ショートショート エレベータ
*はじめに
この物語は、フィクションです。
登場する人物は架空であり、
実在しません。
*
私はこのマンションに越してきて、
1年程経つ。
10階建てマンションの5階。
角部屋だ。
私は身体を患っており、
少しでも静かで環境の良い所に
住みたかった。
毎日、朝早くに日課の散歩に出かけて、
季節の移り変わりを感じながら、
独り静かに暮らしていた。
あの人に出会うまでは。
*
その人に出会ったのは、
まだ梅雨に入る少し前のことだった。
エレベータを待っていると、
着いたエレベータから
その人は現れた。
細身の体に、緑色のワンピースを着て、
長い黒髪が腰まで垂れて、
歩くたびに揺れていた。
私は初めて見る彼女に
目を奪われながら、
目を奪われてはいけない
自制心と闘っていた。
そんな私をすれ違いざまに、
目で会釈をして通り過ぎる。
茫然と見送る私。
気がつくと、
彼女は一度も振り返ることなく、
私の階の反対側の角部屋へと
入って行った。
私は待っていたエレベータが
他の階に行ってしまったことにも
気づかずにいた。
*
僕はこのマンションの5階に住んでいる。
大学2年生。
ここは大学が近くて便利だ。
このマンションには4月から住み始めた。
住み始めて少しして、顔見知りが出来た。
緑のワンピースを着た女性。
白髪の老人。
小さな子供たち。
彼らも同じマンション5階に住んでいる。
初め、緑のワンピースの人と
何度かすれ違ったときには、
綺麗な人だとは思ったけれど、
あまり気にはならなかった。
次に、白髪の老人とすれ違う。
見かけない人なので、
何処の人かと思えば、
綺麗な人と同じ部屋に入る。
しばらくして、
また老人を見かけたときには、
小さな子供たちを連れて部屋に
向かっていた。
詮索するつもりはないけれど、
何か不自然さを感じる。
彼ら以外に
その部屋の住人を見ないから。
*
それからしばらくして、梅雨に入り、
雨ばかりの日が続いた。
私は日課の散歩に出かけようと、
エレベータを待っていた。
やってきたエレベータに乗ろうとするとき、
忘れかけていたあの人が、
エレベータに向かって歩いてきた。
でも、あの人は、
私がエレベータを待ってることが分かると、
階段の方へ足を向けて、
エレベータには乗ってこない。
私は少しがっかりして、
下へ降りるボタンを押した。
下へ降りていくエレベータの窓から
階段で降りるあの人を見て、
私は少し寂しくなった。
*
僕は買い物にいこうとエレベータの
下へ降りるボタンを押した。
エレベータの階表示は1階となっている。
しばらく待っていると、1階から僕のいる
5階にエレベータが上がってくる。
例の夫婦らしき人たちが住んでいる部屋の
反対側の角部屋も僕と同じく独り暮らしの
男性が住んでいる。
僕の部屋は5階の真ん中あたりにあるから、
ときどき彼とエレベータ前で会う。
なにも会話しないけれど、
どことなく辛気くさい奴だと
思っていた。
僕を見て、少し会釈をして、
前を向く。
ただそれだけのことで、
それだけの関係だ。
気がつくと、
エレベータが着いていた。
僕は乗り込んだ。
*
私はこのマンションに独りで住んで、
独りで生活している。
逃げ出したくなる現実から、
逃げ出そうとして、
ここに住んでいた。
騙されていても、
馬鹿にされていても、
粗略に扱われていても、
仲間はずれが常でも、
そんな人たちとの関わりが、
私を支えていたときがあった。
でもそれは、
自分を傷つけるだけで、
自分の価値を低くして、
自信など何処にも無くなってしまい、
気づけば私は、
身体を患うほどに追い込まれていた。
全ての関係を絶って、
どこかの無人島にでも行ければ、
すっきりとするのだろうけど、
そうもいかないので、
誰にも何も言わずに、
このマンションに越してきた。
1年以上が経過し、
そろそろ体調も戻り、
仕事にも戻れそうかと思っていた時に、
あの人に出会ったのだ。
*
また僕はエレベータに乗る。
特に用はない。
用がなくたってエレベータには乗る。
少し暑くなってきたので、
Tシャツに短パン、ビーチサンダル、
家の中にいたそのままの恰好で、
気軽に外に出てきた。
あれから数回、緑のワンピースの女性
を見かけた。あれは夫婦なのだろうか。
未だに僕にはわからない。
一度だけ見かけた子供たちは、
その後は姿を見かけない。
緑のワンピースの女性と白髪の老人が
一緒に歩いている姿も見ない。
あの部屋に吸い込まれてしまったよう。
あの奥の部屋には何があるのか。
僕がそんなことを考えてエレベータを
待ってると、
閉じたエレベータの
窓ガラスに、
僕の後ろに、
緑のワンピースの女性が映って見えた。
*
1年以上、
ほとんど人との関わりなく、
そのおかげで、安定はしたものの、
寂しくもあった。
蝉の声が聞こえてくる季節になり、
夏の暑さで散歩も控えていたこともあって、
あの人にも会うことがなくなった。
会ったところで、
エレベータですれ違うだけで、
声を掛け合うことすら無い。
こんな希薄な関係でも、
私には必要な関係だった。
そんな関係で、
私には十分すぎた。
*
虫の声が聞える季節となり、
相変らず昼間は暑いけれど、
夜は涼しく、過ごしやすくなっていた。
エレベータを待っていた時に
ときどき会うことがあった大学生らしき
人は、いつの頃からか見かけなくなった。
私は人との関わりが極端に少ない生活を
していたせいもあり少し気になっていた。
それから何日かして、救急車が私の住む
マンションにやって来て、5階が騒がしく
なった。警官もうろついている。
私は関わらないようにずっと部屋にいたが、
インターホンが鳴って、出てみると、
警官が立っていた。
この階に住んでいた大学生の両親から
マンションの管理人に、ここ1~2ヵ月
連絡が取れないので部屋を見てもらえないか
と相談があり、警察に通報したらしい。
一般的な職務質問ですが、と前置きをして、
私と大学生の関係や、大学生の様子や、
変わったことがなかったかなどを聞いてきた。
その質問に答えながら、なんとなく、
事情がわかった。
大学生はいなくなったらしい。
どうしていなくなったのか、
誰にもわからないという。
もちろん、私にもわかるはずはなく、
エレベータでたまにすれ違う程度で、
あまり話しもしたことがないと伝えると、
一通りの質問を終えて満足した警官は
お礼を述べて玄関のドアを閉めた。
ドア越しに様子を見ていると、
どうやら隣の部屋でも同じ質問を
しているらしかった。
*
部屋に戻った私は、
ソファーに座りながら
何かの違和感を覚えた。
この違和感はなんだろう。
ぼんやりと淹れたてのお茶を
飲んでいるときに、
ふと、思い当たる。
そういえば、
あの人と会わなくなったのは
いつ頃だろうか。
大学生と会わなくなったのは
いつ頃だろうか。
あの奥の部屋が空き部屋になったのは、
いつ頃だろうか。
あのふたりは
どこにいってしまったのだろうか。
*
なぜ神さまは、
人を、
独りで生きられない生き物に
創り給うたのだろう。
私たちは、
今日生きていることが
当たり前となって、
当たり前に生きられるために
社会があって、
枠組みの中で守られて
生かされている。
私たちはこの社会に
生かされていて、
社会の枠組みを守るために、
友達や、恋人や、
夫婦や、家族は、
必要不可欠なものと
教え込まれる。
ここから少しでもはみ出ると、
社会の隅に追いやられる。
私のように。
あの人のように。
なぜあの人は大学生を選んだのか、
なぜ私は、選ばれなかったのか、
私はずっと考えている。
*
今日も私はエレベータに向かう。
あの人がエレベータから
現れることを期待して。
あの人の住む世界に、
私を連れ去ってくれることを願って。