」と申す。此の旨を申すか。又、火曜日なり。又、前に吉日有り。仍りて彼の日を申さず、然るべき御祈りを成す。彼の日の行事、吉日と申す。

小記目録(藤原実資) 寛弘八年(1011年) 七月二日
二日。法興院御八講終の事。

小右記(藤原実資) 寛弘八年(1011年) 七月二日
二日、癸酉。法興院に参る<八講、終はる。入道殿の御忌日。>。皇太后宮大夫、弾正尹、右衛門督・左近中将、三位中将、参入す。行香、了りて、退出す。法興院に於いて、頭弁、云はく、「相撲、停止す。院、崩じ給ふに依る。前例、御即位以前、相撲無し。左府、云はく、『已に両事有り。重きに依り仰せ行なはるべき由』てへり。仍りて院の御事を以て、仰せ下さるべし」てへり。頭弁、頗る猶予の気有り。「今日、坎日に依り、右府に申さず」と云々。「左府、院の御穢に候ぜらるる間、右府、承り行なふ」と云々。行幸延引并びに御心喪の間の事等、談有り。事等多く、記さず。「但し、此くのごとき事等、案内を知らず」てへり。子細、指示し訖んぬ。

小右記(藤原実資) 寛弘八年(1011年) 七月三日
三日、甲戌。按察の俸料の絹三十疋、今日、人々に頒ち給ふ。
御堂関白記(藤原道長) 寛弘八年(1011年) 七月三日
三日、甲戌。道方朝臣を以て、八月十一日、行幸吉き由を、吉平・光栄等、申すを奏せしむ。内々の事なり。陰陽寮を陣頭に召し、定めらるべき由を奏す。

御堂関白記(藤原道長) 寛弘八年(1011年) 七月五日
五日、丙子。御正日を院等、奉仕すべき雑事を定む。七僧の法服、袈娑・表衣は余、裳は藤大納言、表袴は春宮大夫、大口は中宮権大夫、袙は道方朝臣、御仏事は公信朝臣、御経の事は侍従中納言、布施等は匡衡・広業。七僧・籠り候ずる僧綱、并びに御修善を奉仕する僧等なり。御葬料、絹百二十疋。家より之を渡す。又、法服料の絹、又、之を渡す。行事、数を申す。

小記目録(藤原実資) 寛弘八年(1011年) 七月六日
六日。院、崩じ給ふ間の雑事。

小右記(藤原実資) 寛弘八年(1011年) 七月六日
六日、丁丑。申剋ばかり、院に参る。権僧正に相逢ふ。清談の間、左大臣、出で遇はる。立ちながら、良久しく、院、崩じ給ふ間并びに後々の雑事を談ぜらる。「御穢に籠り候ずべき事、諸人、難有るか。然れども、彼の間、心神、不覚にして、後の事を知らず、籠り候ずる所なり。籠り候ぜしむる後、院の間の事を見る。若し候ぜざらば、極めて便ならざるべかりけり」と云々。又、「素服を給はるべし。而るに彼是の人々、云はく、『来月十一日、行幸あり。若し参入せざらば、便無かるべきか。彼の日、御四十九日の正日なり。御素服を釈すべからず』と。亦、今、思ひ煩ひて、一定すること能はず」てへり。余、答へて云はく、「御穢に籠り候じ給ふ事、理、然るべからず。其の故は、新帝、未だ万機に臨まざる間、巨細の事を執行せしむるに、傍らに其の人無し。而るに御忌穢に籠り給ふは、如何」と。頗る甘心の気有り。素服を着せらるるは、案有るべき事なり。素服を給はると称し、行幸に扈従せざるは、便なかるべきか。其の間、事多し。偏へに亦、道理なり。又、云はく、「彼の行幸の日、馬に騎りて扈従すべからず。車に乗り、別の道を取り、参入すべし」てへり。又、云はく、「素服を給はらずと雖も、猶ほ軽服を着す。神事有る時、吉服を着すべし」と云々。又、云はく、「彼の十一日、院司等、仏事を奉るべし。須く中宮、奉仕せらるべし。而るに彼の日の行幸、入礼の諸卿、参入すべからず。五七日、東宮の御衰日に当たる。□らるべからず」と云々。気色を見しむる後、仏事を修せらるべきか。又、彼の十一日、中宮・東宮、東三条に渡御すべし。又、吉日無きに依るなり。下官、相府に申して云はく、「院司の外、吉服を着すべし」てへり。「但し、冠・表衣の外、平絹を着すべし。御四十九日の間、纓を垂れて院に参るは、便無かるべきか。纓を巻きて参入するは、如何」と。相府、答へて云はく、「然るべき事なり。就中、蔵人頭を経る人達、其の心有るべきか。又、自余の人達、綾の下襲を着するは、又、何の難有らんや」てへり。明日・明後日、慎しむ所有り。御葬送の日に参るべからざる由、拾遺納言に示す。披露せしめんが為なり。今日、参入の事、中宮に申すべき由、経通朝臣に含め了んぬ<宮亮なり。>。昏黒、退出す。

小記目録(藤原実資) 寛弘八年(1011年) 七月七日
七日。御心喪の陣定有るべき事。

小右記(藤原実資) 寛弘八年(1011年) 七月七日
七日、戊寅。大外記敦頼朝臣、来たりて、雑事を談ず。
右府、示し送られて云はく、「今日、定め申すべき事有り。必ず参会すべし」てへり。今・明、堅固の物忌の由を申す。計るに御心喪等の間の事か。申剋ばかり、召使、定有るべき由を告ぐ。所労有る由を答ふ。内より右衛門督、示し送りて云はく、「御心喪の定有るべし。前例、如何。定め申すべき趣きを密々に示し送るべし」てへり。

御堂関白記(藤原道長) 寛弘八年(1011年) 七月七日
七日、戊寅。大外記敦頼、来たりて云はく、「右府の消息に明日より廃朝有るべし。朱雀の御時、四日。華山の御時、五日。何に依りて定め申すべきや。又、諸道の勘文は如何と成すや」と。返り事して云はく、「日来、院に籠り候ずるに依りて、是くのごときを勘見せず。宜しきに随ひて、申し行なはるべし。但し彼の廃朝四箇日、是れは五日に当たるも、日の忌み有るか。猶ほ、五日、宜しきか。諸道の勘文の事、分明ならず。仰せ有るが宜しきか。若し前例有らば、其れに依るが、又、宜しかるべし」と。

■寛弘八年(1011年) 七月八日 一条天皇(法皇)の葬送の儀

小記目録(藤原実資) 寛弘八年(1011年) 七月八日
八日。院の遺令を奏する事。

小記目録(藤原実資) 寛弘八年(1011年) 七月八日
八日。今日より廃朝五箇日の宣旨の事。

小記目録(藤原実資) 寛弘八年(1011年) 七月八日
八日。院の御葬送の事。

小右記(藤原実資) 寛弘八年(1011年) 七月八日
八日、己卯。昨日の案内を敦頼朝臣に問ひ遣はす。其の返状に云はく、「昨日の定の事、参らるる卿相、右内府、右衛門督・左兵衛督。其の外、悉く故障を申さる。右府、敦頼を以て案内を左府に申さる。『朱雀院の御時、御心喪三月、廃朝四日。陽成院・花山の時、廃朝五日なり。日数、同じからず。諸道に仰せて勘申せしむべきか』てへり。御返事に云はく、『五日、是れ定例なり。四日に至りては、若しくは日次、宜しからず、行なはるるか。然るがごとき事、宜しかるべき様に申し行なはるべし。程遠かれば、重ねて仰せらるべからず』てへり。今日、遺詔を送らるる次いでに、召し仰せらるべきか」てへり。午剋ばかり、敦頼朝臣、注し送りて云はく、「内蔵頭<公信か。>、参らる。申されて云はく、『敦康親王、奏せしめて云はく、「院の遺詔、『挙哀・素服・葬官を停め、国忌・山陵を置くべからざる由』、宜しく奏せしむべし」と』てへり。右府、右仗に於いて蔵人景理朝臣を以て奏せらるること、已に了んぬ。仰せて云はく、『典法、□有り。須く先例に任せて之を行なふべし。然れども、遺詔に依りて、哀を停止し御する由、宜しく相触るべし』てへり。又、今日より五箇日、廃朝すべき由、宣旨を下さるること、已に了んぬ。注状、此くのごとし」てへり。昨日の諸卿の定、太だ不当なり。其の定に依りて行なはるる所か。陽成院・華山院の例等、受禅せざるに依り、只、五箇日の廃朝有るか。花山院、崩じ給ふ時、□礼を薄めらるる由、諸人、申す所なり。□□の儀無しと雖も、譲国と申すべき者なり。而るに亦、五箇日の廃朝有り、御心喪の礼無し。陽成院の例に至りては、譲位の事に非ざるに依り、只、廃朝有るのみ。当時の礼、陽成院に似ず。禅位の跡を尋ぬるに、心喪の限有るべし。御本服七日。此の間、御心喪有るべきか。諸卿の僉議、愚心、甘ぜず。後代の賢哲、必ず定むる所有るか。
今日、院の御葬送なり。慎しむ所有りて、参入せず。昨日、障る由を頭弁の許に示し送る資平、迎火の役を勤めんが為、酉剋ばかり、参入す。明日、案内を聞くべし。

権記(藤原行成) 寛弘八年(1011年) 七月八日
八日、己卯。今日、御葬送なり。「寅四点、地鎮。大炊頭光栄朝臣、奉仕す」と云々。巳四点、初めて山作所の事を行なふ。行事、左衛門権佐為義朝臣・但馬守国挙朝臣<非殿上。元後院別当。>。蔵人所の出納高橋国忠、之を行なふ。素服に当色を着さず。中宮大進に依るか。巳時、院に参る。同剋、素服を裁縫す<行事、云々。>。「左近中将公信朝臣、今朝、内裏に参る。大外記敦頼朝臣をして遺詔の旨を右大臣に伝へ申さしむ。右大臣、時に右近陣の座に在り。頭弁<道方。>を招きて遺詔の旨を奏せしむ。而るに弁、憚る事有る由を申す。大臣、許諾し、更に蔵人景理朝臣をして奏せしむ」と云々。「件の朝臣、蔵人に補せらるる後、未だ陣に出でて宣旨を下さず。今日、止む事を得ず。先づ吉書を下し、相次いで奏聞す」と云々。是れ頭弁の示し告ぐる所なり。遺詔の趣き、「先づ素服・挙哀并びに国忌・山陵等の事、一切、止むべきなり」と。「即ち一親王を以て申さしむる旨を伝奏せらる」と云々。亥時<四剋。>、人々、素服を着す<公卿、中宮権大夫・余・兵部卿・右宰相中将等、之を着す。他の侍臣、身忌に当たらざるは、并びに之を着す。但し左大臣・春宮大夫・藤中納言等、籠り候ずること難く、着せられず。左大臣、朝廷の公事、限り有り。其の中、必ず執り行なはるべき神事等、其の数有るべし。仍りて着せられず。春宮大夫、坊官たるに依りて着さず。天暦六年、小一条左大臣、坊官を兼ぬと雖も、院司たるに依りて、御葬の事を執り行なふ。已に素服を着す。時に随ふ儀、自ら以て相異するなり。藤中納言、衰日に依りて著さざるか。但し丞相・亜相、素服を着さずと雖も、今夜、着服せらる。「又、男女一品宮并びに女御達等の御料、各、使を差して送り奉る」と云々。行事中宮亮清通朝臣、後院司たるに依りて執り行なふなり。>。
同剋、御輿長等、御輿を舁き、中殿の北西渡殿の板敷の上に置く<元、此の西に片廂在り。主殿司の居る所なり。吉方を取らんが為、并びに便宜に、今以て壊却するなり。>。件の御輿、大床の上に五間の小屋形在り。帷を懸け、先後に小障子を立つ。左右に高欄在り。其の下、又、すすり有り。此の所に舁き置く後、暫く小屋形・すすりを撤す。御輿長等<御輿長八人。>、夜御殿の南戸に参り進み、舁き出で奉る<預め二間の南障子并びに母屋の西第一間の障子を放ち、舁き出し奉る道と為す。>。権左中弁経通朝臣・右中弁重尹朝臣、燭を秉り、御棺の前に供奉す。件の人、炬火人十二人の中に在り<四位二人。之に五位十人を加ふ。理義・信経・行資・実房・孝標・頼貞・隆光・頼任・定佐・行義等十人。旧、侍中なり。>。件の二人、時剋、已に至り、御輿を進み奉る後、御輿長等と夜殿の床の側に参り進む。時に権少僧都隆円・律師尋円、二人の持つ所の続松を転じ取り、殿内に入る。炬を付け、出でて伝へ授く。舁き奉りて大床の上に置く。すすりを覆ふ。次いで小屋形を覆ふ<件の御輿、前は西に在り、後は東に在り。御棺の枕上、東に在り。御入滅并びに入棺の日、御枕を返さず。>。権僧正慶円、呪願。前権大僧都院源、導師。
権大僧都明救・深覚・隆円、前権少僧都尋光、権律師尋円・懐寿・実誓、阿闍梨證空・祈統・院慶・定暹、内供庄命・定基・尋増、東大寺朝晴・仁盛、興福寺智算・融歓・法修・弘源、延暦寺厳因。
事了りて、御輿を荷ひ担ぐ<御前僧二十口、前行す。次いで御輿長等、荷ひ下る。御輿、駕輿丁等、荷ひ担ぐ。>。後殿の西より西北舎の東北を経しめ、乾方の築垣の壊たるるより一条路に出御し、大宮路より北に折る。世尊寺の北路より西に折れ、達智門路の末より、船岡の南西の脚を斜めに指し、更に北に折れ、紙屋河の北に添ひ、御山作所に上る。御輿、漸く長庭に至る比、若干町ばかり、諸大夫十五人、火を秉りて迎へ奉る<行事、季任。>。
迎火、左馬頭相尹朝臣・左大弁説孝・播磨守生昌・左近中将頼宗朝臣・左中弁朝経・侍従顕信・資平・右近少将忠経<以上、四位の殿上人。>・散位藤原為盛・橘則光・右衛門権佐藤原中尹・筑後権守藤貞光・散位藤広政・定輔<以上の六人、蔵人大夫。>。
其の行障十六基を、所衆、持つ。
行障を持つ者、弾正忠大中臣宣輔<元、蔵人所に候ずる者。>・時重・知貞<右馬允、紀。>・周望<雑色、藤。>・以康<雑色、平。>・義忠<少内記、藤。>・明範<右兵衛尉、平。>・国成<文章得業生、藤。>・通道<文章生、橘。>・経遠<学生、藤。>・実行<学生、藤。>・頼義<平。>。
焼香の者、四人<蔵人所内蔵允藤助清・大学允三善孝行・左兵衛尉宮道式光・高橋済通等、各、瓫を持つ[其の瓫、高坏に置く。]。>。所衆、高坏を持つ。又、所衆四人<蔵人左兵衛尉橘義通・文章生藤章信・雑色左兵衛尉藤頼職・蔭子同範永。>、香を頸に懸けて相副ふ。歩障、八条。庁の下部の小舎人等、之を持つ。黄幡<「此の幡、延長、小屋形の内に在り。天暦六年、蔵人所の人、之を持つ。康保四年、出納伴康兼、之を持つ」と云々。>、主典代内蔵属宗岳時重、之を持つ。外院の中の西掖に御休所有り。是に於いて御手水・御膳等を供す。次いで御竈所<先に御さんと欲す。導師・呪願、前のごとし。>。源中納言・藤中納言・余、御竈所に候ず。権僧正、同じく候ず。右宰相中将・内蔵頭公信朝臣・左京大夫長経朝臣・伊予介広業朝臣・右衛門佐輔公・美作介泰通・右少弁資業・式部丞惟任・主殿助季任・前権大僧都院源・権大僧都隆円・前権少僧都尋光・権律師尋円等、荼毘し奉る。此の間、上物を外垣の外の艮方に焼く。

御堂関白記(藤原道長) 寛弘八年(1011年) 七月八日
八日、己卯。此の日、院の御葬送。寅四点、山作を初む。巳四点、素服を縫ふ。

小右記(藤原実資) 寛弘八年(1011年) 七月九日
九日、庚辰。巳剋ばかり、資平、院の御葬送所より来たりて云はく、「只今、事了んぬ。昨日の亥四点、御葬送所<『巌陰。長坂の東』と云々。>に出御す<御輿。香輿・火輿、御輿の前後に在り。>。左大臣・右大臣・内大臣、大納言斉信、中納言俊賢・頼通・隆家・行成、参議兼隆・正光・経房・実成・頼定、御共に候ず。俊賢・行成・兼隆・正光、素服を給はる。中納言忠輔、院に候ず<留守。>。大納言道綱・参議懐平、左府の命に依り、大内に候ず。御骸骨、参議正光<参議、此の役を奉仕すること、往古、聞かず。>、頸に懸け奉る。前大僧都院源、相副ふ。金輪寺に置き奉るべし。而るに日次、宜しからざるに依り、暫く禅林寺の辺りの寺に安置す」と云々。「右少将雅通を以て、内より御弔有り」と云々。
後に聞く、「中納言時光、院に参り、御共に候ず。行歩、耐へ難く、途中より退帰す」と云々。或いは云はく、「御骨、円成寺に安置し、来月二日、金輪寺の辺りに埋め奉るべし」と云々。此の間、大蔵卿正光・蔵人式部丞成順・右衛門尉頼国、祗候す。

権記(藤原行成) 寛弘八年(1011年) 七月九日
九日。卯剋ばかり、事、漸く畢んぬ。源中納言・権大僧都深覚<深覚、初め左大臣の休息所に在り。>と相共に円成寺に向かふ。暫く御骨を安んずべき処を掃除せしむ。辰剋の終はり、事了んぬ。藤納言・余・兼隆相公・公信・長経・広業、及び慶円僧正・院源・隆円・尋光・尋円等、御骨を拾ひ奉り、之を白壺<四升ばかり。>に入る。僧正、光明真言を念誦す。大蔵卿相公、之を頸に係く。前僧都院源と、円成寺に移し奉る。
左大臣・春宮大夫・源宰相、外院の外の幄に候ず。内大臣・左衛門督・左宰相中将・左兵衛督等、穢ならずと雖も、此の幄の辺りに候ず。頭弁以下、又、祗候す。
巳剋、院に帰る<中途、小し禊す。>。次いで家に帰る。
後に聞く、「人魂二つ、御竈殿の中に落つ」と。又、暁更、白雲、天を亘ること有り。人、之を「歩障雲」と謂ふ。惟通朝臣、云はく、「此の夜、一宮に候ず。而るに院、御出の後、暫く出でて西遣戸の外に侍り。時に殿上の方より人魂有り。西北の角を指して行き走る」と云々。

御堂関白記(藤原道長) 寛弘八年(1011年) 七月九日
九日、庚辰。御葬の事、卯時、了んぬ。御在所、未だ定まらざる間、吉方たるに依りて、円成寺に渡し奉る。法帝の御骨、大蔵卿<正光>、之を懸く。前大僧都院源、供奉す。未前に深覚大僧都・源中納言を、納所に送り、御在所を見しむ。

小右記(藤原実資) 寛弘八年(1011年) 七月十日
十日、辛巳。晩頭、院に参る。皇太后宮大夫<公任。>、参会して云はく、「左府の御宿所に詣で、談ずるに、命せられて云はく、『両人、御葬送に候ぜざるは、然るべからず』と云々。『就中、大将、必ず候ずべきなり』と。頗る不快の気色有り」と云々。指せる職掌無き人、故障有るは、之を如何為ん。譴責無かるべきか。源宰相、云はく、「院源、帰り参る。仍りて御骸骨所に候ずべき由、大僧都明救の所に仰せ遣はす」と云々。或いは云はく、「明救、阿弥陀護摩を行なはる」と云々。黄昏、退出す。夜に入りて、景斉朝臣、来たりて云はく、「御骨に副ふ権僧正慶円、参入すべき定有り。而るに行歩、耐へ難き由を申し、参らず」と云々。「初め定むる日、内蔵頭公信、御骨を賷し候ずべし。而るに衰日に依り、役に従はず」と云々。是れ或いは申す所なり。

小記目録(藤原実資) 寛弘八年(1011年) 七月十一日
十一日。固関、国司に付すべき事<故院の御事に依るなり。>。

小記目録(藤原実資) 寛弘八年(1011年) 七月十一日
十一日。院の御骨、金輪寺を改め定め、圓成寺に安置する事<方角の忌に依り、三年後に円融院に置くべし。>。

小記目録(藤原実資) 寛弘八年(1011年) 七月十一日
十一日。参議有国、薨ずる事<六十九。>。

小右記(藤原実資) 寛弘八年(1011年) 七月十一日
十一日、壬午。今暁、参議有国、薨ず。春秋六十九<或る説に云はく、「昨、卒す」と。>。内に参る。皇太后宮権大夫、同じく参入す。頭弁、勅を伝へて云はく、「固関、国司に付すべきに、御禅位の後、未だ政を始めざる間に依り、官符を賜ふべからず。只、宣旨を給ふべし。天慶九・寛平九年等の例、頗る相准ふべし」てへり。謹んで之を奉り了んぬ。抑も先日、此の定有り。諸卿、院の御葬送の後、行なはるべき由を定め申す。而るに誠に御葬送、已に過ぐと雖も、猶ほ事を視ざる内に在り。亦、営ぎ行なはるべき事に非ざるか。此の趣きを以て頭弁に示す。答へて云はく、「尤も然るべき事なり。事を視ざる間、雑事を行なふ例を尋ね勘ぜられ、若し准ふべき事無くんば、其の由を奏せらるるは如何」てへり。大外記敦頼に仰せ、尋ね勘ぜしむる間、聊か思慮を廻らす。斯の事、左府、奏し定むる事なり。前日、御葬を過ぐす後、定めらるべき由を申す。而るに重ねて此の旨を答ふるは、不快有るべきか。仍りて尋ね勘ぜしめず。只、大外記敦頼を差し、宣旨の趣きを申さしむ。即ち帰り参りて云はく、「早く宣旨に任せ、之を行なふべし」てへり。固関の事、国司に附すべき由、便ち頭弁に仰せ下し了んぬ。天慶等の例を敦頼朝臣に問ふ。「是れ史久永、勘じ注し、頭弁に付す」と云々。其の日記を写し進めしめ了んぬ。「天慶九年四月二十六日」と云々。「是の日、伊勢国の固関使、覆奏す。使、到来す」と云々。「須く例に依り、官符を賜ふべし。而るに禅位の後、未だ内印の政有らず。仍りて寛平九年の例に准へ、只、宣旨を下す」と云々。今、案ずるに、此の日記、覆奏の例なり。既に国に付す例に非ず。然れども、例に准ふるを以て仰せらるる所か。事の旨を奏すべからず。今世の体、多く曩時に異なる。頭弁、云はく、「院の穢、宮中に引き及ぶ。仍りて触穢の人、宮中に参入す。近くは則ち、道方、院の座に着し、内の座に参り着す」てへり。又、云はく、「院の御骨、初め、金輪山に置くべきを定む。而るに尚ほ、円成寺に安置し、三箇年を過ぎて円融院に置き奉るべきを改め定む」てへり。「但し御骨に相副ふ人々、二十日に帰り参るべし」と云々。又、云はく、「廃朝五箇日を定め了んぬ。而るに左相府、云はく、『廃朝、畢る日、忌み有り。仍りて縮め行なふべからず。須く今二箇日を加へ、御心喪と為すべし』と」と云々。初め諸卿定むるは、道理を失ふに似る。更に亦、日次、宜しからざるに依り、其の余の日を以て、憖ひに御心喪の日を定めらるは如何。件の御心喪の事、兼ねて定めらるべき事なり。而るに諸卿、其の例を存ぜず、只、廃朝の事ばかりを定め申す。奇と為すべきなり。又、諸道に仰せられ、勘文を進らしむべきか。此の間の事、蹤跡、忘るるがごとし。又、云はく、「今日、中宮、下り居給ふべし。光栄朝臣、勘文を進る後に、申して云はく、『御在所より土殿に下り御するに、方忌有り。之を如何為ん』と。左府、云はく、『凶事、改め勘ずること無し。又、更に日を改むべからず。又、其の処を改むべからず。為す術無き事なり』と」と云々。「深く歎息の気有り。『今年、重く慎しむべきなり。仍りて此くのごとき事有るなり』てへり」と云々。

小右記(藤原実資) 寛弘八年(1011年) 七月十一日
十一日、壬午。民部大輔為任、月に乗じて来たる。多事を談ず。新主の御事等なり。「聴さるべき内外の卿相、左大臣、大納言道綱、中納言隆家、三位中将教通等」と。

権記(藤原行成) 寛弘八年(1011年) 七月十一日
十一日。「暁更、修理大夫、薨ず」と云々。酉剋、松前寺に向かふ。亥四剋、先妣并びに源中納言の御骸骨を改葬す。去ぬる長徳元年正月二十九日、先妣、即世し、同年五月九日、納言、又、薨逝す。先妣の瞑目、納言の在世の日に当たる。納言、在世の日、納言、素より火葬を許さず。仍りて件の寺の垣西の外に於いて、玉殿を造りて之を安んず。即ち是の納言、生平の日に行事せらるるなり。納言、下世の時、又、遺言を思ひ、同じく御骸を北山の幽閑の地に安んず。晨を得ずして、今に未だに改葬せず。去ぬる五日、大炊頭光栄朝臣を招き、此の事を遂ぐべき由を示し語る。彼の朝臣の許諾に依りて、此の日、改葬するなり。季信朝臣・理義朝臣・全朝臣・輔忠朝臣・茂信等、余に従ひて寺に向かふ。寺の預僧邦祈、又、此の事を知る。剋限、已に至る。先づ北舎代の下に到る。季信朝臣をして、火を御棺に搢ましむ。又、西倉代の下に到り、輔忠朝臣・邦祈并びに理義朝臣等をして、火を搢ましむ。遅明、各、事了んぬ。

御堂関白記(藤原道長) 寛弘八年(1011年) 七月十一日
十一日、壬午。源中納言・内蔵頭、円成寺に参り、御在所を修補せしむ。今日より、明救僧都を以て、円成寺阿弥陀護摩を奉仕せしむ。又、国々を以て固関せしむ。国に宣旨を付され了んぬ。閉じる

小右記(藤原実資) 寛弘八年(1011年) 七月十二日
十二日、癸未。院に参る。春宮大夫・藤中納言等に相遇ふ。清談の次いでに云はく、「故院、御存生の日、中宮・左府に聞かせられ、又、近習の人々に仰せられて云はく、『土葬の礼を行なはるべし。又、御骨を円融院法皇の御陵の辺りに埋め奉るべし』てへり。而るに忘却して其の事を行なはず。相府、思ひ出し、又、歎息す。仍りて御骸骨を暫く円成寺に安置し奉り、三箇年を過ぎ<大将軍、西方に在り。>、円融院法皇の陵の辺りに移し奉るべし。亦、一周忌の間、円成寺に於いて阿弥陀護摩を修せらる<伴侶、六口。>。又、未だ円融院に移し奉らざる前、三箇年の間、五箇口の僧を以て念仏を奉仕せらるべし」てへり。藤中納言、云はく、「中宮、昨日、土殿に下り居給ふべし。而るに方忌有るに依り、十七日に改めらる」と云々。凶事の定、両度に及ぶべからざるか。忌諱有る事なり。

権記(藤原行成) 寛弘八年(1011年) 七月十二日
十二日、癸未。暁更、松脂并びに油等を以て、遺骨を焼きて灰塵と成さしむ。即ち其の灰を小桶に入れ、鴨川に到る<近衛御門路の末に当たる。>。之を投げ水に流し、海中に入れしむ<時に辰剋ばかり。>。小し解除し、宅に帰る。
夏の末に夢みる。天、大雪。時に甚だ寒し。其の雪、天より降り、板敷に満つ。倩ら思ふに、天より降るは、天皇の御晏駕に遭ふなり。堂上に満ちて足踏むは、躬自ら此の夜の事を行なふなり。俗に夏の雪の夢を以て穢徴と為すなり。或る者、又、「検非違使、多く天より降るを夢みる。床子を鳥戸野に立て、共に之に坐し、山陵を卜す」と云々。時に一条院、御悩の間なり。崩御に当たり、夢徴と為す。而るに吉方を択ぶに依り、此の地を卜さず。其の後、冷泉院上皇、九月朔より不予、十月二十四日、遂に崩ず。来月十六日、御葬有るべし。「其の処、此の野に在るべし」と云々。其の夢相、亦説有り。又、信ずべからずと雖も、松桑、験有り。又、凡夫の通信と謂ふか。閉じる

小右記(藤原実資) 寛弘八年(1011年) 七月十三日
十三日、甲申。一本御書所の月奏、一昨、持ち来たる。而るに署せず返給す。疑ふ所有るに依る。時代、改まる後、旧のごとき宣旨有るべし。案内を預の隼人正元吉に召し問ふに、申して云はく、「一本御書所の例、聞かざるなり。内御書所、若しくは旧のごとき宣旨有るか」と。例を尋ねて申すべき由を仰す。今朝、重ねて参り来たる。申さしめて云はく、「年々の月奏の案、悉く紛失し、尋ね見ること能はず。蔵人致頼、小舎人を差し、頻りに催し仰すこと有り。之を如何為ん」てへり。含め仰せて云はく、「旧主の宣旨に依り、事に随ふべからず。新主、只、元のごとき宣旨を下さるる後、署すべきか。他の事、之のごとし。計るに、所々の別当の宣旨、相同じか。前例を尋ね見て、一定すべきなり」と。大外記敦頼朝臣を以て、史等に問はしむるに、宣理、云はく、「蔵人所の方の事なり。官中、知らず。但し新宣旨有るか」と。諸寺・諸司の所々の別当、一紙に書き、官底に下さるる者なり。何ぞ一所の事を知らざるや。宣理、前跡を知らざるに似る。抑も件の定文、文書の中より撰び出す。代、改まる後、新たに其の定有り。下官の案、適ひて相見ゆ。亦、『清涼抄』に見ゆ。今に至りては、宣旨を下さるる後、月奏に署すべし。

小右記(藤原実資) 寛弘八年(1011年) 七月十四日
十四日、乙酉。四条大納言、告げ送りて云はく、「昨、院に参る。左丞相に謁す。雑事の次いでに云はく、『諸卿・侍臣、御穢を忌まず、悉く以て座に着す。御四十九日の間、鈍衣を着さず、院に候ずるは、便宜無かるべし。今に至りては、鈍色を着して参入すべき由、定められ了んぬ』てへり。但し内に参る時、心喪の装束を着すべし」と云々。事、両端に分かる。拠る所無きに似る。左右の間、只、彼の定在り。此の定の後、未だ鈍色を着さず、院に参るべからず。「日来、下﨟の上達部及び殿上人、連日、円成寺に参る」と云々。御骨を訪ひ奉るか。其の心を得ず。

御堂関白記(藤原道長) 寛弘八年(1011年) 七月十四日
十四日、乙酉。盆供の事、宿所に之を奉る。内裏の御盆、陣の外より奉らる。是れ事初めに依るなり。夕立のごとく雨下る。万人、悦びと為す、悦びと為す。

小右記(藤原実資) 寛弘八年(1011年) 七月十五日
十五日、丙戌。早旦、資平を以て、未だ鈍色を着さざるに依り、院に参らざる由を近習の卿相に触れしむ。臨昏、資平等、来たりて云はく、「春宮大夫に触れ了んぬ。返事に云はく、『然るべき事なり。但し朱雀院の例、一周忌の間、卿相・侍臣、節会・行幸・神事等の外、鈍色を着す。須く彼の例に依るべし』と。略ぼ定むること、之のごとし」てへり。亦、御葬送の御共に候ぜざる事、一日、委しき旨を以て、春宮大夫に談ず。即ち相府に達す。和顔の気有る由、示し送ること有るなり。「資平・侍従、相共に円成寺に参る。立ちながら退帰す」と云々。

御堂関白記(藤原道長) 寛弘八年(1011年) 七月十五日
十五日、丙戌。外記敦頼、来たり、申して云はく、「上卿の月奏を奏せんと欲す。新帝、御し、此の度、初めなり。有国を入るるは如何。若しくは除くべきか」と。仰せて云はく、「除くが宜しかるべし」と。

小右記(藤原実資) 寛弘八年(1011年) 七月十六日
十六日、丁亥。内に参る。陣頭、人無し。座席を暖めず、退出す。「卿相・侍臣、鈍色を着すべき議有り」と云々。然れども、未だ指せる定を承らず。仍りて今日、心喪の服を着し、参入する所なり。昨日、若しくは左府・内府、定むる所か。
大外記敦頼朝臣、云はく、「昨日、左兵衛督、云はく、『御周忌の間、上達部、鈍色を着すべきか否か、先例、如何。若しくは見ゆる所有りや。勘申すべし』てへり。拠り勘ずべき方無し。朱雀院の御周忌の間の文書等、事の由を申すべし」てへり。又、云はく、「明日、参議有国の薨奏の事を申し行なふべし。但し、下官、若しくは皇太后宮大夫等の間、案内を示すべし」てへり。物忌の由を答へ了んぬ。

小記目録(藤原実資) 寛弘八年(1011年) 七月十七日
十七日。故院の旧臣、御傍親并びに院司の素服の外、人々、心喪の装束を着すべき事。
小記目録(藤原実資) 寛弘八年(1011年) 七月十七日
十七日。有国卿の薨奏の事。
小右記(藤原実資) 寛弘八年(1011年) 七月十七日
十七日、戊子。資平、院より告げ送りて云はく、「頭弁、云はく、『左府、命せて云はく、「御傍親并びに院司、及び素服を給はる人の外、鈍色を着すべからざること、初めの定のごとし。心喪の装束を着し、院及び内裏に参るべし」』と」てへり。件の定、日々変改す。宛も掌を反すがごとし。近日、心喪の衣服を着す。斯の儀を改むべからざるか。但し朝に定め、夕に変ず。猶ほ一定し難し。吉事に於いては、改むること無かるべし。況んや凶事をや。晩景、資平、来たりて云はく、「旧臣の着服の事、初め申し送るがごとし。但し或いは云はく、『御法事の日ばかり、皆、鈍色を着すべし』と云々」と。此の事、拠る所無きに似る。亦々、案内を取るべし。大外記敦頼朝臣、朱雀院の御時の殿上の侍臣<上達部。>の着服等の間の日記<天暦六年九月二十五日・二十六日・十月十八日の定。>を注し送る。件の日記、左府の命に依り、今朝、写し奉る者なり。頃くして、敦頼朝臣、来たりて云はく、「今朝、件の日記、相府に於いて、子細を見給ふ。仰せられて云はく、『右大臣・内大臣、余・皇太后宮大夫、弾正尹<時光。>、右衛門督<懐平。>・左兵衛督<実成。>、鈍色を着すべからず。只、心喪の服<「朽葉色の下襲・青鈍色の袴」と云々。>を着すべし』と」てへり。今日、参議有国の薨奏有り。皇太后宮大夫、之を奏す<「件の奏、書杖に挟み、上卿、御所に進みて奏す。書杖を返請す」と云々。>。敦頼朝臣、云はく、「今日、内大臣、内に参る。御即位の日を勘申せらるべき事有り。然れども、薨奏の事に依りて延引す」てへり。敦頼、云はく、「奏に着すべからざる事、思失し、仰せず。只今、帰り参る。内に於いて仰すべきなり。前例、上卿、仰せらるる所なり。而るに仰せられず、退出す」てへり。経営して参入す。故院の旧臣の装束の事、頭弁に案内す。其の報状に云はく、「今日、左府の命を奉りて云はく、『御傍親并びに院司、素服の人々の外、鈍色を着すべからず。猶ほ心喪の装束を着し、大内及び院に参るべし』と」てへり。府生仲遠、月奏を持ち来たる。申さしめて云はく、「一日、蔵人致頼、府生亮範に仰せて云はく、『今月の月奏、直欠を載すべからず。最初に依る』と」てへり。亮範、其の由を申さず。然れども、仲遠の伝へ申すに依り、直欠を付せず、仮に加署し了んぬ。

権記(藤原行成) 寛弘八年(1011年) 七月十七日
十七日、戊子。円成寺に参る。源相公、昨、同道を相約す。中御門の末に到り、同車して参り向かふなり。院の御骨、此の寺に安置し奉る<仁和寺法皇の御室、塔の西に在り。僧房の南端なり。>。大蔵卿宰相・左近少将朝任朝臣・式部丞成順・左衛門尉頼国等、去ぬる九日より祗候す。又、院源僧都、還りて院に候ず。明救僧都、相替はりて祗候し、阿弥陀護摩を修す。

御堂関白記(藤原道長) 寛弘八年(1011年) 七月十七日
十七日、戊子。巳四剋、中宮、土殿に御す。御在所より戌亥の方。并びに素服を着す。十三日は母の忌日に当たるに依るなり。其の日次、宜しからず。御在所に方忌有るに依るなり。二階の櫛筥・硯筥・火取等、之を奉る。大内より度々、召し有るに依り、参入す。先づ土御門に出で、自ら其の色浅の直衣・指抜等を着し参入す。亥剋、退出す。故有国の薨奏、皇太后宮大夫、奉仕す。

小右記(藤原実資) 寛弘八年(1011年) 七月十八日
十八日、己丑。「皇太后宮大夫并びに子定頼、故院の奉為、等閑の事有り」と云々。「一夜、左府の宿所に於いて、近習の上達部、会合し、誹謗嘲哢すること有り」と云々。「其の専一の人、礼部納言<俊賢。>」と云々。齢、艾年を過ぎ、人、一族に非ず。嗟乎、々々。「昨夕、左相府、内に参る<直衣を着す。>。院の御穢に籠り候ぜらるる後、今、初めて参る」と云々。

御堂関白記(藤原道長) 寛弘八年(1011年) 七月十八日
十八日、己丑。朝より雨下る。日来、夜々降る。
小右記(藤原実資) 寛弘八年(1011年) 七月十九日
十九日、庚寅。申剋ばかり、院に参る。藤納言・侍従中納言、右衛門督・右宰相中将等に相逢ふ。数剋、清談する間、左府、経通朝臣を以て、示されて云はく、「今日、慎しむ所有り、相逢はず」てへり。御念仏了り、衝黒、退出す。上達部・殿上人、御前に候ず。座席有り。然れども、余、侍所に候ず。源中納言・兵部卿、左兵衛督、御前の座に候ず。源中納言俊賢、下官の為、近日、頻りに讒舌有り。未だ其の心を得ず。

小記目録(藤原実資) 寛弘八年(1011年) 七月二十日
二十日。故院の御骸骨を器等に納め奉る事。

小右記(藤原実資) 寛弘八年(1011年) 七月二十日
二十日、辛卯。伝へ聞く、「故院の御骸骨、日来、円成寺に安置し奉る。今日、吉日なり。仍りて小韓櫃のごとき物<深蓋。>を作り、御骨の囊を納む。念代のごとき物<方二尺、一面に戸有り。>を作り、辛櫃に納む。辛櫃の上に小屋を造り、宝形を居ゑ、戸内に安置す。三箇年の後、又、更に御存生の時の御本意の処に移し奉るべし」と云々<御本意の処と謂ふは、是れ円融院の御陵の辺り。>。此の御骸骨、件の寺に逗留するは、又、初め金輪山に埋めんが為、源中納言及び陰陽師<光栄朝臣。>、他の人々、相共に其の処に臨み、点定して絵図を画き、石の卒堵婆を造り、設け置く。寔に未だ鎮謝に及ばずと雖も、已に其の所を定め了んぬ。天下、云はく、「是れ凶恠か」と云々。彼の事を以て験と為すべし。遺言に至りては、大将軍・王相方を忌まるべからざる者なり。将曹正方、申して云はく、「史久永、仰せて云はく、『去ぬる八日、左大臣、右大弁に仰せ、相撲召合の停止を伝宣す。官符を造ると雖も、外記政、未だ始まらず、請印せず。且つ府を召し仰すべき由、右大弁に仰する所なり』と」てへり。資平、院より退出して云はく、「円成寺の事、了んぬ。大納言斉信、中納言俊賢、参議兼隆・実成・頼定等、院に参る。参議正光・左少将朝任、御骸骨に副ひ、動かし奉る。仍りて院の座に着さず。但し蔵人二人<成順・頼国。>、御骸骨を動かすに供奉せざるに依り、彼の所に候ずと雖も、穢と為さず」と云々。

権記(藤原行成) 寛弘八年(1011年) 七月二十日
二十日、辛卯。辰剋、左武衛相公、過ぎらる。同車して円成寺に参る。是より先、左京大夫長経朝臣、参る。参入の者、座に着さず。大蔵卿相公、御在所に候ず。相公、云はく、「明救僧都、日ごろ、阿弥陀護摩を修し奉る所、今朝、結願し、退出す」と云々。暫くして、源中納言・内蔵頭公信朝臣、一条院より参る。早朝より後院蔵人大学属内蔵忠親・修理職小工大江宗吉、工十人を率ゐ、東堂に於いて御骨を納め奉るべき小堂を奉仕す。堂、方一間、其の様、三昧堂のごとし。廂無し。三面、さくり羽目。一面、戸有り。四角の角木の上に板を葺くこと、屏の上のごとし。其の上に四角の蕨形を置く。中に葱花形を置く。堂内に押覆桶を置く<桶の上、押紙。>。源納言・余・大蔵卿・左兵衛督・内蔵頭等、相共に之を見る。又、催促す。此の間、春宮大夫・源宰相、参らる。又、蔵人少納言能信、参る。左京権大夫兼貞朝臣<父相公、日ごろ、候ず。仍りて其の陪従と為す。>・左近少将朝任・式部丞成順・左衛門尉頼国等、日来、此の寺に候ず。源公職<院の殿上人、宮内乳母の子、冷泉院判官代。>、今朝、参入して座に著す。
申の終はり、作事、了んぬ。工部、之を舁き、御在所の南妻に置く。大蔵卿・朝任・成順・頼国等、参上し、転じて御在所の南戸の外に舁き置く<成順・頼国、退下す。以上二人の穢、去ぬる八日より三十日を計ふべきなり。>。次いで戸を開け、本、在りし戸内の厨子一基を舁き出す<寺僧等、之を舁き出す。>。大蔵卿・朝任二人、小堂を舁き、戸内に入る。相公、堂の戸を開き、桶を取り出す。更に以て納め奉る御骨壺を件の桶に入る<白瓷の壺。茶垸器を以て蓋と為す。其れ白革の袋を以て裹み、桶に納むべし。>。事了んぬ。大蔵卿・朝任の穢、今日より三十日を計ふべし。件の穢の事、院に帰り参り、定めらるるなり。東寺阿闍梨安尊、明救僧都に代はり、今日より又、護摩を奉仕す。伴僧六口<僧都、奉仕せる時、伴僧、此くのごとし。>。御在所の廊二十二間、其の屋北の妻を壇所と為す。明救、御在所の南戸の外に於いて奉仕す。然れども五口の僧、今日より候ずべし。仍りて北妻を以て壇所と為す。御期年の間、奉仕すべきなり。
酉剋、院に帰り参る。春宮大夫、東門より参らる。源納言、西門より車を下りて云はく、「左丞相、今朝、命せて云はく、『寺より帰り参る人々、密々に西より入るべし』」と云々。此の間、黄昏の御念仏なり。事了りて左丞相、宿所に御す。食の後、更に殿上の東廂に参らる。丞相、春宮大夫<斉。>・源中納言<俊。>・藤中納言<隆。>・余、并びに前権大僧都院源・権大僧都隆円・前権少僧都尋光・権律師懐寿・尋円に示されて云はく、「円融院法皇の御陵の辺りに収め奉るべき由、御存生に天気有り」と<去ぬる九日早旦、山作所に於いて丞相、云はく、『土葬し、并びに法皇の御陵の側に置き奉るべき由、御存生に仰せらるる所なり。日ごろ惣て覚えず。只今、思ひ出すなり。然れども定めて益無き事、已に定まるなり』と云々。>。然れども方忌有る間、暫く円成寺の御室に安置し奉る<是れ仁和寺法皇の御室なり。花山法帝、又、御存生に、此の所に御す。仍りて御室と曰ふなり。>。今年より計へ、三箇年を経、其の冬十二月長に至り、先づ勘文を成さず。予め年月日の忌み無き日を推明す。此の僉議、僧俗の身に忌み無く、指せる障り無き人各一人、夜漏を以て、彼の御陵の近側の便宜の地に遷し奉るべし。惣て広きに及ばず、密々、之を行なふ。此の卿相・僧綱、皆、旧恩を蒙り、懇誠を致すべき人々なり。仍りて相共に議すなり。此の間、内蔵頭公信朝臣、又、来たりて此座の末に在り。「但し兵部卿<忠。>・右宰相中将<兼。>・左兵衛督<実。>・源宰相<頼。>等、此の座に在りと雖も、議の中に入るべからざる気色を見、予め退く」てへり。「大蔵卿<正。>・右大弁道方朝臣・伊予介広業朝臣・左近少将朝任等、此の座に預からずと雖も、必ず彼の役に候ずべき由、告げ知らしむべし」と云々。嗚呼、人命、定まらず。吾が生、奈何。君恩、必ず報いんと欲す。天命、必ず祈るべき者なり。事了りて、宅に帰る。

御堂関白記(藤原道長) 寛弘八年(1011年) 七月二十日
二十日、辛卯。円成寺の御在所、造り固め了んぬ。御床・御帳物等のごときを造り、納め奉る。人々、退出す。御修善、此の番、安尊、奉仕す。還り参る人々、三年を過ぎ、仁和寺の方に渡し奉るべき事、相定め了んぬ。春宮大夫・中宮権大夫・藤中納言・侍従中納言・大蔵卿、僧は院源僧都・隆円僧都・尋光僧都・尋円律師・懐寿律師等なり。御法事・僧前の事を定む。

小右記(藤原実資) 寛弘八年(1011年) 七月二十一日
二十一日、壬辰。内に参る。皇太后宮大夫・右衛門督、同じく参る。良久しく陣に候ず。晩に臨み、退出す。

小右記(藤原実資) 寛弘八年(1011年) 七月二十二日
二十二日、癸巳。章信、云はく、「七僧・百僧并びに僧前事等を定められ訖んぬ。七僧の僧前、左右内三相府、藤大納言<道>・春宮大夫<斉。>、治部卿<俊。>・左衛門督<頼。>。題名僧、殿上人」と云々。「定頼朝臣を除かる」と云々。四条大納言及び下官、定め宛てられず。若しくは御傍親・院司等に非ざるに依るか。将た許さざる気有るか。相府、不快の事、只、近習の卿相の言ひ催さしむる所なり。還りて以て恐惶すべし。過怠無きに依るのみ。
院に参る。殿上に候ず。左相府、小時くして、殿上に出でらる。晩頭、御念仏有り。左大臣・内大臣、治部卿・藤中納言、右宰相中将・左宰相中将・左兵衛督・源宰相、御前の座に候ず。御念仏、了りて、暗に乗じて退出す。内大臣・左兵衛督、鈍色を着すべからざる定の内なり。而るに皆、鈍色を着す。就中、内大臣、深き鈍色を着す。若しくは是れ、褻装束に依るか<直衣。>。今日、左相府に謁す。不快の気無し。雑事を談話すること、尋常のごとし。但し、内心を知り難し。内府、云はく、「一日、頭弁、仰せを伝へて云はく、『故院の尊号の詔書有るべし。其の事を行なふべし』てへり。崩じ給ふ後、尊号を行なひ奉らるる例、大外記敦頼を以て尋ね勘ぜしむるに、見ゆる所無き由を申す。延長の例に相准ふべし。然れども彼の間の日記、已に見ゆる所無し」と云々。左府、云はく、「猶ほ彼の時の例を尋ねらるべし」てへり。「又、院号有るべければ、延長八年の例を尋ね問はしむるに、見ゆる所無き由を申す。之を如何為ん」てへり。内府、云はく、「院号、詔書無きか」と。余、答へて云はく、「官符・宣旨の間か。抑も是れ、崩ぜしめ給はざる時の事なり。崩ずる後の例、知らざる事なり」と。内府、云はく、「件の事等、故殿の御日記に見ゆるか。若し見ゆる所有らば、示し送るべし」てへり。故殿の延長八年の例を引見するに、他の事を注され、件の両事を注されず。崩ずる後、尊号・院号等無きに依るか。

御堂関白記(藤原道長) 寛弘八年(1011年) 七月二十三日
二十三日、甲午。女方、夜半時、退出す。是れ悩気有るに依るなり。蔵人等に、禁色宣旨、了んぬ。或る者、之を着す。

小右記(藤原実資) 寛弘八年(1011年) 七月二十四日
二十四日、乙未。晩頭、頭馬頭、来たりて云はく、「昨日、禁色・雑袍宣旨を下さる。即ち禁色を着す。左相府、下襲・表袴なり」てへり。

御堂関白記(藤原道長) 寛弘八年(1011年) 七月二十四日
二十四日、乙未。大内の為に雑事を仰せらる。

小右記(藤原実資) 寛弘八年(1011年) 七月二十五日
二十五日、丙申。或いは云はく、「去ぬる夕、左相国、内に参り、雑事を奏聞す。主上、響応の気無し。撓ひ給ふべからず」と云々。
晩頭、院に参る。御念仏の間、御前に候ず。黄昏、退出す。春宮大夫・侍従中納言・兵部卿、祗候す。

御堂関白記(藤原道長) 寛弘八年(1011年) 七月二十五日
二十五日、丙申。白地に退出の間、瘧病、已に発り了んぬ。仍りて還り参る。

小右記(藤原実資) 寛弘八年(1011年) 七月二十六日
二十六日、丁酉。近日、上下、云はく、「斉信・俊賢両人、左相府の宿所に於いて、毎日、尊卑を讒言す。就中、俊賢、狂ふがごとし」と。或いは云はく、「俊賢、先主の時のごとく、顧問の臣たるべき由を、書状を以て女房<御乳母。所謂、本宮宣旨。>の許に送る。即ち奏聞を経るに、天気、不快」と云々。聞く毎に此くのごとき事なり。若しくは尋常ならざるか。貪欲・謀略、其の聞こえ、共に高き人なり。

御堂関白記(藤原道長) 寛弘八年(1011年) 七月二十七日
二十七日、戊戌。「女方、瘧病に依り、法性寺の堂に参る。発らず、還り来たる。頼通を以て座主に志す」と云々。

小右記(藤原実資) 寛弘八年(1011年) 七月二十九日
二十九日、庚子。故院の御法事の七僧の前を定められ了んぬ。「但し、七々の御正日、仏事を修せらるべし」と云々。彼の日の僧前を奉仕すべき由、資平を差し、院司の上達部に示し送る。帰り来たりて云はく、「春宮大夫に触るるに、大夫、云はく、『御消息、然るべき事なり。左府に申して報ずべし』てへり。即ち相府の命を伝へて云はく、『二日の御法事の僧前、皆、申請せらるるに随ひ、定め充つる所なり。亦、御正日の僧前、同じく申請せらるること有り。仍りて各、定むる所なり。抑も下﨟の人に触れ、彼の申す趣きに随ひ、茲より聞くべし』てへり。亦、『二日の僧前の事、除き申すに非ず。或いは兼ねて申請せられ、或いは亦、座に当たる人なり。申請せられざる人に至りては、定め充てざる所なり。更に故有るに非ず』と」てへり。四条大納言の消息に、「来月三日、清涼殿に於いて、三箇日、仁王経御読経<二十口。>を修せらるべし。行香、誰人を以て申し行なふべきか」てへり。左府の定に随はるべき由を報じ了んぬ。但し、雲上の侍臣は、代始に依り、始めて参る役に、仏事、如何。上達部、若しくは行事の卿相已下の間、宜しかるべきか。行事の上・弁・少納言等、如何。此の間、相府の定在るべし。例、造宮、了らば、御読経百口を南殿・清涼殿に於いて行なはるる所なり。諸卿を以て南殿の行香と為す。雲上の侍臣を以て清涼殿の行香と為すのみ。

小右記(藤原実資) 寛弘八年(1011年) 七月三十日
三十日、辛丑。申剋ばかり、故院に参る。左大臣・内大臣及び、已次の卿相、会す。御念仏の間、御前に候ず。両府、清談す。予、言語を交ふ。左府の気色、太だ温和。和して不快無し。内府、云はく、「醍醐先帝の臨終の比、貞信公、太政大臣を拝し給ふべし」てへり。余、答へて云はく、「然らざる事なり。朱雀院の御時か」と。左右、云々。左府、疑慮有り、内府ばかり、確執す。予、云はく、「『公卿補任』を以て決すべし」と。左府、御宿所に取り遣はす。披き見る処、果たして予の言有り。左府、大いに咲ふ。内府、答ふる所無きのみ。暗きに入る。

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