狩野元信が描いた 『商山四晧(しょうざんしこう)』と『竹林七賢(ちくりんのしちけん)』
東京国立博物館で4月2日まで展示されている、狩野元信が描いた『商山四晧・竹林七賢図屏風』を、数週間前に観てきました。
狩野元信といえば、室町時代の絵師で、狩野派の祖・狩野正信の息子です。1476年(文明8年)に京都で生まれ、幼名は四郎二郎。10歳の時に将軍・足利義尚の近侍となり、絵師として最初に記録される作品は1507年(永正4年)に細川澄元の出陣影を制作したことだそうです。
その後も幕府や宮廷、寺院や町衆などから多くの注文を受けて活躍。漢画や大和絵の技法を取り入れて独自の画風を確立し、狩野派の基礎を築きました。1559年(永禄2年)に84歳で亡くなっています。
狩野元信が『商山四晧・竹林七賢図屏風』を描いたのは、彼が77歳の1553年(天文22年)のことです。この年に何が起こったかといえば、例えば武田晴信(信玄)と上杉謙信が直接対決した第一次の川中島の合戦も、この年です。つまり戦乱の時代だったということ。
『商山四晧・竹林七賢図屏風』は、『商山四晧』と『竹林七賢』という異なる2つ話を画題にした屏風絵です。
上の左隻(させき)に描かれているのは、「竹林七賢(ちくりんしちけん)」と呼ばれる7人の文人です。彼らは魏晋期(ぎしんき)に生きた阮籍(げんせき)などで、常に竹林(ちくりん)の下に集まって酒を飲み交わして自由奔放な生活を送ったと言われます 。
それに対して右隻(うせき)に描かれているのは、「商山四晧(しょうざんしこう)」と呼ばれる4人の賢者です。彼らは秦末(しんまつ)に乱を避けて商山(しょうざん)に隠れた人々。彼らが長男(ちょうなん)に仕えている姿を見た劉邦(りゅうほう・前漢の初代皇帝)が、長男を皇太子(こうたいし)に決めたという逸話があります 。
『商山四晧』と『竹林七賢』は、いずれも戦乱の時代のお話で、この絵が描かれたのも戦国時代……つまり動乱の時代です。だからこそ、狩野元信に発注した人は、この画題を選んだのでしょう。