「すげぇ」としか言えなくなった徳川家光を祀る大猷院(たいゆういん)
日光一人旅の前回からの続きです。
今回はいよいよ輪王寺大猷院に向かいました。大猷院と言えば、第三代将軍徳川家光が亡くなってからおくられた諡号ですし、輪王寺に造られた家光の霊廟です。
かなり昔の話になりますが、20代後半の一時期に、毎週のように登山へ行っていました。近所とも言える奥多摩や奥秩父のほか、ちょっと遠出しようという時には、長野の八ヶ岳と栃木の日光周辺を歩きました。特に日光は冬に行くことが多く、白根山や男体山を中心に、麓のトレッキングコースも歩き回っていました。
そうして何度も訪れた場所なのに、日光と言えば……の一つ、輪王寺や大猷院へは行ったことがありませんでした。
■輪王寺の大猷殿がヤバい
ということで、東武日光駅から借りた自転車に乗って、すすす〜いと輪王寺の大猷院の目の前までやってきた……その後の話です。
自転車を降りた眼の前には、いきなり大きなお堂「常行堂」があります。うちの近所の寺であれば、立派な本堂だなぁと思うほどの大きさですが、日光山で見ると、一つの小さなお堂に見えるから不思議です。
御本尊は、平安時代末期につくられた、宝冠を頂き、クジャクに乗った「宝冠阿弥陀如来」とのこと。法・利・因・語の四菩薩を周囲に配し、それぞれもまたクジャクに乗ったお姿だそうで……重要文化財にも指定されています。
なんとなく先を急ぎたい気分だったので、堂内を見ずに通り過ぎてしまいましたが……見てみたかったなぁといまさらながら……。まぁ次回の楽しみということにします。ちなみに、こちらのお堂は、珍しく無料で内陣まで入れるということです。
2つのお堂については、こちらのブログで詳細が記されています。
また、江戸時代の絵図が筑波大学(?)のサイトで公開されています。
常行堂と法華堂をつなぐ渡り廊下の中央には、門のような造りになっています。「はて?」と思いながら近づくと、立ち入り禁止と記されています。調べてみると、天海大僧正のお墓である慈眼堂に続く道なのだとか。天海僧正と言えば、徳川家康のお友達で、上野の寛永寺を整備したり、日光山を復興したとも言われています。
以下はブログで読んだ未確認情報ですが、大猷院に申し込んで拝観料を払うと、慈眼堂も参拝できるそうです。どうりでネットで調べてみると、お堂の写真がけっこうたくさんアップされているんですね。
とういことで、次の写真からは大猷院です。
■いよいよ大猷院を参拝
大猷院は、この仁王門からはじまり、二天門、夜叉門と続き、さらに拝殿と本殿の唐門があります。そして徳川家光の墓所の目の前にあるのが皇嘉門です。階段を登ると門があり、また階段を登ると門が……というように、山水画のように立体的な構造となっているんですよね。
仁王門で待ち構えているのが、仁王像(金剛力士像)です。向かって右の密迹金剛は、「阿」と口を開き、左の那羅延金剛は、「吽」と口を結んでいます。
一説には、家光は「東照宮よりも豪華にしてはいけない」と遺言していたと言いますが……はっきり言うと、大猷院のほうが豪華な気がしました。
解説板には「九州の大名、鍋島勝茂公が寄進した御影石の御水舎」とあります。また天井には、狩野永真安信による龍の絵が描かれている……そうなのですが、これは全く見えませんでした。天気とかによるんでしょうか?
「御水舎」の奥には、徳川家光の家臣というか幼馴染の関係に近いんじゃないかという、梶定良の位牌が祀られている龍光院がチラリと見えます。ここは非公開なので、遠くからしか見られません。
梶定良は「家光公亡き後も、江戸から日光に移り住み、元禄11年(1698)に87歳で逝去するまで47年もの間、境内の警護にあたるとともに、家光公に霊膳を捧げるのを日課としました」と、案内板には記されています。サラッと書かれていますが、87歳になるまで、家光公に霊膳を捧げていたというだから驚きです……なぜって、ここから家光光のお墓までは、急な階段を何段も登っていかないとたどり着かないからです。
視線を変えるごとに、なにかすごいものが眼に飛び込んできて「すごいよ」と、つぶやかずにはいられませんでした
そして拝殿に入らせていただきましたよ。こちらは撮影禁止なので、案内板の写真を貼り付けておきます。
拝殿内部には、狩野探幽の描いた唐獅子が見られますし、天井には140枚の龍の絵があります。そのほか祖父の徳川家康が家光に贈ったという甲冑も飾ってありました。ものすごい豪華メンバーなのですが……博物館での展示に慣れていると……もう少しちゃんと管理しないと、あと200年はもたないんじゃないかなぁなんて思ってしまいました。
拝殿を出て、改めての唐門です。それにしても、いま思うと、大猷院って空いていますね。東照宮の喧騒と比べると、ガラガラと言っても良いレベルです。だからこそ、荘厳な気持ちになれたのかもしれません……って、東照宮とは違って、息子を連れてこなかったのも良かったのかもな。
そして、拝殿の横をめぐるコースを見てみました。下の写真は手前が本殿で、奥が拝殿です。
それにしても、葵の紋の多さも半端ないです。大猷院だけで、何万個の葵紋があるんだろう? と思いました。だれか数えた人はいませんかね?
こうして見ると、葵の紋っていろいろですよね。細かくまでは規定されていなかったのかもしれません。
ということで、塀にある小さな扉を通ると、最後の皇嘉門が現れます。
徳川家光公の御廟への入口の門です。中国の明朝建築の竜宮造りなのだそうです。たしかに中国風です。そのことから別名を「龍宮門」と呼ばれていますと、案内板に記されています。
ところで家光公のお墓は、この門の正面奥にあるのかと思ったら……地図を見ると、門を入って右側にあるのが不思議です。なんでズラしてあるんでしょうかね……って、そもそも御廟がある位置が中途半端な点も、不思議ですよね。なぜココに? という位置です。
そしてこの家光公の御廟は、前述した天海大僧正のお墓と対面するように建っているとかいないとか……。
ということで、大猷院を満喫したので、あとは振り返りながら引き返していきました。
上野東照宮では、少し形が異なりますが「透塀」と呼ばれているなぁと思ったら、大猷院でも同じように呼んでいるようです。こちらのほうが、ちょっと意匠が凝った感じですね。
そして、帰り道には灯籠が気になってしまいました。これも一つ一つがとても凝った作りになっているんですよ。
いやぁ……やっと大猷院の下までおりてきました……。写真を貼り付けていくだけでも、息切れがしそうです。
輪王寺の大猷院……ほんとに今までちょっと舐めていましたね。正直言うと、東照宮の付属寺院のように考えていたような気がします。それが、来てみてびっくり……いやいや、ほんとに家光公の遺言を破って、東照宮を凌いじゃってますから! と言いたいですね(誰にともなく)。
そして豪華なだけじゃないんです。杉の森の中に、こういって良いのかわからないんですけど、しっかりと馴染んでいる気がしました。言ってみれば長谷川等伯の『松林図屏風』に、歌川広重が鮮やかな色彩で建物を描いていったんだけど、しっかりと調和している……みたいな世界が広がっていました。ぜんぜん違和感がないんですよね。それが素晴らしいなぁと。
そんな大猷院を見たものだから、次に行く予定の輪王寺の本坊が楽しみになっていきました。ということで、次回は輪王寺の本堂である三仏堂を中心にお伝えします……できるかな……。
<以下は関連note>