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科博でやっていたミニ企画展『牧野富太郎と植物を観る眼』……今さらの記録

昨年…2023年12月下旬のある土曜日。東京国立博物館(トーハク)の観覧時間が19時までに延長されたと知ったわたしは、「なに? それじゃあ科博(国立科学博物館)の牧野富太郎のミニ企画展を17時まで見てから、トーハクへ行って見よう」と、上野公園へ出かけていきました。

残念なことに既に終わってしまったのですが、昨年12月19日~今年2024(令和6)年1月8日まで、ミニ企画展『牧野富太郎と植物を観る眼』が開催されていたんです。会期中にnoteしたかったのですが、なんやかんやと先延ばしにしていたら、ミニ企画展が終わってしまっていました……。

基本は、昨年の春頃に、つくばにある科博の植物園で開催されたミニ企画展と同じような感じでした。ただし、既にテレビ放映が終わった後だったからだと思いますが、より、牧野富太郎の人生をベースにして作られた、NHKの朝のテレビ小説『らんまん』を意識した展示内容になっていた気がします。展示されていた解説パネルは同じものでした。

ということで、YouTubeの科博チャンネルで配信された『特別ライブ配信「牧野富太郎と植物を観る眼」』を改めて見ながら、科博の本館で開催されたミニ企画展を振り返ろうと思います。←特別ライブ配信では、連続テレビ小説『らんまん』の植物監修者である、同館の田中伸幸さんが説明してくれています。


■日本全国を回って植物を採集した牧野富太郎

牧野富太郎は、高知県の佐川町で生まれました。そこでの幼少期の自然への興味が、彼の植物学への情熱を育み、その後の活動の原点となりました。その後の牧野は、上京して東京帝国大学の植物学教室に出入りし……または追放されたり出戻ったりしつつ、日本の植物学の発展に寄与していきます。

植物学教室では、海外で学んだ知識をもとに東京帝国大学で近代植物学の基礎を築く一翼を担った植物学者、谷田部良吉や松村人造といった先達の影響を受け、日本の植物の研究に貢献しています。

牧野富太郎が、ほかの植物学者と大きくことなったのは、単に研究室での研究に終始せず、たびたび自らが日本全国を回って、植物採集をしていたことです。また、植物学者の後進を育てただけでなく、全国に「牧野植物ネットワーク」と呼ぶべき、植物愛好家によるサークルを形成していったことです。

ヤマザクラの標本は、牧野富太郎が現在の東京国立博物館(トーハク……東京帝室博物館)の庭園で採取したものです
(採者)牧野富太郎
東京帝室博物館園内 明治四十一年四月十五日
「東京博物館」とは、国立科学博物館の前進の博物館です
牧野富太郎が「大珍品の蘭」と大書した、故郷の土佐横倉山で採取したコオロギラン
富太郎が大興奮していた様子がうかがえます
明治二十九年四月二十三日に、高知県の佐川で採取されたバイカオウレン

そうした活動により、牧野富太郎は、約3000種類の標本を収集し、東京帝国大学標本室の基礎を築き上げます。同時に、日本産植物の研究と学名の命名に尽力し、新種の発表や植物学の研究発表の場を作り出し、日本の植物学の発展に大きく貢献したのです。

■緻密で美しい植物画で、多くの人に興味を抱かせた

牧野富太郎は、その種の基準となるタイプ標本の重要性と当時の日本の植物学研究の困難さを克服し、西洋の植物学に先んじて日本産植物を、緻密で美しい植物図とともに詳細に記載し、その普及活動を通じて日本の植物学の発展に大きく貢献しました。つまりは、誰よりも……特に外国人に負けない速さで、日本人の手で(できれば自分の手で)新種を発表していくことを重視したということです。

昭和初期には植物の同好会が全国で広がり、牧野富太郎の指導のもとで理科の先生や研究者が植物観察を通じて新種の発見や植物の普及活動に貢献しまたした。そして全国規模で植物同好会が形成されていき、牧野富太郎の日本植物図鑑が植物学の普及に大きな寄与を果たしました。

『牧野日本植物図鑑 第5版』所蔵:国立科学博物館
牧野によって編纂された 『牧野日本植物図鑑』の第5版。膨大な標本と、詳細な観察に基づく図解によって得られた知見は、図鑑にまとめられて出版され、日本の植物学の礎となりました。初版は1940年出版ですが、展示してあるのは1948年出版の第5版です。(解説パネルより)

牧野富太郎の普及活動と著書により、日本各地で植物研究者や愛好家が育ち、地方の植物研究にも貢献。彼の趣味と遊びが植物学の普及に繋がり、日本の植物層の詳細な理解と地方の植物誌や図鑑の発展に寄与しました。

牧野富太郎が命名した「ホシザキユキノシタ」
この標本自体は、筑波山の筑波山神社で、2021年に國府方吾郎さんと小幡和男さんが採取したもの
ホシザキユキノシタ
「ホシザキユキノシタ」の論文が書かれている1926年の『植物研究雑誌』
同誌は1916年に牧野富太郎が自費で創刊。1926年頃から、現在の株式会社ツムラの創始者である津村重舎(津村順天堂)の支援を受けて、安定して出版されるようになりました。現在も継続して刊行されています(解説パネルより)
Tnaka Norioさんが2004年に千葉県我孫子市の手賀川で採取した『ヒルムシロ』
牧野富太郎による、ヒルムシロの記載論文が記されている、東京植物学会(現: 日本植物学会)から創刊された『植物学雑誌』の第1巻1号の巻頭。。『植物学雑誌』は 『Journal of Plant Research』として現在も発行されている、日本を代表する植物学の総合学術誌です(解説パネルより)

■ドラマ『らんまん』のために描かれた、米田薫さんによる植物画

ドラマのために植物画家の米田薫さんが描き下ろした植物画が何点か展示されていました。米田さんによれば「植物の特徴を植物学的に正しく描くことを第一にしつつ、主人公の成長に合わせて描きわけていった」としています。さらに普段は使わない蒔絵筆と墨を使って描いたことで、牧野富太郎博士の技術の高さを再認識したとも語っていたそうです。

『万太郎によるキレンゲショウマの植物画』(個人蔵)
「『らんまん』では、万太郎は果実を入手することができなかったため、記載できませんでした。この絵は、果実が手に入ったら描こうとしていることを表現するため、果実のスペースをわざと空けて描かれました」(解説パネルより)
『万太郎によるキレンゲショウマの植物画』(個人蔵)
『万太郎によるヒルムシロの植物画』(個人蔵)
「ヒルムシロは、モデルである牧野富太郎が、生まれ故郷の佐川で近くの村から来た下女に名前を教えてもらった思い出深い植物でした」(解説パネルより)
『万太郎によるヒルムシロの植物画』(個人蔵)
『万太郎によるスエコザサの植物画(彩色)』(個人蔵)
「最終回で登場した寿恵子夫人に献名されたササの新種。この植物画は、ドラマのために制作されたもので、実際の『牧野日本植物図鑑』 にはスエコザサは掲載されていません」
『万太郎によるスエコザサの植物画(彩色)』(個人蔵)
『万太郎によるスエコザサの植物画(彩色)』(個人蔵)
『万太郎によるスエコザサの植物画』(個人蔵)

■本物そっくりの植物レプリカ

どうやらドラマでは、植物のレプリカも使われていたようです。

バイカオウレン(練馬区立牧野記念庭園蔵)
ムジナモ(練馬区立牧野記念庭園蔵)
ヤッコソウ(練馬区立牧野記念庭園蔵)
マルバマンネングサ(練馬区立牧野記念庭園蔵)
ムラサキカタバミ(練馬区立牧野記念庭園蔵)

博物館の植物レプリカは、本物の型を取り、模型職人が塩化ビニールで作成しています。この中で、わたしが実際に見たことがあるのはムラサキカタバミだけですが……おそらく見たことのない日本人はいないでしょう……数メートル離れたら、本当に見分けがつかないくらいにリアルな作りでした。

■ミニ企画展の隣の常設展には、顕微鏡がズラリ

以上で、ミニ企画展『牧野富太郎と植物を観る眼』は終了です。見て回るだけであれば5〜10分もあれば十分だったでしょうね。同展が開催されていたのは、上空から見ると飛行機の形をした国立科学博物館の日本館。その主翼の真ん中の部分にあたる場所の1階においてでした。右側の翼にあたる部屋では、現在の植物画展が開催されていて……ほんとこれ小学生や中学生が描いたのか!?……というような素晴らしい作品がたくさん観られました。

その逆…左側の翼にあたる常設展示室には、牧野富太郎のミニ企画展が終わってからも、変わらずに顕微鏡や望遠鏡、時計などが展示されています。

「生物顕微鏡 昭和号GK」和田医学史料館旧蔵品

わたしが使っているカメラは、iPhoneもしくはオリンパスのPen Fデジタルなのですが、そのオリンパスの前進である高千穂製作所が作った「生物顕微鏡 昭和号GK」だけを紹介しておきます。オリンパスは今でも胃カメラなど、専門家が使うカメラで有名ですね。残念ながら一般向けのデジタルカメラ部門は苦戦を強いられて、数年前にオリンパス本社から分離。OMデジタルソリューションズ株式会社と名前を変えてしまいました。PENシリーズが大好きなわたしは、できれば「PENデジタルソリューションズ株式会社」にしてほしかったのですが……PENよりもOMファンの方が多いんでしょうね。早くPENの最新モデルが発売されないかなぁ……開発していますよね?(と、誰にともなく)

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