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テキヤの親分の家とアッくんのこと



子供の頃、町内にテキヤの親分の家があった。線路沿いの湿地の際に建った平屋で、台所の外に大きなプロパンガスのボンベが鎖で繋がれてあった。

豪邸とは程遠いその家の脇の泥濘んだ空き地には、焼きそばなんかの道具を積んだ軽トラが、いつも二台、停まっていた。

家の主は、チビデブの親分で、普段は甚兵衛やダボシャツを着て、夏はステテコに上半身裸で過ごしていた。全身ではないが、刺青もあった。祭りの時期は、それにねじりハチマキが加わった。

その家の長男は、私の兄と同級生のアッくんと呼ばれるガキンチョだった。その妹は私の一学年下だったから、テキヤの親分の家というよりも、友達の家という感覚だった。

人の出入りが激しく、いつも料理の匂いが漏れてきた。「毎日、若い衆にご飯を食べさせるから、かーちゃんは大変なんだ」と、アッくんが言っていた。

アッくんのところの若い衆は、色々なお寺や神社の縁日に屋台を出していた。やっぱりダボシャツに腹巻、雪駄履きが多かった。中にはその格好にサングラスをかけている者もいた。

普段はそんな恰好の若い衆も、なにかあると、黒い背広の上下に黒いワイシャツに赤いネクタイなんかして、家の前に整列した。その真中を、やっぱり背広の上下を着たチビデブの親分が通って、道路に停めた黒いセドリックの後部座席に乗って、どこかに行くのだった。セドリックが角を曲がって見えなくなるまで、若い衆は頭を下げているのだった。

アッくんは、我が家に泊まりに来たりしていたから、兄とはそれなりに親しかったのだと思う。逆に、アッくんの家に兄が泊まりに行ったことはなかったと思う。アッくんの家には常に若い衆がいるので、子供のいる場所がなく、私も含めて、子どもたちの間では不評だった。

アッくんは小学生の頃から、小太りで、父親そっくりの体形をしていた。いつもみんなの後にくっついてくるお調子者で、すごいおしゃべりだったから、親分肌とは程遠い落ち着きのない子供だった。ただ、子供同士で喧嘩があると、アッくんが間に入って、とりなして、ナァナァにすることがよくあった。

アッくんは兄の同級生だったが、私とも、小学校、中学校、高校が一緒だった。私が高校に入学した時、3年生だったアッくんは、周囲からアツシさんと呼ばれていたのでビックリした。

高校卒業後、アッくんは稼業は継がずに、自衛隊に入った。一度、制服を着て、我が家に挨拶に来た事がある。その日、我が家には高校生の私と母がいた。兄は大学で他県に住んでいた。

アッくんは、スポーツ刈りよりも短髪になっていて、頭の凸凹がはっきりとわかって、そんな頭の形をしていたのかと、私には新鮮に見えた。

それが記憶にあるアッくんを見た最後だ。それ以降は、一度も会っていないと思う。

その頃、アッくんの母親は、近所でスナックを始めていた。若い衆のご飯はどうなっていたのだろうか。旦那の収入が頼りにならなくて、スナックを始めたのだろうか。1970年代の後半のことだから、テキヤ家業もまだ羽振りが良かった気がするが、実情は違っていたのかもしれない。

そのスナックには、私の母の友人の独身女性のハッちゃんや、町内の私の同級生のH君の母親などが、働いていた。一度、母に頼まれて、そのスナックに何かを届けに行ったことがある。

開店前で、店の表でアッくんのお母さんが箒で掃除をしていた。茶色に髪を染めて、お化粧のニオイがずいぶんとした。アッくんのお母さんは、中にいるよ、と私を促した。なんでも知っているような素振りだった。

カウンターの中でH君のお母さんが料理をしていた。H君のお父さんが浮気をしていて、母が相談を受けていたのだ。何を届けたのかは、憶えていないが、そこに勤めているハッちゃんには、わからないように、H君のお母さんに直接渡してこいという命令だった。

せっかくだから食べていってとH君のお母さんが、スプーンが斜めに突き刺してある小鉢を出してくれた。クリームシチューだった。何年か経ってから、あれはお通しだったのだなと思い当たった。

高校卒業後、大学生になった私は他の県で一人暮らしを始めた。その数年後、実家に戻って、地元の古い商店の一つで二年ほど働いた。昔から地元の祭りごとや行事には欠かさず後援していた店だ。

その際に、商店街や寺社の敷地では、これからはテキヤには営業させない決まりになったと聞いた。健全化というコトバが使われていた。ちょうど、県だか市が中心になって、廃れていた踊りを復活させて、新たな観光資源に作り替えようとしている時期だった。

縁日の屋台も様変わりした。アッくんの家関係の屋台を見たのも、その頃が最後だ。お寺の境内での屋台は、商店会の若者がやっていた。なんだか文化祭とか学園祭みたいだった。本職のテキヤの屋台は、門の外の、民家の軒先を借りて細々とやっていた。

私は二年ほど地元に勤めて、その後は東京に出た。それからは、年に一度くらいは帰省したが、アッくんの家のことなど気にしなかった。気が付いたら、アッくんの家は、跡形もなくなっていた。

家は建て壊され、湿地ごと埋め立てられ、更地になっていたのだ。母に訊いたら、アッくんの実家は、市内の北の方に、家を買って引っ越したのだと言う。スナックもH君の母親に譲られていた。

アッくんの妹が、お金のある人と結婚し、家を買ったのだと言う。そこにアッくんの母親も同居しているのだと言う。親分も一緒なのかと訊いたら、親分はずいぶん前から県南の市に、子分たちと住んでいると言う。

その後、テキ屋の仕事がどうなったのかは、わからない。親分もアッくんのお母さんも、今では生きているのかさえわからない。かつて兄が、自衛隊員になったアッくんは、十年くらい勤めてやめたらしいと言っていた。その後は、建設重機の仕事をしていたらしいぞ、と言うが、詳しいことはわからなかった。

アッくんは兄の同級生だから、2024年の今年には、65歳になっている。孫が数人いてもおかしくない年齢だ。兄によると同窓会にも出て来ないそうだ。連絡先は分かるのかと聞いたら「どーかなあ、俺は知らない」というテキトーな返事が返ってきた。それも、10年くらい前のハナシだ。

あのスナックは、営業はしていないが、一昨年まで建物が残っていた。H君の母親は亡くなり、ハッチャンは、施設に入っている。



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