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【日光山ガイド】輪王寺の三仏堂を見ずして日光は語れず!

日光へ旅行へ行ったときの記録の第三弾noteです。前回は輪王寺りんのうじ大猷院たいゆういんを訪れましたが、今回はその輪王寺りんのうじの本堂……三仏堂へ向かいました。

えっと……タイトルに関しては、輪王寺の三仏堂(本堂)を見た時に、瞬間風速的に感じたことです。それほど気になさらず、先を読んでもらえればと思います。

さて、大猷院たいゆういんを興奮気味に拝観したせいか、そこを出てからは、少し頭がボーッとしていたというかクラクラしていたような気がします。そのままふらふら〜っと、お隣の二荒山ふたらさん神社へ入っていき、拝殿から参拝。300円で本殿の近くまで行けるということでしたが……正直、頭の中は大猷院たいゆういんだけで情報量がパンッパンになっていたんです。それで……本殿はパスかなぁと。また今度、もっと空いている季節に行ったら、見てみたいと思います。

左が輪王寺りんのうじの常行堂で、その奥が大猷院たいゆういん。右が二荒山神社ふたらさんじんじゃ
二荒山神社の神門(木造四脚切妻造)
二荒山神社ふたらさんじんじゃの拝殿
入ってきた「神門」とは反対側にある「楼門ろうもん」。こちらからだと東照宮に近いです

二荒山神社ふたらさんじんじゃは、「神門」とは逆の「楼門ろうもん」から出ました。こちらのほうが、東照宮や輪王寺の三仏堂に近いです。

■二荒山神社から輪王寺への道のり

楼門を出て、十字路を東照宮に向かって歩いていきます。両側は大きな杉の木が林立していて、気持ちの良い道です。異常に道幅が広いのは、江戸幕府の歴代将軍(日光社参)や大名、朝廷からの使いである日光奉幣使(例幣使れいへいしとも)などが、行列で進むためだと思います。まずは東照宮(徳川家康公)へ行き、そこから二荒山神社や大猷院たいゆういん(徳川家光公)を参拝したんでしょうね。

広くて気持ち良い道です
丸型ポスト
前回行った、東照宮の宝物館

東照宮の南側にある御仮殿おかりでんへも行ってみました。前回は、「早く帰りたい!」と叫びながら腕を引く息子が一緒だったため、見られなかった場所です。

御仮殿おかりでんは、東照宮を修理する時などに、祀っている祭神……つまりは徳川家康、それにもしかすると豊臣秀吉や源頼朝を、一時的にうつしておくための御殿です。3代将軍の徳川家光が寛永16年(1639年)に建立したものだそうです。

御仮殿の中は無料で一般公開されていましたが、透塀すきべいの内側からは撮影禁止エリアです。様式は、拝殿と相の間と本殿とで構成された権現造り。入ると、それほど広くないスペースの外陣があり、何段か下げた内陣があります。壁や天井、柱などには彫刻や絵画が施されていますが、東照宮や大猷院たいゆういんを見た後なので、うわぁ〜っとなるほどではありませんでした。

透塀すきべい

なお、一般的な神社の本殿を修造する際にも御仮殿を作りますが、本殿工事の終了後には、御仮殿は壊されます。その御仮殿が常設されていた東照宮は、少し異例とのこと。なお、御仮殿が使われていたのは江戸時代までだそうで、1863年に使われたのが最後だそうです。

ここはサラッと拝見してから、次の輪王寺りんのうじ三仏堂へと向かいました。

■いよいよ輪王寺りんのうじ三仏堂へ……

輪王寺りんのうじ三仏堂……わたしは全くのノーマークでした。

輪王寺りんのうじというと、今では日光山の中のあちこちに関連施設があります。その本部が、三仏堂と呼ばれる本堂です。ただ、輪王寺りんのうじの本堂が、現在の地に定まったのは、明治以降のことです。また、名前が「輪王寺りんのうじ」となったのは江戸時代の1655年で、その前は「満願寺」であり、「四本龍寺」であり、初めは「紫雲立寺」でした。

最初の「紫雲立寺」から今の「輪王寺」につながる法統は、複雑です。で、その複雑な歴史を理解するには、まずは神仏習合の感覚を身に着けないといけません。というのも、今でこそ「こちらはお寺、あちらは神社」などと仏教と神道とを分けるのが一般的感覚ですが、江戸時代までの日本は、仏教(仏)と神道(神)は切り離すことができない関係だったからです。

輪王寺の本堂裏から見た三仏堂・本堂

詳しくは本地垂迹説ほんちすいじゃくせつや神仏習合を理解する必要がありますが、ざっくりと言えば「神と仏は同じ」ということです。日本では、まず神がいて、仏はインドから中国などを経由して輸入された宗教、思想、哲学です。この輸入する過程で、ジャパニフィケーション……日本化するのが、本地垂迹説ほんちすいじゃくせつであり神仏習合です(2つは厳密には異なりますが、難しいので同じようなものとして考えます)。

平たく言えば……誰かに怒られそうですけど……例えば、カレーみたいなもんだと思います。インドの味付けのカレーを、そのまま出す店は少ないですよね。カレーが日本の国民食とまで言われるようになったのは、日本人に合う味付けに料理してきたからです。日本のカレーをインド人に食べてもらったら「これはカレーではないよ」と言われるかもしれない……それくらいインドカレーと日本のカレーは異なるものです。

同じように、インド発祥の仏教(それにヒンドゥー教もかな)が、そのまま日本で受け容れられたわけではありません。日本の神と仏教の仏とを融合(習合)させたことで、日本人の受け入れやすい宗教……日本人好みの味付け……になったんだと思われます。もちろんカレーと同じように、たまには「インドの本格カレーです!」みたいな打ち出し方をする宗派も出てきましたが、誰もが知る宗派にまでは至っていません。

ちなみに神仏習合の一例を上げると、神道の「天照大御神あまてらすおおみかみ」は仏教の「大日如来(または十一面観音菩薩)」に当てはめられたし、「大国主神」は「大黒天」だったりです。

では、輪王寺の本尊はどうかと言えば、仏教的には千手観音・阿弥陀如来・馬頭観音が祀られています。そして神仏習合的には、千手観音とは、男体山という地元の神であり、大己貴命おおなむちのみことです。同じように阿弥陀如来は女峰山であり田心姫命たごりひめのみことで、馬頭観音は太郎山であり味耜高彦根命あじすきたかひこねのみことです。

Googleマップより

Wiikipediaに記されていますが、「日光山では山と神と仏が、一体のものとして信仰されていた」んです。これは輪王寺だけでなく、日光山内の神社も同じです。

ちなみに、前述した二荒山神社が祀っているのも、男体山、それに女峰山と太郎山であり、大己貴命おおなむちのみこと田心姫命たごりひめのみこと、それに味耜高彦根命あじすきたかひこねのみことです。つまり二荒山神社も輪王寺も同じ神を祀っていますし……誰かから怒られそうですが……そもそも二荒山神社と輪王寺は、同じものと言っていいでしょう。

なんてことを語っていますが、わたしも詳細を調べながら書いているだけです。

輪王寺りんのうじの三仏に対面して、ひれ伏しそうになりました

下の写真が、輪王寺りんのうじの本堂であり三仏堂を、正面から見たものです。

なぜなのか分かりませんが、多くの寺社の例にもれず、輪王寺も堂内は撮影禁止なので、ここからは文章で描写するしかありません。

階段を登って本堂に入ったところが外陣(2階だと思ってください)です。そこからいきなり本尊の三仏のお顔と、ほぼアイレベル(目線の高さ)で対面することになります。

そこからすぐに堂内の右側に導かれて……もっとゆっくりと見たかったなぁ……狭い廊下を歩いていくと、階段があります。1階に下っていくと暗がりの中で、本尊の三仏の真下に出ます。見上げると手前から千手菩薩、阿弥陀如来、馬頭観音と並んでいます。大仏の高さは7.5mほど。金箔の貼り替えなどの修繕が終わったばかりなので、キラキラと光っています。わたしの好みだと、金に光る仏像にありがたみを感じづらいのですが、この三仏には、「うわぁ〜」っとなってしまいました。ひれ伏しそうになったというのは、少し大げさかもしれませんが、自然と手を合わせてしまいました。

JR東日本と東武鉄道の共同キャンペーンのポスターです

堂内撮影禁止なので、写真を探しましたが、日光のお店などに貼ってある昔のポスターの写真(上)が、最もリアルに表現されていると思います。ちょうどこの写真のように、真下から三仏を見上げるような形になります。もしくは下の写真の2枚目も良い感じです(右側の→ボタンを一回押してください)。

■謎だった三仏の造立年は分かったのか?

Wikipediaには、この三仏の制作時期などの来歴が不明なために、文化財には指定されていないと記されています。ただ、本堂とともに本尊の三仏も、2010年から2019年まで「平成の大修理」が行なわれました。その際に、仏像の胎内(像内)から、年号や人名などを記した大量の銘文が見つかったそうです。

・千手観音 「光海法印 常州佐竹□□岩淵郷 宥清」※文亀4年の銘文
・阿弥陀仏 (光海のほかに)祐観上人 教阿弥など
・馬頭観音 (面部)御再興禁中様大仏師左京法眼康祐天和三年九月
(脚部)正保五年二月

『世界の海援隊』より

これを見る限りでは、少なくとも千手観音は500年以上前の文亀四年(1504)以前に作られたというのが、有力となりそうです。そうしたことが今後の研究ではっきりしてくると、三仏の文化財指定も、そう遠くない気がします……

……が……調べていたら、とても残念なことが分かりました。

『世界の海援隊』にも記されている通り、同寺では、奈良文化財研究所の主任研究員に依頼して、阿弥陀如来と馬頭観音それぞれの本体と光背身光部の年輪データを採取したそうです。そして、材木が切り出されたおおよその年代から、仏像の造立年を割り出そうとしていたわけです。

なのですが……2018年に、この主任研究員が、奈良文化財研究所の個室でスキャナーとプリンターなどを使い、1万円札2枚と5千円札1枚を偽造したことが発覚してしまいました(その後、数十枚の偽造紙幣を押収)。同氏……ではなく同容疑者は「借金返済にあてるため」と供述。同年8月10日には懲戒解雇されてしまいました(朝日新聞より)

既に逮捕から4年が経っている主任研究員のその後も気になるところですが、それよりも年輪データの測定が、どうなっているのかは、もっと気になりますね……。

■三仏以外にも素晴らしい仏像がズラリ!

輪王寺の本堂、三仏堂の薄暗い内陣で見られたのは、千手観音などの三仏だけではありませんでした。内陣の隅の方の、さらに薄暗いなかに納められているのが「金剛吼こんごうく菩薩像」や「軍荼利明王ぐんだりみょうおう」です。

上の写真は、江戸時代に作られたという「金剛吼こんごうく菩薩像」です。不動明王に似ていますが、左手に羂索けんさくではなく、千宝相輪を持っているのが特徴です。

そして上の写真は、室町時代に作られたのが「軍荼利明王ぐんだりみょうおう」。胸の前で両手を交差させ、正面の表情とともにとても力強い印象です。近くから見られませんでしたが、総高は約2.5mあるので、けっこう大きな像ですね。一般的な軍荼利明王は、顔が1つで手が8本ある一面八臂いちめんはっぴなのですが、こちらは四面四臂しめんよんぴとでも言うんでしょうか……もしくは見えないところに、まだ顔があるかもしれませんね。

その他にも、来月(2023年)2月3日までの間は「鎮将夜叉尊ちんじょうやしゃそん」が、9年ぶりに特別公開されています。

これは徳川家康のお友達で、日光山中興の祖とされる天海さんが、天下泰平や国家安穏をひそかに願ったとされる仏像なのだとか。夜叉の首の上に座す毘沙門天像で右手に宝棒、左手に宝塔を持っています。

白檀製で身丈一寸五分(約5cm)、製作年は不明。昔は僧侶や信奉者が袈裟けさに入れたり、髪に結い込んだりしていたそうです。ポータブルな仏像といったところですね。

■最後に改めて輪王寺と三仏堂について

冒頭でサラッと輪王寺について、名前(寺号)を何度も変えたり、引っ越しも多い寺院だったと記しました。この点を最初に記すと、内容として思いかなぁと思い、冒頭での記載を避けました。ただ、メモとして残しておきたいので、Wikipediaの情報を元にその変遷を簡単に記しておきます。

輪王寺の寺号と場所の変遷は下記のとおりです。

Googleマップに加筆

天平神護2年(766年)に、日光開山の祖と言われる勝道上人が、大谷川(だいやがわ)の対岸に聖地(滝尾神社付近)を見付け、千手観音を安置する一寺を建てた。これが「紫雲立寺(しうんりゅうじ)」で、その後に「四本龍寺(しほんりゅうじ)」と改めた。

いつの頃にか、現在の「四本龍寺(しほんりゅうじ)」の場所に移転。名前は「四本龍寺(しほんりゅうじ)」。

嘉祥元年(848年)三仏堂、常行堂、法華堂を創建。名前は「四本龍寺(しほんりゅうじ)」のまま。

平安時代に寺号を「満願寺」に変更。

鎌倉時代の仁治年間(1240年から1242年のころ)に、源実朝によって現在の東照宮付近に本堂を移転(男体山、女峰山、太郎山の三山の神を「日光三所権現」として祀る信仰はこの頃に定着したとされる)。

江戸時代の元和3年(1617年)に東照宮が創建された時に、満願寺の本堂(現:三仏堂)は、現在日光二荒山神社の社務所がある付近に移された。

江戸時代の明暦元年(1655年)に寺号を「輪王寺」に変更。

明治2年(1869年)に明治政府によって「輪王寺」の称号を没収されて、旧称の「満願寺」に戻される

明治4年(1871年)の神仏分離令により、政府に迫られて、本堂を、もともと輪王寺宮本坊があった現在の場所に移転。(おそらく移転前に)輪王寺宮本坊が焼失。

明治15年(1883年)に栃木県のとりなしで寺号を「輪王寺」に復帰。

主にWikipediaより抜粋引用

実は現在の「輪王寺」と呼ばれる期間よりも、「四本龍寺しほんりゅうじ」と呼ばれていた期間のほうが長いんですよね。

また、はじめに日光を開山した勝道上人の頃から、神仏習合の考えの中で世界観を構築しはじめていたとのこと。もともと日光山にあった二荒山神社の前身……とでもいうやしろと、寄り添うように寺域や思想が広げられていったのかなと。

そして、徳川家康が尊敬する源頼朝が、現・輪王寺の本堂を、現在の東照宮のあたりに移転したとされています(東照宮のどこなんでしょう?)。男体山や女峰山、太郎山の日光三山を祀るようになったのは、鎌倉時代からだったのでは? とされているので、本堂を移転した頃に、「三仏堂」が設けられた……というよりも、本堂に三仏が祀られるようになり、本堂が「三仏堂」と呼ばれるようになったのでしょう。

さらに時代が江戸に入ると、源頼朝が移転した現・輪王寺の本堂の場所に、今度は徳川家康が移ってきて、東照宮が建てられます。その東照宮には、徳川家康のほかに、源頼朝(それに豊臣秀吉)が祀られているのも面白いです。

で、東照宮造営のタイミングで、現・輪王寺は今の二荒山神社の社務所がある場所……つまりは二荒山神社に隣接される場所に、現・二荒山神社と一緒に移ります。(江戸時代は新宮と呼ばれていた)二荒山神社も現・輪王寺の本堂「三仏堂」も、今と同じ規模になったのが、この1617年ということです。

ちなみに、1617年以前の二荒山神社は、現・輪王寺の元となった四本龍寺の隣にありました。その場所は現在は「別宮本宮神社」として残っています。

現・輪王寺の変遷に、現・二荒山神社の変遷を重ねた地図です(Googleマップに加筆)

勝手な想像では、勝道上人が現在の滝尾神社のある場所に、現在の輪王寺と二荒山神社につながる社を作ったと……さらに、いつの頃か……平安時代あたりになのか、現在の四本龍寺のある日光山の入口に、その社を移動したのでしょう。そして源頼朝が、その中から仏教的な四本龍寺(満願寺)を抽出して、現・東照宮の場所に移転したと。

江戸時代以前を知らないので、確言はできないのですが、それ以前の神仏習合のトレンドとは、また異なるシステムに組み替えたのではないかと思います。戦国時代までの各地の神社とその別当寺は、各地の豪族の支配下にあって、それぞれの地域住民の心を豪族のもとにつなぎとめる役割を果たしていたんじゃないかなと(勝手な想像です)。それが江戸時代の神仏習合では、地域住民の心を、各地域の領主(大名など)ではなく、徳川家へ向けるように組み替える必要があったと(勝手に)考えます。特に大改革にさらされたのが、関東各地の寺社……わたしと関わりのあるところでは、江戸の浅草神社+浅草寺であり、常陸国の筑波山神社+中禅寺であり、ここ日光の二荒山神社+現・輪王寺です。

そして日光については、天海上人が「もともと一緒だったんだから、また一緒にしようよ」と言って、現・二荒山神社のある場所に、現・輪王寺と現・二荒山神社という、2つの寺社を移したのだろうなと。

でも明治維新で王政復古した新政権では、どうにか住民……国民の心を新政権……つまりは天皇に結集させたいですよね。それには、徳川幕府によって構築された神仏習合のスタイルは、具合が悪いわけです。そこで今度は、神仏分離をコンセプトにします。今まで、神と仏は一緒だとしていたけど、実は神のほうが尊いんだよと。その神が、江戸時代の頃のように、仏の下に位置するような扱いをするのは不敬ではないか! と。

(よく理解せずに書くのですが…)「日本の神は仏が姿を変えて現れたものである」とする本地垂迹説ほんちすいじゃくせつに対して、その逆の「神が主で仏が従う」と考える神本仏迹説しんぽんぶつじゃくせつ、反本地垂迹説ほんちすいじゃくせつだったり、そのほか天皇をより篤く敬う尊王思想は、江戸時代でも盛り上がりをみせていました。そのトレンドの中で、反幕府や倒幕が進んだり、明治維新後はさらに先鋭化させた、神仏分離令や廃仏毀釈へと進ませたのかもしれません。
※「神が主で仏が従う」神本仏迹説しんぽんぶつじゃくせつがトレンドとなった鎌倉と明治の両時代ともに、日光山では神仏が分離されたのは、偶然ではないような気がしますね。鎌倉期も明治期も、二荒山神社と隣接していた(鎌倉当時は四本龍寺だった)輪王寺が分離して離れた場所に移設されたのです。

輪王寺の本堂「三仏堂」
徳川家光の寄進により正保2年(1645年)に、現・二荒山神社の社務所の場所に竣工した本堂を、明治時代に、そのまま今の場所へ移設したそうです。

まだ、現在の輪王寺のある「場所」について、記したいのですが……今回のnoteはこのへんで。

<参考サイト>
https://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/ikedake/ezu/ja/search?q=%E6%97%A5%E5%85%89

<関連サイト>


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