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エッセイ 蝶の夢

僕は古本屋が大好き。休みの度にいく。
いろんな本に出会えるからだ。

少し前に近くの古本屋で高橋留美子の
「うる星やつら」を見つけた。

古本屋では、あまり見かけない。
懐かしくて、全巻揃えてしまった。

毎回繰り広げられるハチャメチャな内容が
とても好きだった。

アニメも放映していたけれど、
当時は1家庭にTVが1台の時代。
僕がチャンネルを合わせると父親は
とても嫌な顔をしていた。

思春期真っ只中だった僕は、
有無を言わせず見ていたけれど、
やはり空気が気まずくて、
特にラブコメ要素が強くなると、
シャイな僕は、恥ずかしくて
見てられなかった。

そんな記憶も今は懐かしい。

「うる星やつら」で思い出すのは、
映画「うる星やつら2 ビューティフル・
ドリーマー」。
押井守が監督した映画で、当時話題だった。

僕の実家の田舎には映画館がなくて、
電車で1時間程の街に行かないと観れ
なかった。
一人で観に行ったのを覚えている。

映画の中で、夢邪鬼という妖怪がいう。

「蝶になった夢を見た男が、
目を覚ますと、考え込んでしまう。
いったい、自分が蝶となった夢を
見たのだろうか、それとも、蝶が自分に
なった夢を見ているのだろうか。
果たしてどっちだろう。」
                   
この話しには原本がある。
荘子の「胡蝶の夢」だ。
次のように記載されている。

むかし、
荘周は自分が蝶になった夢を見た。
楽しく飛びまわる蝶になりきって、
のびのびと快適であったろう。
自分が荘周であることを自覚しなかった。
ところが、ふと目がさめてみると、
まぎれもなく荘周である。
いったい荘周が蝶となった夢を見た
のだろうか。
それとも蝶が荘周になった夢を見ている
のだろうか。
荘周と蝶とは、きっと区別があるだろう。
こうした移行を物化ぶつか
(すなわち万物の変化)と名づけるのだ。

岩波文庫 荘子 第一冊
『内篇』斉物論篇第二 金谷治訳注

昔、映画を一人で観に
行った僕。

それを想い出す僕。

これが胡蝶の夢ならば、

昔の僕を想い出すとき、
僕は蝶の夢を見ている。

そして、

今ここにいる僕は、
昔の僕が見ている夢
かもしれない。

そういえば、
振り返る過去の出来事は
どれもが淡く、頼りない。

しがみついてきたものも、
手を離せてしまえそう。

これが胡蝶の夢ならば、

すべてを忘れて、
めてしまいたい。

醒めてしまいたい。


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