こっちの私とあっちの私
「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」
を観ました。
「全てまったく同時にある」という意味でしょうか。
自分の可能性を広げるイメージが鑑賞後に湧き起こり、元気になれる映画でした。
パラレルシフトとか
並行世界とか
マルチバースとか
タイムリープとか
大好物なもので…
パラレルの私が世界的に有名な歌手だったら
どんな人生なのだろう。
私には無限の可能性があり、
それは今この瞬間の選択によって枝分かれして、
あんな私。
こんな私。
あり得たかもしれない私が
いるかもしれないし、いないかもしれない。
並行世界映画好きが影響して
私は時々、
他者は全てパラレルの私なのではないか。
と想像するのですが、
今すれ違った名も知らぬ誰かが他人とは思えなくなり、
なんでもない日常が面白い遊びとなるのでした。
∞
あり得たかもしれない様々な人生について描かれた2009年の映画「ミスター・ノーバディ」を観た時に感じたほどの衝撃は、この映画には感じられなかったのですが、
まさかの、
選択によっては有機的な生き物ではないライフもあり得る点が描かれていたのはとっても好みでした。
そういえば私は先日、
箪笥の下敷きになっているフローリングの板材の気持ちになってみたことがありました。
せっかくフローリングとしてのライフを生きていこうとしていた矢先、自分の真上に箪笥を置かれてしまったら落ち込むだろうな〜
いや、日焼けしなくて済むから気楽か。
とか、
とか。
くだらない妄想は止まりません。
話がずれました。
以下映画のネタバレ含みます。
この映画の中で、
こっちの私はただの主婦だけど、
パラレルの私はカンフーの達人なので、
こっちの私がカンフーを使えるようにするために、
とりあえず突拍子もないことをやるとそれが呼び水となって、カンフー的なふるまいができるようになる。
というルールがあります。
左右逆に靴を履いたり、時にはお漏らししたり(!)と、主人公はかなり突拍子もない事をして窮地を脱するのですが、これ、現実でも近いことはありますよね。
行き詰まった思考を打破したい時、
ルーティン外のことをしてみよう。
とかそうですよね。
お漏らしするほど突拍子もない事をしなくても現実はまあまあ優しいとは思うのですが(笑)
現実をハックするために必要なエッセンスは、ちょっぴり下品でトリッキーな映画の中にも散りばめられているんだなー。良き良き。
とポップコーンを噛み締めながら思った次第です。
大冒険をした結果、今の大切さに気づく、
というすべての人類に共通するであろう感覚が描かれた映画でとても好きです。
ちなみに同じ監督の作品
「スイス・アーミー・マン」も大好きでまた観直したくなりました。
破天荒なテンポがいいんだよなー。