「正しさ」は歪みやすい

自分にとっての正しさだけを押し付けあって、
わざわざ歪めていっている人達もいる。
よくやれるもんだなあ……と思う。


・正しいという基準は、あってもいい

ただし、その「正しさ」は万物に適用される不変のものか、
となってくると、そこには何の保証もかからない。
時代によって、
思想によって、
地域によって、
個人によってetc.
基準が異なっている可能性がある。
統一された規格ではない。
だから、すれ違うこともあれば、相容れないこともある。
ぶつかり合いも、争いも、生まれえる。
絶対的なものさしではないのだ。


・正しくあるためには苦しまなければならないのか

そんなことはない。

「正しくあらねばならない」になったら、
それはもう「正しさ」への執着になっている。
執着になれば、正しくあろうと「する」し、苦しくなる。

自己への否定や強制でもあるからだ。
「自分は正しくあれていない」と感じるからこそ、
「正しくなければならない」が生まれるし、
「正しいもの・こと」であったとしても、
それを強制されれば苦しくなるし、
正しいはずのことなのに、反発が生まれてしまう。
他人から命令されているようなものだ。

それは、もう少し、やり方を見直す所だと思う。


・ちょっと待って!
 その正しさ、自分用の免罪符にしてませんか?

「自分は正しい」と考えるのは、
まあ、別にいいんじゃないだろうか。
ただし「だから何をしてもいい」となるのなら、
それはただの傲慢。
それとこれとは別なのだ、という理解がいる。
正しくあるためには、してはいけない行為もある。

ここを履き違えて、
「個人の中の正義像」の元に暴力を振るえるのならば、
もはや、ただの暴徒より、はるかにたちが悪い。
それは掲げる錦の御旗を持ってしまった正義教の狂信者だ。

自分の中の正しさに執着し、
周りの異なる意見に耳を貸さなければ、それは狭量。
他者の意見を考慮するだけの器量が無い状態だ。

「自分は、間違っているあなたの意見を聞かない。
 だが、あなたは自分の意見を聞け。
 自分の意見は絶対に正しい。
 だから、あなたの間違いを直すために言う」

に対してYesを求めて、望んだ通りにYesは返ってくるだろうか?
冷静になって考えてみてほしい。
ただ横暴な人間がそこにいるだけ、ではないだろうか。



他者への理解も尊重もない正しさ、ってなんだろうね。
「正しいこと」って、攻撃用の武器だっけ?
そんなものではなかった、と思うのだけども。

言い張って相手を殴り殺せれば、
それが正しいということになるの?

おかしいね。
おかしいよ。

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