「君は人の魂を舐めたことがある?」
聖が話しかけてきたことを、今でも鮮やかに覚えている。春になったばかりのある日曜日、いつも通っていた近所の図書館で、聖は濃紺のうつろな瞳でわたしの方をじっと見つめていた。午後の少しだけ気だるくそれでいて神聖な光が、レースのカーテン越しにわたしと聖を暖めていた。そこだけ神様か悪魔が切り取ったみたいに。さわやかな呪いをかけられたようにわたしと聖の座っているあたりだけ、時の干渉をまぬがれているようだった。
「えっと……」
わたしが困ったように口ごもっていると、聖は急に微笑んで、ささやいた
「なんてね。」
「あの……」
「君いつも日曜日この図書館にいない?俺もたまに来るんだけど、いつもいるからさ。なんか話してみたくなって。」
カーテン越しの光のプリズムが飛び散って、わたしは初めて世界の瞳を、その時見つめた。
「えっと…わたしは絵梨。よろしくね。あなたは?」
「俺は聖。よろしく。絵梨は本が好きなの?それとも一人が好きなの?」
「何それ! まあ一人が好きなのは本当だけで… ただ私を守りたいだけ。私を守れるのは私しかいないからさ。綺麗に翼を広げたいの。」
「そっか。僕はただね傍観していたいんだ。この世界を。だって本当にたくさんの出来事が起こるからさ。それを枠の外から見ていたいんだ。だから僕は群れないし、寂しくもない。」
「そう。で何だっけ?魂を舐めるとか何とか…」
「そうだなー。僕は人の魂を舐めたことがあるんだ。それはとても強烈な味がするんだよ。人によって全然違うんだけどさ。僕は感じたかったんだよね。彼の見た世界を。だから彼の魂を舐めた。悪魔なんかに独り占めさせない。」
「へー。それで、魂を舐めるとどうなるっていうの? できるんなら私も舐めてみたいよ。私のことからかってないよね?」
「うーん。きっとできるさ… 僕はね。見たいんだ。空が割れると、誰にでも等しく割れるとこ。僕はだから… まあ絵梨は大丈夫さ。きっと…」
「えっと…」
白を基調にわざと取り繕われたオフィスで、文字盤のない短針と長針だけの時計が5時を指していた。ようやくデザインの修正が終わり、納品データをメールで送った。デスクの横になった美容ドリンクを飲み干し、私はデスクに突っ伏した。気取って温かさの欠片もないオフィスは、私の孤独を嫌というほど呼び起こす。でも凍った果実のように美しいその孤独は、私を純度100%絶望への入り口に連れて行ってくれる。私はあの日からずっと純度100%の絶望を目指していたのかもしれない。
「おい!できたかー」
瀬崎さんの下品な声で、私の孤独は砕け散った。
「あっはい。終わりました。納品メールもしました」
「そうか。よくやった。でも今度からはもっと早めに納品しろよー。」
アルコールの濁った匂いをオフィス中に撒き散らしながら、瀬崎さんは白とグレーのストライプのソファーで眠ってしまった。
「あーあ」
私は渇いたため息をつき、このオフィスに残されてる最後の清廉さや清々しさを、吸い込んだ。荷物をまとめオフィスを出ると、もう朝日が出て見慣れたはずの帰り道をゆらゆらと染め上げて、私を物語の主人公にしようとしてくる。この時間は人通りも少なく、世界と二人だけで対話しているような、そんな不思議な感覚になる。生ぬるくこみ上げてくる情熱を弄びながら、私はオフィスから徒歩20分のアパートを目指した。
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